僕の

@rabbit090

第1話

 曇っている、こんな天気じゃいけないのよ?

 僕は、いつもより嫌な顔をしながら、彼女を見上げた。彼女は、僕より20センチも背が高くて、ちょっと規格外な気がしていた。

 けれど、彼女はいつもそれを気にしていることを僕は知っていたから、ただ黙って俯くしかなかった。

*知り合ったのは、くだらない日曜日のことだった。

 「お姉さん何してるの?」

 「何もしてないから、気にしないで。」

 「いや、気にしないでって言われても、気になるよ。本当、それ、何?」

 僕は小学生だから、ぶしつけに無遠慮に、何でも相手にぶつけてしまう無知を備えていた。これは、でもただの言い訳だと分かっている、中学生になった今、それはただ相手を傷つけるためだけの、武器にしかならないのだということを、もう知ってしまったから。

 今日は友達と遊びに行くという約束をしていて、でもそいつが風邪ひいた、というので仕方なく帰宅する途中だった。だから、ちょっと暇を持て余していた。

 見たところ、害はなさそうな大人しめな女性だし、とにかくなぜだかもやっとした感情があって、僕はそれを彼女にぶつけたのかもしれない。

 「何よ…?」

 彼女はしばらく黙っていたけれど、そろそろ業を煮やして僕を睨んでいた。

 しかし僕はひるむことさえなかった。

 だって彼女がしていたのは、猫の餌付けだったから。

 「にゃにゃあ。」

 お腹を見せて、何匹だろう。重なっていてもう何匹か判別がつかないくらい、たくさんいる。彼女の周りに集まっている、そして、彼女はまどろむというよりも、すごくしかめっ面で手にしている袋から猫缶のようなものを取り出し、少しづつ与えている。

 傍から見れば、相当遠くから見ていれば、何か彼女が猫をいじめているような感じだった。

 年齢は、いくつだろう。

 多分もう成人している。

 立派な大人だ、しかし彼女からはヤバい奴という雰囲気は無く、しかし近づけばしかめっ面で大量の猫を周りに従え、餌を与え続ける、しかめっ面で、って、めっちゃおかしい奴じゃん、と近づいたことを少し後悔していた。

 もういいや、とそそくさと帰って寝よう、と思っていると、

 「…あんた、私のこと見てたけど、楽しいの?私って、変?」

 といきなり聞かれて、困った。はい、変です、と答えたらきっとだめだということは分かっていたし、かといって代わりの言葉が思い浮かぶ程僕は器用ではなかった。

 「いや、ちょっと友達との遊びの約束が無くなってしまって、暇っていうか、そんな感じで見ていました。」

 「…ふうん。」

 やっぱり、見られていたことは気にしているけれど、あとは何かすべてどうでもいいことのようで、何も見ていなかったかのようにまた猫たちの世話へと意識を戻していった。

 助かった、と内心呟きながら僕は家へと駆けた。

 僕は、そしてまた寝ようかと思っていたが、何だかうまく眠れなくて風邪を引いたさとしから借りていたゲームをして時間をつぶすことにした。

*僕には集中力が欠けている部分があって、ゲームとか、みんなが熱中してはまれるようなことには、いまいち発揮できなくて、ああ、ヤバい。僕完全にダメかも、と思っていたけれど、中学生になって高校生になって、大学生になって社会人になってしまって、それだと困るなって思っていたから、とにかく無茶苦茶にいろいろなことをして、発見したのは僕は勉強に関してだったら誰よりも集中力を発揮できるという事だった。

 「全く、失敗ばっかだったのに。」

 お母さんは半ば呆れながら僕のことをあきらめていたようだったけれど、勉強ができる、という点を見出して僕は宝物のように扱われていた。

 しかし、本当は短時間しか集中できないゲームとか、もっと楽しくて中毒になるようなことを僕は求めていた。

 勉強はただ、続くのだ、続けられるのだ、それだけだった。

 「…はあ、疲れた。」

 でもある程度一日を勉強で埋めれば、あとは適当でいいから、それ以外の時間はただぼんやりとベッドに寝転がっていた。

 何もできない自分、ここにいることしかできない時間、それがとてももどかしくて、本当は外に駆け出して、何か色々なことをし続けなくちゃ、と思っていたけれど、ほら、ここはすごく田舎だからさ。

