夜の女王 カサンドラ⑤
女王の正体は誰も知らない。マスターも知らないそうだ。付き人の女性と二人きりでこの国にやって来たらしい。だからいつかは去っていくだろうとも言われた。
客の男たちはテーブルを囲んで酒を煽った。
「女王、いつまでいてくれるのかな」
「女二人だけって危ないよな」
「付き人は相当の腕の持ち主って噂だぜ」
「え?俺は女王が武術の達人って聞いた」
「どっちも初耳なんだが」
「何にしろ今まで二人でやってきたんだ。生きる術があるんだろ」
「女王いなくなっちゃうのかぁ。ここは治安良いから、いてくんねぇかな」
「隣のバスク領は酷いみたいだな」
「ああ…こないだ仕事で行ったんだが…物乞いが多くてな。同じ国でああも違うとはな」
「ここも代替わりして大分変わったもんな」
「領主さまさまってな」
給仕がつまみの焦がし豆を置いた。客が親しげに話しかける。
「よ、オリビアちゃん。この所ずっと働いてんな」
「そんなことないよ。昨日はお休み。これ、買ってたの」
オリビアは髪に付けたブローチを見せた。蝶の形をしていた。男は良い趣味してると褒めた。
「なぁ俺たち女王の話ししてたんだけど」
「ここでカサンドラの話をしない人はいないよ」
「まぁそうなんだけどさ、いつまでいてくれるのかって話をしてたんだ」
「いつまで…?知らないけど、秋の収穫祭の話はしてたから、春まではいるんじゃない?」
「当てになんねぇな」
「冬に出てく人はまずいないよ」
「それもそうか。じゃ、改めて乾杯しようぜ、オリビアちゃんも」
「アタシはいらなーい。仕事中なんでーす」
手を振ってオリビアはテーブルを離れた。男たちは掲げた杯をそのまま下ろした。それぞれ無言で口を付ける。焦げ豆を摘む。塩が程よく効いて酒によく合う。自然と酒が進んだ。
カランカランと戸口の鐘が鳴る。誰かが来店したらしい。男たちは最初無関心だった。
誰かが席に無言で着くと、男たちは顔見知りと知って声をかけた。
「よぉあんちゃん!久しぶりじゃねぇか」
「仕事忙しかったのかい?レオン」
マティアスだった。彼は誰の声がけにも答えず、置かれたビールを一気に飲み干した。オリビアに追加を頼んでいた。構わずに話しかけた。誰もがこの男は寡黙で女王にぞっこんなのを知っていた。
「残念だったな。女王はもう終わったぜ」
「……………」
「アンタ、商人の割には愛想無いよな。どこで売ってんだよ」
マティアスはやはり答えない。周りは肩をすくめた。
追加のビールがテーブルに置かれる。直ぐに飲もうとしたマティアスは、思いとどまって隣の男たちに身体を向けた。
「おい、お前らの中に森の者と知り合いの奴はいるか」
「森の者ぉ?」
「木こりかい?」
「いや、それってもしかして、ロマ人か」
その名前に誰もが目をむいた。そしてマティアスに詰め寄った。
「止めときなあんちゃん。ロマは山賊よりも酷いって聞くぜ」
「俺の爺ちゃんなんかはそいつに殺されたんだ」
「取り引きしたって何の得にもなんねぇ。身ぐるみ剥がされるだけで済みゃ良いほうだぜ」
口々に言う言葉に耳を傾けながら、マティアスはまた黙って飲んだ。
ニールのリュートをバックに、カサンドラは舞い踊る。夜の「アルヴァ」は今夜も盛況だった。カサンドラは日によって衣装を変える。今日は白の衣装だった。肩にかけたショールを見事に操って演出した。
マティアスも勿論いつもの席に座っていたが、おもむろに立ち上がると、そのまま壇上に上がってきた。カサンドラはいつもマティアスをそれとなく注視していたが、まさか大胆にも上がってくるとは思わなかったのでドギマギした。
周りの男たちは止めない。それどころか盛り上がっている。何故なら壇上に上がるということは、カサンドラに「勝負」を挑んでいるのを意味するからだ。
カサンドラと踊ったものは転がされる。それに耐えきって転ばなかった者はカサンドラとの勝負に勝ったことになる。まだ勝者はいないが、この一ヶ月であらかたの常連は勝負を済ませていた。レオンことマティアスも何度か周りから上がれ上がれと言われていたが無視していた。だからてっきりカサンドラは、その勝負に挑まないものと思っていたのだが──
マティアスが手を差し伸べる。外野がやいのやいのと騒ぎ立てる。カサンドラは意を決して手を取った。周りが一気に歓声を上げた。
カサンドラはニールに目配せする。ニールは心得たものでダンス用の曲を弾き始めた。カサンドラ用にアップテンポにアレンジされている。二人は踊りだした。
以前、少しだけ付き合わされたワルツでマティアスの癖は心得ていた。急なステップの変更。今回もそうだった。カサンドラは難なくついていった。今度はカサンドラが仕掛ける。手を引く。すると向こうは反射で引き戻そうとする。その力を利用してカサンドラは背後に回り、背中を押して場外に飛ばしてやろうとした。
今、と思って手を引こうとした。だがその前に引かれた。カサンドラは自分と同じことをしようとしているのだと思ってワザと逃げずにレオンの懐に飛び込んだ。足を引っ掛けてやろうと思ったのだ。レオンは不敵に笑った。レオンも身体を近づけた。
「え?」
レオンはカサンドラの腰を抱いてそのまま持ち上げた。カサンドラの身体が仰け反る。気づいたときにはレオンの、マティアスの顔が近くにあった。
「カサンドラ」
どきりとした。今まで聞いたことのないような、優しい声音だった。
「私の妻になってくれ」
青い瞳が視界の全てだった。何の抵抗も出来なかった。
それからは大変だった。周りの観客がレオンを引き剥がして乱闘騒ぎになり、店は大いに荒れた。エリシアはハンナと店から逃げ出して小屋に引きこもった。
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