第二話 灯台もと暗し
「灯台もと暗し」。
イサムはこのことわざがあまり好きではない。
なんだか言い訳じみて聞こえるからだ。
身近なもののことすら把握できていないなんて、単なる管理不行き届きでしかない。「千里の道も一歩から」という言葉にあるように、自分の身辺をおろそかにすべきではない——と、思っていた。
たった今、失くしたと思っていた自由帳を自室の押し入れの中から見つけるまでは。
無邪気な表情のドラえもんの表紙。
使われているのはたったの一ページ。
あの日、図書室であの子と二人で考えた「異世界に行く方法」である。
「こんなところにあったんだ……」
折れ曲がってしまっているページを伸ばしながら、イサムはぼそりとつぶやいた。
押し入れを漁っていたのは、どこかにしまい込んだはずの理科の参考書を探していたからだったのだが、そんなことはとうに頭から消えて。
壁に貼られた「夏は受験の天王山」という塾のポスターに背を向けるように座り、イサムは自由帳を呆然と見つめる。
もう二度と見つかることはないと思っていた。
見つけたくないとも思っていた。
三年前。スミレが行方不明になったあの日。
彼女を最後に目撃したのはイサムだった。
図書室で、ではない。
台風が来そうだから早く帰りなさいと先生に言われ、二人は一度家に帰っている。
だが、その後。夕飯どきの雨風が強まる中、スミレがイサムの家を訪ねてきたのだ。
びしょ濡れで、泣き腫らした目で、彼女は「今から異世界に行こう」と言った。
子どもながらただごとではないと察したイサムは、一度家に上がるよう促したのだが、彼女は「異世界に行く」の一点張り。そうしている間にもどんどん天気は荒れてきて、焦ったイサムは思わず「異世界なんてないんだよ」と言ってしまった。
それが、いけなかった。
——いっしょに行ってくれるって言ったのに。イサムのうそつき……!
自由帳をイサムに叩きつけ、彼女は嵐の中に消えていった。
イサムは彼女を追いかけられなかった。
最悪な形で彼女を傷つけてしまったことがショックで、頭が真っ白になってしまったのだ。
それでもまだ、心のどこかでは異世界なんてものを信じている彼女を馬鹿にする冷たい自分がいた。異世界になんて行けるわけがない。こんな天気だ、あの子もそのうち観念して家に帰るだろうと、何度も自分に言い聞かせた。
だが、彼女は帰らなかった。
そのままどこかへ消えてしまった。
何人もの大人たちが必死になって探しても、手がかりすら見つからない日々が続いた。
一度だけ、イサムはこの自由帳を親に見せたことがある。
少しでも捜索のヒントになればと思い、あの日彼女と「異世界に行く方法」を一緒に考えたことを勇気を出して包み隠さず話したのだ。
——こんな話ありえないかもしれないけど……スミレちゃんは、もしかしたら異世界に行っちゃったんじゃないかって……。
優しい両親は、イサムの言うことを否定しなかった。
最後まで話を聞き終えると、イサムをぎゅっと抱きしめた。
——かわいそうに。お友だちがいなくなってしまったことがよほどショックなのね。
——辛かったな、イサム。父さんの同級生に子ども向けの心のお医者さんがいるから、明日母さんと一緒にカウンセリングに行ってきなさい。スミレちゃんのことは大人たちに任せておけばいいから。な?
両親の言葉に、急に夢から覚めたような心地だった。
確かに自分は何を言っているのだろう。
いくら見つからないからって、異世界の存在を信じるのはあまりに非科学的だ。
子どもの自分にできるのはここまで。
あとは父親の言う通り、大人に託すしかない。
現実的に考えれば、そうする他なかった。
それ以来だ。
イサムは自由帳のことも、異世界のことも、心の奥底にしまってしまった。
ただ、いつまで経ってもスミレを見つけられない大人たちや、彼女の存在を忘れ始めた同級生たちには無性に腹が立って、イサムは家族と学校の先生以外とはあまり話さなくなっていった。
子どもらしい遊びはせず、休み時間も放課後もひたすら受験勉強に打ち込んだ。誰よりも賢くなって、良い学校に入って、早く大人になって、自力で彼女を探し出す力を手に入れたい。その一心で、没頭していた。
そうしていないと、あの時彼女を追いかけられなかった後悔で頭の中が埋め尽くされてしまいそうだったから……。
急に強くなった雨がビタタタッと窓を打ち、イサムはハッと我に返った。
耳をすませば、時折笛を鳴らしているかのような激しい風の
……偶然、なのだろうか。
イサムは手元の自由帳を見つめる。
今日もまた、あの日のように台風が近づいている。
カーテンを開け、外の景色に目を凝らしてみた。
まだ陽が落ちる時間ではないが、空は分厚い雲に覆われて薄暗い。横殴りの雨が降り、お隣の庭に植えられたみかんの木が今にも折れそうなくらい曲がっている。
こんな天気の中、スミレはわざわざイサムを訪ねてきた。危ないことくらい分かっていたはずだ。それだけ必死だった。異世界にすがらなければいけないほどの何かがあったのだ。なのに、自分は……。
ゴツン。窓に額をぶつける。
じんとした痛みが悪い方、悪い方へと考える頭を強制停止させる。
後悔していたって何も変わらない。
変える力を得るために、勉強すると決めたはずだ。
机に戻ろうとしたその時。
窓の向こうで何かがキラリと光るのが見えた。
それは風に揉まれてくるりと宙返りしたかと思うと、風向きの変化とともに勢いよくこちらへ向かってくる。イサムは慌てて窓から飛び退いた。台風の時にこうやって風に飛ばされたものがぶつかって窓ガラスが割れたなんてニュースを見たことがある。
べちゃ!!