 山はある、海はある、川ある、でも町は無い店は無い、人もいない。

 だから家にいることしかできなかった。じゃあ、自然散策でもすれば?と言われるかもしれないが、ここは深い山々に囲まれていて、うかつに踏み入ると本当に危ないような場所で、学校からも家族からも、入るな、と禁止されていた。

 こうやってベッドの上にうずくまっていると本当に死んでしまいような気持に駆られる。衝動が、溢れている。

 僕はだけど何もできない、それしか、無かった。


 「え、お姉さんじゃん。」

 見たらすぐ分かった。彼女だってことは、だってすげえ身長高いんだもん。僕だって150センチはあるっていうのに、彼女は見たところ170は超えている。さらに伸びたのだろうか、と思ってしまう程、どこか別の国の女優のような雰囲気を醸し出していた。

 そして、そう思えるのは一意に、彼女がとても美しかったからだ。

 そう、それで、彼女は今、何をしているのだろう。

 ホント不思議な奴だなって、鼻で笑いたくなっていた。だって、またかよ。

 「なんで餌付けしてんの?」

*「…誰?子供じゃん。」

 中学生になってある程度大人になって、ファミレスとか、そういう所で友達とだべるようになって僕はどんどん解放されていく気分を味わっていた。もともと自分勝手だということは分かっていた。けれど、親にも誰にも、不満ばかり抱いている奴らとは違って、僕は幾分まともな人間だったのだと思う。

 「いや、知り合いなんです。小学生の頃に会ってて、あ、今僕中学生なんですけど。お姉さんその時も猫触ってたじゃん、何で?」

 「へえ、覚えてないけど見られてたんだ。あのね、ウチは猫飼えなくて、でも私猫が死ぬ程好きなの。でも家を出れなくて、私もう社会人なのに、アホでしょ?って、ことよ。」

 何が、そう言いかけたが彼女は猫をあやすのをやめてとっとと去って行った。ホント、変な女、僕はちょっとにらんだような顔で彼女を見送った。でも、社会人ならなんで、こんな真昼間から出歩いてるんだよ、そんなことをぼやきながら家へと帰った、本当にくだらない、と少しだけ憤りながら。

 「ただいま、帰ったよ。」

 「おかえり。」

 僕は中学生になって、そして家族は二人になった。

 父は死んだ、交通事故だった。

 田舎だけど、轢かれて救助もされず、道路にごろりと横たわっているところを近くの人に発見された。

 母は、泣いていた。

 ただただ泣きつかれたようになった頃、近所の人に紹介してもらった仕事を始め、毎日帰りが遅くなった。

 「今日早いね。」

 「うん、そうなの。たまには早く帰りなよ、って。同僚の人が言ってくれたのよ。」

 「ふーん、良かったね。」

 「うん。」

 何か、もやっとする感情を、こういう瞬間に感じるんだけど、僕はそれを見ないように、努めた。何にもならない、そうだ、そういう事が嫌なのかもしれない、けれど現実は連綿としていて、断ち切ることなんかできなくて、しかしそれに対するもどかしさなんて日常に対する煩雑さに紛れて消えてしまう。

 「じゃあ、ご飯作っといたから、ごめんお母さん、ちょっと友達とご飯行くから…。」

 「OK、ゆっくり休んできなよ。」

 「…分かった、ありがとう。」

 とたとたと母は外へと出た、僕は用意してもらった飯をほおばる。何か、可哀想なことなんて何一つないのに、こうやって一人きりになっていると、ダメだ。

 かけ出さなくては、とっとと外へ行かなくては。こんな場所にいると、ダメになる。僕は、鞄に詰められるだけの菓子を入れ、自転車をこいだ。

 

 田舎って、良い。

 場所を選べば人がいない。

 もう誰もいなくて、いい。

 不満なんて無いんだ、ただ。誰よりも一人になりたかった。他人対して抱く不信とか、不満とか、疑心とか、そういう汚いものに囲まれていると、耐えられないから。

 やめてくれ、と叫びたかった。ただ大人しく、家に座っていたい奴らとは、どうして違ってしまったのだろう。

 僕の中の衝動は、年々増え続けている。

 醜くなるくらいだったら、たった一人で自分を飼いならせばいい、そんなことばかりを考えていた。

*いつもの小高い丘の上った。ちょっと行けば展望台と公園が広がっている場所で、しかし観光客と鉢合わせることをしたくなかったので、途中の、ちょっとだけ林の中を進んだ場所にある、拓けたところにブルーシートを敷く。

