掌編怪談集【あめの蒐集部屋】
あめふらし
小さな歯形
最近、妙なことがある。
朝起きると体のどこかに小さな噛み痕がついているのだ。
大きさにして二センチほどの、本当に小さな小さな歯型。
しかしその歯型は、ネズミや何かーーおよそ人の家で見かけそうな小動物がつける形ではなく、より身近な、見覚えのある、そう、まるで蜜の差したリンゴを一口かじった後につくような、つまりは人間の
はじめに気付いたのは、幼い娘だった。
「ママ、お手手赤ちゃんに噛まれたの?」
何か赤い痣がある、くらいに思っていた私は、娘の一言でそれが歯型であると思い至った。
常識にとらわれない幼子は、サイズが小さいということは赤ん坊のものだ、とシンプルに考えたのだろう。
無論実際のところ、生後間もない赤ん坊であっても、人の子であればそこまで小さな歯型をつけられるはずがない。
詳細に観察してみると、歯の痕は親知らずまで揃った三十二本分。
ただ一つの欠けもなく、粟粒にすら満たない小さな痣が、
不思議と恐れはなかった。
気味は悪いが、この程度の噛み痕がなんだというんだろう。どうせ実害はない、
冷え切った夫婦関係と大量の仕事案件を抱え、娘の顔すら忘れるのではないかという日々を送っていた私は、そう思った。
きっと今の私には、恐れを感じるだけの余裕がないのだ。
日に日に増える痣を撫でさすり、夜間保育から引き取った娘をチャイルドシートに乗せて、今日も帰路につく。
その
隣で眠る娘に目をやる。
と、なんとなく、視界の端がブレたような気がした。
……何か、いる?
小さな何かが、動いている?
その小さな何かは、特段速い動きをしているわけでないが、何故だか私の目はそれを
電気を点けるか? いや、娘を起こしては可哀想だ……。
しかしその考えは杞憂であったらしい。
「赤ちゃん、来てるの?」
やけにハッキリした娘の声が、私に問いかけた。
「赤ちゃん?」
「いつも、夜になるとママのところに来る、ちっちゃな赤ちゃん」
そうして娘の指差す先を見ると、確かにそこには何かの気配があった。
「赤ちゃんは今何してるの?」
「ママを見てる……あ、こっちに来た」
気配が、私でなく娘の方へ動くのが分かる。
見えるわけではない、感じるのだ。
娘の視線が、どんどん近付くその気配を追っている。
その時私は初めて恐怖を感じた。娘を害される、そう思ったのだ。
同時に湧き上がる激しい怒り。
「その子に触れるなっ、このドブネズミが!」
気配のある空間を鋭く手で払うと、それは瞬く間に霧散した。
数週間後、私と夫の離婚が成立した。親権と養育権は私だ。
予てより夫の浮気が原因で離婚調停中だったが、早急に終わらせるべく慰謝料を減額しての決着となった。
夫の相手は会社の後輩。
彼女の入社当初から関係を持っていたようで、遂には妊娠したからと離婚を切り出された。
結局腹の子は流れたが、それでも夫の気持ちは変わらなかった。
私のしたことは無駄であったらしい。
せっかく、誰にも見られず、誰にも気付かれず、アレを突き落とすことができたのに。
憎いアレの子を、この世から葬り去れたのに。
小さな歯型は、今も私の体に増え続けている。
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