第110話 名もなきゴブリン
物心ついた時には糞尿が散らかる藁の上にいた。食事は筋張った噛みきれない肉。噛んでも味がしないのはまだ良い、苦味が伴う肉を食べると翌日は必ず恐ろしい腹痛に襲われた。
「ギャギャギャ」
「ウモーグ」
一緒に産まれた兄弟達は言葉が話せない。でも、何故か俺は言葉が分かる。日を重ねるごとに言葉を覚え、俺はしばらくすると父親よりも賢くなった。
「ゴデハ?」
自分の知識欲を満たすためにローブを着ている者に近づく。労働を対価に知識を与えてはくれるが、そこに感情は伴ってはいない。
「ハンパモノ」
彼等が俺を呼ぶ時は必ずこのように呼んだ。原因は俺の母親だ。俺の父がどこかで攫ってきた人間の女らしい。俺の見た目は兄弟と変わらない。しかし、俺のような無駄な知識を宿す者はいない。同じゴブリンでも中身はまるで違うのだ。
「ギャーーー」
父が俺を威嚇するようになった。食事も俺には渡してくれない。自分の知識が枷となっている事に気づくがもう遅い。俺には……母さんだけだ。
「カアサン」
唯一言葉が通じる母。母は俺と喋る時に嬉しそうにするが必ず目は合わせてくれない。いや、ここにいる誰とも目を合わせようとしてない。ある日どうしても顔を見て貰いたくて母の顔を掴み、俺を真正面から見つめてもらおうとする。
「カアサン!」
「キャーーーー!」
母は狂ったかのように奇声を上げ続ける。いや、もう狂っていたのだ。視線を外す事で現実から目を背けていたのかもしれない。俺たちは妄想の中で人間の家族を演じさせられていたのだ。
「オデハコドクダ」
誰からも相手にされない。誰も俺を愛してくれない。
孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独、孤独。
「オデをスクッテクレルノはチシキダ」
なんでもやった。靴を舐めた、糞尿に塗れた、同族を殺した、煩わしい父も手にかけた。対価で得たものは知識だ。やがてその知識が実を結ぶ。コボルトに追われ、下層で他の魔物に隠れ、劣悪な環境にいた俺が転機を掴んだのだ。コボルトが化け百足と呼ぶ百足の幼生を親より盗む事に成功する。
「オレガオマエタチノ母親だ」
目を縫い。所々に刺激を与える仕掛けを取り付ける。根気よく、餌が足りない時は同族をも餌にした。一年後……。立派に成長した化け百足が六匹。自分の子供達と共に同族を支配し、居心地の良い上層に進出する。
「何なんだお前は」
化け百足を従えて上層に登ると一匹の獣人に出会う。木彫りの鎧に剣を一振りのみ。私の化け百足六匹の前に立ちはだかる。薙ぐだけで数匹のコボルトを瞬殺できる化け百足の前にだ。
「死ね」
一斉に襲いかかる百足。しかし光のように動く獣人に最凶の化け百足が次々に殺されていく。
百足が一掃されかねない、危険な戦いの中で一つの事実にゴブリンは気づく。獣人の男が女子供の集団に特に意識を割いている事に。
すかさずその集団に百足を襲わせる。案の定食いついて来るコボルト。女子供を守りながら化け百足と戦えるはずなく、獣人ははらわたを食いちぎられ、間も無くして絶命する。こちらの被害も出たが最も目障りな獣人を殺せた事に満足を覚える。
「この気持ちは……なんだ」
その後コボルトを上層に追いやり幾つかの階層を占拠する。しかし、いくらコボルトの苦しむ姿を見ても、階層を支配をしても自分の心が満たされる事はない。
――記憶に残っているのはあの圧倒的な力を持った獣人だけだ。
(何故あの獣人だけが記憶に残るのか? 何故、俺は執着をしているのか?)
王の地位は確立した。今は地の利でコボルトを攻めあぐねているが準備もそろそろ終わり、もうすぐ仕上げが始まる。
その時にもう一度あの気持ちはやって来るだろうか?
「ギャギャギャ、ギョエ」
部下より報告が入る。百足の一人が交戦してるとの事。急いで戦闘に向かうと遠目に戦っている姿が見える。閃光の如く戦う姿。……間違いない奴だ。危機感を覚えるのと同時に湧き上がる喜び。自分自身の感情が理解できない。しかし何故か戦闘はすぐに終わる。一分も立たない内に獣人は動かなくなったのだ。
(どういう事だ。しかもあれは……ドラゴン?)
ドラゴンに乗っているのは文献でしか見た事がない人族。人族が操るドラゴンに乗り撤退する獣人。間欠泉に乗り、上階に消える姿を一瞬だがハッキリと確認する。
(……若い。息子か?)
「フフフッ」
またもや湧き上がって来る理解できない感情。……そうか、俺は羨ましかっただ。あの圧倒的な力を持つ獣人が自分の命をかけて守る者を。そして、その者の命を奪う悦びを知った!
「そうか、そうか。俺にはないものに嫉妬していたのか。フフフッ。俺はまたあの喜びを味う事ができる。なんて幸せなんだ」
長い時を経て自分自身を理解する。
「フフフッ」
満足そうに笑うと名無しのゴブリンは大穴を後にした。
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