 最初は、こんな大げさなことしてなかったけれど、そうだな、母さんが働くようになっていた頃からなのかな、友達との関わりもほとんど断っていて、でも最近は大分平気になっていた、周りの奴らもぼくの事情を知っていて、だから少しだけ不遜にしていても仲間外れ、だなんてことにはならなかった。

 むしろそういう目に合うのは、もっと、何ていうか周りが見えていなくて苦しい、と思うことしかできないような、物事を一人で進めざる負えないような、そういう側面を持つ人の方だったように思う。

 でもそれって、人間なら当たり前にあることで、ましてや子供ならあって当然だろうと思うし、しかしそういう人間にマウントを取って、自分も世界のことなんか何一つ分からない子供だっていうのに、マウントを取ることで平静を保っている、そんな奴らの方がばかげて見えていた。

 「何か降ってきそうだな…。」

 いつもは天気を確認してから出かけるから、こんなぐずぐずとした天気の日には外に出ないっていうのに、今日は衝動的に出てきてしまった。

 馬鹿らしかった。

 父親が死んで、苦労、はしなくてはいけないのだということが分かって、しかしそれを母さんが飲み込んでくれて、そういう所が嫌だった。

 本当に嫌だった。こんな田舎早く出ていきたかった。

 何かが悪い、誰かが悪い、そんな理由があればきっと良かったのに、僕の子の感情には名前がなく、過去も何もなく、由来すらないのかもしれない。

 僕はただ、一つため息をついた。


 正直、僕は幽霊でも見たのかと思っていた。

 けれど、彼女は実在していた。

 手繰る雑誌の中ではにかむ女は、まず間違いなく彼女だった、そこに写る雰囲気は有名人っていうオーラを醸し出していて、僕が見かけた瞬間二回も声をかけたのは致し方ない、と今更思った。

 へえ、変な人って思っていたけれど、すげえ奇麗な人なんだ、それがまず思った感想で、でも何でこんな田舎にいたんだろう。

 何か書いてないかな、と思って記事を読んでみるけれど、受け答えもすべてギャルで、全然分からなかった。

 あ、でもそうか。最近のギャルはエリートというか、なんかグレてるわけではなく、あくまで好きでやっている、といったようままともな奴らばっかり、という印象があって、テレビではいつも知的な発言をしている気もするし、そんな感じかな、とか軽く考えていた。

*子供はいつも、頭の中で夢想を繰り返していて、現実ではありえないことをある、と信じる傾向があるように思う。元を取りたくて、嫌なことでもしているつもりはなかったが、僕はカリカリとペンを走らせている。

 特に悪いことをした、という意識は無かった。

 けれど、僕はダメだった、今はアルバイトでのっそりと暮らしている。中学を卒業したばかりで、まだ高校生なんだけど、学校へは行かなかった。

 なぜ?って、友達とかには聞かれるけれど、僕はそれに対する明確な答えを持っていない。だって、何をすればいいのかなんて、想像もつかない。

 だから、受験もしなかったし、母さんは忙しかったから、それに何か反論をするようなことを無かった。

 でも家にこもりたいなあ、とはいかないことは分かっていて、そもそも僕だってそんなことするつもりはなくて、しばらくしたら一人で暮らそうと思っている。一人暮らし、憧れの、憧れの。

 だって、仕方ないじゃないか、母さんが一緒にいると、辛いんだ。母さんは、毎日どこかへ行っているし、それは仕事以外のどこか、しかしこの年になってまでそんな母さんを見て不安になる自分が嫌だった。

 そんな、時だった。

 テレビをぼんやりと眺めていると、あの人が映っていた。

 とんでもなく美人だった、正直実際に見た時よりも美人なのかもしれないと思わせる程、テレビの中の彼女は輝いていた。

 はあ、と息を呑むと、彼女が喋った。

 「女優になったのは、演じることが好きとか、表舞台に立ちたい、とか、そういう事じゃないんです。私、何をすればいいのか分からなくて、演じたんです。でも、うまくいかなくて、なら演じなくてもいいやと思い立ち、町で声をかけられたからドラマに出てみたんです。そしたら好評で、今はただ続けています。」

 とかなんとか、変な女、相変わらず。

 でもみんなそれでよかったのだ、司会のおっさんも周りの人も、この人の美しさに全部補正され、だまされたような気持ちになっている。

 僕は滑稽だった、あの変な女が、世間に通用している。馬鹿らしくて、笑ってしまいそうだった。あんた、馬鹿?そんなセリフを投げてしまいたい程、あほらしかった。

 あほらしくて、笑ってしまいそうだった。

 捨ててきたものの重みに潰されそうだった、何だか、僕は涙がこみあげてくるような感覚を覚えた。

 「木野かおり、観た?」

 「観たけど何だよ。」

 「いやさあ、あの人めっちゃきれいじゃん。俺、完全に恋してる。」

 「テレビの中の人間だろ?お前馬鹿じゃねえか。いや、別に。馬鹿ってつもりはないけれど、でもさ。俺、恋してるだなんて、あの人もう20代真ん中くらいだろ?おばさんじゃね?」

 *こいつは真野といって、中学生の頃ずっとつるんでいたやつだ、何か気が合ってずっと一緒にいる。ほかの奴と遊ぶよりも、気が楽だったし、こいつは高校に言っているというのに、ぷうたらと遊んでいるような俺とばかりつるんでいるから、「真野、高校の友達は?」と聞いたら、いない。と言われた。

 いや、いいんだけど、別にいいんだけど、さ。

 僕はでも一応高校に進学はしていた、だが高校という所は勉強を続けなければ、それがたとえ最低限であっても、だ、追い出されるという場所なのであって、母の希望で通い続けていたが、辞めた。

 真野は一緒の高校に通っていて、こいつは明るい性格だから友達もいっぱいいたはずなのに、なぜか外でぶらりとしている僕とばかりつるんでいた。

 「僕、木野かおりに会ったことある。」

 「まじかよ?」

 「まじ、二回も見た。もしかしたらこの辺出身なんじゃねえの?でも全然噂になってないよな。」

 「いや、だって聞いたことないぜ?違うと思う。そんなに似てるやつがいたのかよ、教えてくれよ。」

 「知らねえよ、見ただけだし。何か猫に餌付けしてて、変な奴だった。」

 「ああ、じゃあ違ぇな。だって、木野かおり、猫アレルギーだぜ?しかも重度の。近づくことすらできないって、言ってたもん。」

 「は?まじ?じゃあ、マジで違うのかも。」

 「そうだよな…。」

 そうか、あの女は木野かおりではなかったのか。きれいな人間を見ると違いが分からなくなるのか、俺って、最低なのか、よく分からない。

 「それよりさ、お前東京行くんだろ?何で?」

 「ああ、まあ。」

 僕は言葉を濁す。

 一人暮らしをするつもりだ、一人で、一人で東京へ向かう。やりたいことなんか無くて、でもあちらで就職するつもりではあった。

 就職して、そうしたら何ていうか、完結するっていうか、全てが大丈夫になるような気がする。

 行くしかない、と決めて僕は今バイトに励んでいる。あと少し、そうだな、あと半年くらいでもう平気だ、母さんはもう僕をあきらめているし、反対もされないだろう。だから、大丈夫。

 決めたから。


 「ホントに行くのかよ、まじか。」

 「ああ、だってここにいても仕方ないだろ。僕、もういいっていうか。毎日何をすればいいのか分からなくて、ただ刺激が足りなくて、そりゃ。肉体労働だから、疲労するし、その分満足はあるけれど、でもさ。そうじゃないんだ、何か違うんだ。それが分からないんだ。」

 「そうか、何か分かんないけど、まあがんばれよ。」

 「ああ、さんきゅう。」

 「じゃあな。」

 「おう。」

 そうして真野に見送られ僕は新幹線へと飛び乗った。正直新幹線はある程度都市に出ないと走っていなかったため、高校に入ってからバイクの免許を取ったあいつに連れてきてもらったのだった。

 *そうか、そんなことがあったのか、そうぼんやりと考えている。

 僕は思い出す、町の景色を。

 昔から住んでいたからなじみは深い、子供も田舎にしては割と多く、平和な場所であったと思う。しかし、何ていうか、もういいというのだろうか。

 間違った、失敗した、ちゃんとできなかった、そういう事ではないと思っていた。

 キッティングとか、何かそういう事ではないと思っていた。

 東京に出て勤め始めたのかコンピュータのキッティングをする仕事だった。手ごろなアルバイトを探したらこれしかなく、何か働くって何だろうと思っていたこともあり、肉体を炎天下の元で酷使するような作業ではないため、変な疲労感が気持ち悪かった。コンピュータ関係は、しかし昔から得意であり、パソコンを組むことは多々あった。

 それにしても、一体私は何をしたいんだろうか。

 何を、何を。

 「暇すぎるよね、いい加減嫌になる。でもこれが仕事なんだって思えば、平気かな。」

 「…ああ、ごめん。そうだね、ちょっと前から話しかけていた?」

 「うん、話しかけてたよ。でも気にしなくていいよ。」

 「私も、何か暇で、ごめん、ほんと。」

 「いやあ、ちょっと退屈過ぎるよね、達成感もないし、もっと何ていうか、人の中で円滑にゆっくりと物事を進めていきたいのに、ここの仕事は責任が一人にかかっているもんね。それって、すごく嫌だよね。」

 「ねえ、そうだよね。」

 僕は、東京では一人前を私、ということにしていた。なぜなら、僕、ではなんか子供っぽいらしく、話した瞬間に戸惑いの表情をされたため、じゃあ俺にするかと思っていたが、それも恥ずかしく、無難に決めるとすると、俺、ではなく私にしかならなかった。

 「近々、辞めるの。」

 「うそ、まじで?」

 「うん、大まじ。就職しようと思って、でもさ。またコンピューター関係だから似たようなものだと思うんだよね、結局、何がやりたいのか分からないっていうか、さあ。」

 「でも、いや、すごいよ。私なんて、ぼんやりとアルバイトばかり、でもそれ以外の仕事ができる気がしないんだ、全く。」

 「はは、まあ思い込みもあるかもね。だって、君すごく技術あるよ、もっと、何か優遇されるようなところに行けばいいんじゃないの?」

 「…絶対違うよ。」

 彼女は佐々木さんといって、このキッティング作業で僕の面倒を見ている人だった。面倒を見ているというか、業務を覚えるために二人一組になって取り組む、という課題があり、僕はそこにうまくはまっていただけだった。

 私、と僕が混在している変な奴なのに、適当に笑ってくれるだけで、頓着しない彼女の性格は好ましかった。

 だから、彼女がいなくなってしまうのは悲しい、でも今年大学を卒業するのだから当然と言えば当然なのだろう。

 だって、いつまで経っても先の見えない僕とは天と地の程の差があって、何だかそれが無性にぼっかりとした空洞のようでさえあって、嫌だった。

*だから、「何馬鹿なこと言ってるんだ。」と工場長に罵られた時には、頭が少し、ぽっかりとしていた。

 何を失敗してしまったのか、全く心当たりがなかったけれど、その怒りように恐怖すら覚えたのだから、多分ヤバいことなのだろう。

 すごすごと、周りの人に見られながら僕は部屋へと向かう、工場長の執務室は独立していて、でもあの人たいした仕事してないくせに、と影で罵られていることを知っているが、工場長として人々をまとめるような人間には、きっと何かしらの恩恵があるのだろう、と思う。そしてそれと同時に、僕らには計り知れない数多くの苦労があるのだろうし、特に不満は無かった。

 だが、嫌いではあった。

 だから、これからの時間が憂鬱でたまらなかった。 

 佐々木さん、どうしたの?

 僕は目で尋ねた。しかし彼女には届いていないらしく、ただ懸命に作業に取り組んでいる。善と悪、そんな区別なんて無いけれど、今の彼女は何かに焦ったように顔をしかめていて、僕は不安になった。

 結局、工場長からは佐々木さんがいなくなるから代わりにいろいろな業務を担ってもらいたいというものだった。特に煩雑で大変ということもなかったため、嫌では無かったが、途端佐々木さんが不穏になっていて状況がよく分からない。

 体調が悪い、といったような感じだった。

 苦しそうだとは思う、けれど懸命に作業を行っている姿を見るとどうしても声が届かないようで、もどかしかった。

 そして、佐々木さんがしばらくしていなくなり、僕は事情を知った。

 彼女は、就職したわけではなかった。病気だったのだ、それもかなりひどい。ちょうど就活のタイミングで、佐々木さんみたいな感じのいい子はきっとすぐに採用されて穏やかに暮らせるはずだったのに、できなかった。

 その苦しさだ、きっといろいろな苦しさが押し重なって彼女は潰されていた。

 仲良くしてもらったのに、話を聞くことができなかったことを、詫びたいと今ふと思っていた。


 それでそうやって、たった一人でぐうたらと暮らしていると、いや、たった一人ではないけれど、僕は自分の輪郭がぼやけていく様子を感じ取っていた。

 したいこと、やりたいこと、あったはずなのに、それをすべて無視して今しか見ていない。しかも、それは将来にはつながらない無機質な未来。

 だったらダメだ、全部ダメだ。

 そう思ってしばらくした頃、僕は会社に勤め始めた。コンピューター系の会社で、今の工場長の知り合いにつてがあって、紹介してもらった。

 勝手に嫌いな奴だと決めつけて、嫌な態度でいたことが恥ずかしくなっていた、だって、こんな僕のことをきちんと気にかけていてくれただなんて、やっぱりありがたかったから。

*ずっとダメダメで、母の顔も見られない、そう思っている。

 けれど、テレビをつけると彼女がいて、彼女はいつも笑っていて、僕にはこの東京で地縁も何もなくて、たった独りぼっちになってしまって、ただただ辛くて。

 「お前、ちょっと休んだ方がいいぞ。」

 「…え?」

 何だ、何かやらかしてしまったのか。

 パソコンを睨んでいた目をゆっくりと同僚の方へと動かす。いきなりは無理だ、だって僕は一度集中するとやめられなくて、まあ行ってしまえば凝り性だから、さ。

 「気付いてないんだな、最近目も真っ赤だし、起きられてないぜ?いや、それは分かってるだろ?もちろん。でもさ、仕事中に無意識に落ちているところを見てしまった。それは、何か気付いていないようで、怖かった。」

 「え、すみません。」

 僕は惰性でその言葉を口にした。

 しかし同僚は困ったような顔で笑っただけで、どこかへ行ってしまった。

 はあ、もしかしたら本当いヤバいのかもしれない、だってヤバい奴って自分のことヤバいって気づかないんだろ?

 じゃあ、それってもう僕じゃないか。本当に、僕じゃないか。

 どうすれば、しばらく眠れば解決するのだろうか。

 もうこれから業務を続けられる気はしなかったから、急いで外へ向かった。

 休みはすぐにもらえた、どうやら僕はもう仕事の効率を保てていないらしい。

 全く、全く。全く、さ。

 どこにふけようか、どこに向かおうか。

 気持ちが分からない、けれど僕は、ただ前だけを見ていた。


 「猫って、可愛いのよ。」

 「知ってる。」

 「あなたさ、本当は触りたいのに、遠慮してるから、ダメよ。」

 「分かった、分かった。」

 「ダメ、ダメって。まあそんなことじゃないんだけどね…。」

 これは、中学生の頃、あの人と会った時に交わした言葉だ。

 唯一、この都会で毎日見ることができる知っている人、テレビで、途切れもなく出演していて、うらやましかった。

 そして、確かにこの人の言う通り、僕は野良猫を触ったことは無く、だってばい菌を持っているかもしれないし、触っちゃいけないって一般的に言われているし、とか。前持った情報ばかりが錯綜して、僕は本質を見抜けない。

 めんどくさいから、もういいや。

 本当に、いいや。

 猫が触れないから、何だ。

 なぜか心の中でそんなことばかりを罵っている。そして、それはどんどんヒートアップしていき、止まらない。止まるところを知らない、本当に、どうすれば。

 「さよならは、言わない。っていう感じ、分かる?」

 「分からない、全部もう分らない。」

 僕は子供になっていた、そして彼女はいつまでも大人で、僕は何だか何一つ掌で握りしめられないっていう、変なもどかしさを抱えていて、叫んだ。

 とにかく、叫んでいた。

 けれど物事は何一つ解決することは無く、それまでだった。

 僕は猫を撫でている彼女を後ろ目に見て、その場を後にした。

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