逃亡
エリシアはベットに顔を伏せて大泣きした。ハンナが背中を擦る。
「お嬢さま…」
「…分からない…どうして…?」
「馬鹿にしてるんでしょう…妻になどする気もないくせに」
「あの人…だって、わ、わたしに」
「エリシア様、今夜のことはお忘れください。何にしろ、あれだけの騒ぎだったのです。マティアス様も当分は来れない筈です。むしろもう出禁にしてほしいくらいですよ。明日、お店に行ってマスターにお願いしてみます」
ハンナは外を見た。くすんだ窓から月の光が射していた。弱々しい光。明日も晴れだろう。泣き続けるエリシアの背中に目を落とした。小さな背中。とても頼りなくて、可哀想な。ハンナにも今日のマティアスの奇行が理解出来なかった。ただ、馬鹿にしているというだけでは、あの方は有能過ぎる。何か裏があるような、そんな予感がした。
翌日、目の腫れたエリシアに冷たい布を渡す。エリシアは鏡を見た。酷い顔、と呟いて目に当てた。
ハンナは昼間、店を訪れた。マスターと数人で荒れたお店の掃除をしていた。今日明日は休業するという。ハンナも手伝おうとするが、マスターは断った。
「それよりお嬢さん大丈夫だったかい?」
「昨日は大泣きしてました」
「可哀想に。初めてだったんだろ?嫁入り前の娘に酷いことしやがる」
「あの、レオンという方、出禁にしてもらえませんか?」
「もうしたよ。出禁だからなって追い出した」
ハンナはほっと胸を撫で下ろした。マスターはエリシアを気遣ってまた来れそうなら来てくれと言ってくれた。
ハンナが外出してすぐにエリシアは屋敷に呼ばれた。例のごとく一人きり。いつもと違うのは執務室でなく、私室に呼ばれたということ。エリシアは警戒しながら部屋に入った。
そこは領主の私室としては質素だった。壁に絵画は一枚もなく、調度品も豪華な装飾も無い、至って質素なものばかりだった。
マティアスは長椅子に腰掛けながら、一枚の書類に目を通していた。エリシアは少し離れて立って待ち、いつものように声がかかるのを全った。ペンをカッと下ろす音。苦手だった。
「婚約者が死んだ。まだ十六だというのに、不憫な者だ」
「…お悔やみ申し上げます」
「心にもないことを」
マティアスは鼻で笑うと、書類を机の上に捨てた。足を組んでふんぞり返っている。
「まぁ私もあんまり悲しくは無いんだがな。真っ当な血筋の跡継ぎが失われたことを嘆いている」
エリシアは傷つかなかった。自分が真っ当な血筋でないのは事実だったし、それよりも何故ここに呼ばれたのか、そちらの方が気になっていた。本当に、夜とは大違いのお方だ。あの結婚の言葉は何だったのか。エリシアは言葉を待った。
「教会の私の署名は空欄のままだ。まだ夫婦ですら無い。神父を買収して取り敢えず夫婦という形にはしているが、意味は分かるな?」
「いざというときに結婚を無効に出来るように、ですね」
「さすが、聡明だ」
マティアスは立ち上がった。顎でしゃくって次の間へ行くように指示した。エリシアは恐る恐る入る。そこは寝室だった。入り口で立ち止まる。後ろ立っていたマティアスが両肩に手を置いた。
「陛下は跡継ぎをお望みだ。実際には継がせなくとも一人くらいは産ませておいた方がいいだろう」
何をされるのか理解して、エリシアはゾッとした。抵抗しようとしたが、しっかり肩を掴まれて動けなかった。
エリシアが小屋に戻ると、ハンナも既に街から戻ってきて、バケットに詰まったたくさんの野菜を見せてくれた。
「エリシア様、見てください。マスターからたくさん貰いました。…エリシア様?」
青い顔をしたエリシアに気づいて、ハンナはバケットを置いて肩を撫でた。エリシアの身体は震えていた。堪えきれず涙が溢れる。よく見ればエリシアの髪や服が乱れていた。ハンナはもしや、と、しかし、言うのははばかられて、彼女がなるべく辛くないように引き寄せて抱きしめた。
家令が火急の知らせを持ってきてエリシアは難を逃れた。
何も無かった。
が、いつまたお呼びがかかるか分からない。エリシアは嗚咽交じりに顛末を話した。
ハンナは気丈な人で、何か決断したかような悟った顔で、棚から茶色い紙を取り出した。
「地図です。山々の地形も詳しく記載されています」