反射的に目をつむっていたイサムだったが、ガラスが割れる音ではなく何かが張り付いたような音でまぶたを開けた。
雨風で汚れ、しおれたそれは。
金色の折り紙で作られた紙飛行機だった。
「うそだろ……?」
おそるおそる窓を開け、窓に張り付いた紙飛行機を手に取った。
雨水を吸ってだいぶやわらかくなっている。ここまで原形を保っているのが不思議なくらいだ。
ふと、床に開きっぱなしの自由帳の文字が目に入る。
————————————
二、おり紙に行きたい世界のことを書き、紙ヒコーキにすること。おり紙はだしおしみせず、金色のものを使うべし。
————————————
「まさか……な」
イサムは紙飛行機を破らないようにそっと折り目を開いていく。
外は嵐でうるさいはずなのに、自分の心臓がどくどくと鳴る音だけが聞こえる。
祈るような心地だった。自分でも何を望んでいるかは分からなかったが、とにかくこの紙飛行機に何かを変える力があるような気がして、ふわふわと浮き足立つような感じがあった。
ずいぶん久しぶりのこの感覚——それはかつて、放課後にスミレが作った物語を聞かせてもらっていた時のような、高揚。
紙飛行機が元の四角の折り紙の形に戻る。
内側に折られていた場所に、何やら文字のようなものが書かれている。
日本語でも、英語でもない、見たことのない形の文字。
「なんだこれ……?」
筆跡をなぞるように指で触れる。
すると、謎の文字はインクが滲んだようにぐちゃぐちゃになった。慌てて手を引くイサム。夢でも見ているのだろうか。文字はひとりでにうごめき、やがてイサムがよく知る形へと姿を変えた。
〈このままでは世界がこわれてしまう。だれか、たすけて〉
イサムは短い悲鳴をあげ、思わず尻もちをついた。手放した折り紙がひらひらと落ち、自由帳の横に並ぶ。
驚いたのは、内容よりも筆跡の方だ。
丸っこくって、紙のスペースのわりに小さく書かれたその文字は、スミレのものとそっくりだったのだ。
「世界」の「界」なんて自由帳の字とぴったり一致する。漢字が苦手な彼女は書き順がめちゃくちゃで、「田」の字の囲いを絵で四角を描くように一筆書きしてしまうくせがあった。正しい書き順を何度か教えたが、こっちの方が早いと言って頑なに直そうとしなかったのを覚えている。
目をこすり、ほおをつねり、何度も確かめる。
幻覚じゃない。夢じゃない。
だとしたらこれはなんだ?
彼女が、どこからか助けを求めているということなのか?
「ああ〜〜〜〜〜っ! くそっ!!」
髪をかきむしり、イサムは部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、ガレージに向かう。父親の傘と、自転車のヘルメット。それから段ボールをまとめるのに使っているタコひもを拝借して、今度はリビングにあったお菓子を適当にいくつか選ぶ。
キッチンで夕飯の準備をしていた母親は首をかしげて言った。
「イサム? そんなの持ってどうしたの?」
「ちょっと実験!」
あらまあ、えらいわねえ、なんてのんきな声を背に、イサムは再び階段を駆け上がった。
自室に戻ると、傘を開き、内側の骨をひもで固定して、そこにお菓子をくくりつけていく。
それから押し入れの奥にしまわれていたオモチャ箱を引っ張り出す。中を漁ると……あった。折り紙だ。なかなか使う機会のない金色の折り紙がちゃんと残っている。
イサムはそこに、油性マジックでこう書いた。
〈スミレちゃんがいる世界へ〉
そして、彼女の筆跡が書かれた折り紙と重ねて紙飛行機を折る。
それを傘のてっぺんにくくりつければ、やるべきことはあと一つ。
夏休みに入り、ランドセルに入れっぱなしになっていたリコーダーを取り出して、傘を持ってイサムは静かに玄関に向かった。
キッチンの方では肉の油が爆ぜる音が響いていて、母親はこちらに気づいていなさそうだ。
(ごめん、母さん。これでダメだったら、もう異世界なんて言わないから)
イサムはぎゅっと歯を食いしばり、風がごうごうと吹く外へと出た。
かつてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、こんな言葉を残している。
——科学が全てであると思っている人は、科学者として未熟である。
異世界なんてものは非科学的で、あくまでフィクションの話。それが一般論であるのは間違いない。
だけどもし、本当に存在するという可能性が少しでもあるのなら。
「ありえない」なんて言って目を背けることこそ非科学的だ。
存在するにしろ、しないにしろ、確かめなければいけない。
なんとなく予感がする。
これはきっと最後のチャンスだ。
今行動しなければ、きっと一生後悔し続ける。
やがて、イサムは河原に着いた。
普段は穏やかにゆっくりと流れる川が、泥の色に濁り、今にも溢れんばかりの勢いで流れている。油断すれば呑み込まれてしまいそうだ。
だが、そんな状況にも関わらず、いつもと変わらない様子で川のそばにたたずんでいる青年が一人いた。彼はつぎはぎのローブをなびかせながらゆっくりと振り返り、イサムに気づいて「やあ」とふっと微笑む。
「来ると思っていたよ。君、『そらとぶじゅもん』を知りたいんだろう?」
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