エリシアにはさっぱり分からなかった。ハンナは今何処にいるのかを指で指した。
「ここには街道がありますが、通行手形が必要です。役人を買収して二つ、用意してあります。そこさえ抜ければ、この国から出られます」
そう言って手形を実際に見せてくれた。
「同行させてもらえる商隊を探している暇はありません。関所まで行って、交渉しましょう」
「…ここを出るのね」
「猶予はありません。お嬢さま…よくご無事で戻ってこられました。いつでも無効に出来る結婚など、そんなことに貴女が我慢する必要もありません。教会の許しの無い子でも産まされたら、その子は何者にもなれません。エリシア様…貴女程の実力があればどこでも歓迎されます。お金も貯まっています。大丈夫。私がお供します」
エリシアは無言で頷いた。外を見た。
「ここでの暮らしも気に入っていたのだけれど、冬になったらとてもいられないものね…いつ、出られる?」
「今夜にでも」
「…マスターにだけは、お礼を言っておきたわ」
「ええ、それがよろしいでしょう」
ハンナは何度も大丈夫と言った。深夜、小屋を出る。月の無い夜だった。
思いがけない来客にマスターは驚きつつも歓迎した。
「ハンナに休みだと言っておいた筈だが。さぁ入ってくれ」
「いえ、マスター…オットーさん、今日はお別れを言いに来たんです」
「お別れ?レオンなら出禁にしたぜ」
エリシアは首を横に振った。
「少し事情があって。色々良くしていただいて…何とお礼を言っていいか」
「今から発つのか?こんな時間に?危ないぜ。せめて夜が明けてから」
エリシアはまた首を横に振った。少し後ろに下がって距離を置いた。
「すみません…こんなお別れで。どうかお元気で。冬になりますから、お体にお気をつけください」
ただならぬ雰囲気にマスターもおかしいと気づいたらしい。マスターはエリシアに詰め寄った。
「待て待て。二人で夜道は危なすぎる。どこまで行く気だ。同行させろ」
エリシアは首を横に振り続ける。見かねたハンナが口を開いた。
「オットーさん、私達には時間がありません。隣国へ行かなければならないんです」
「どの国だ」
「…ツングへ」
オットーは黙った。隣国のツングはつい去年まで戦争をしていた国だったからだ。戦争は終わったが、敗戦国のツングの情勢は危うい。治安も最悪だ。誰もが知っていることだ。なのにわざわざ向かうという。余程の事情だと察したのだろう。オットーは声を落として言った。
「馬は乗れるか」
「ええ、一応は」
「女の足では国境に向かう頃には歩けなくなる。馬をやる。せめてもの手向けだ」
「でも…」
「約束してくれ。絶対に死ぬな。少しでも危ないと思ったらしい引き返すんだ」
二人の返事も聞かずオットーは直ぐに裏手へ走っていった。思いがけない助けにエリシアは胸が一杯だった。そして何の恩も返せないのが心苦しかった。
馬を走らせる。ハンナが先行し、エリシアが後に続いた。
途中、向こうからも馬に乗った者たちが駆けてきた。ハンナは避けようと脇へ寄る。しかし向こうの一行も同じ方向へ寄せてきた。エリシアは彼らの手元に光るものを見た。
「ハンナ!」
全てが遅かった。すれ違った瞬間、ハンナの身体はグラリど揺れて、落馬した。エリシアにも白刃が襲う。エリシアはハンナを追って馬から飛び取り、難を逃れた。地に倒れ込むハンナを抱き起こす。ハンナの首からは止めどなく血が溢れていた。エリシアは恐慌して必死に服で血止めをした。ハンナは咳をする。口からも血が溢れる。
「ハンナ!ハンナ!」
ハンナは口を動かしていたが、音にならなかった。アンナの最期と重なる。エリシアは必死に名を呼んだ。
だが無情にも、生きているエリシアを亡き者にしようと男がやって来る。馬から降り背後からエリシアに斬りかかった。
その刃は振り下ろされなかった。男は倒れた。背中に一太刀。見事な太刀筋だった。
エリシアは背後での出来事に全く気づいていなかった。ひたすらにハンナの名を呼んだ。
「カサンドラ」
名を呼ばれハッと正気に戻る。声のする方、後ろを振り返る。そこには返り血を浴びたマティアスが立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます