四季連作 巡り、巡る。

藤野 悠人

春の章 桜瀬

 山の春は平地と比べて一足遅い。日陰になっている場所などは、更に遅れてやってくる。


 ある山の中に、崩れかかったやしろと、すっかり色の褪せた鳥居が立っていた。かつては参る者もあったろうが、今ではその面影はどこにもない。あちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされ、軒下には狐やら狸やらが棲みついている。いずれ山に飲み込まれるのを待つばかりの、死にかけた社に思われた。


 近くには山道もあるが、通りかかる者はほとんどいない。周りの木の背が高いせいで、まるで隠された場所のようにひっそりとしている。どこかで鳥が二声鳴いた。


 雨ざらしになってすっかりボロボロになった賽銭箱さいせんばこのそばに、ひとりの男が座っていた。色褪せた鳥居を見るともなしに見ている。次いで、男は境内けいだいに立っている一本の大きな木を眺めた。節くれ立った枝を放射状に伸ばし、その先をゆったりと地面に向けて下ろしている。その様は、まるで地面を掴もうとする手にも見えた。


 木は、この社と同じくらいか、少し若い程度のとしだった。この景色の中にあるのが当然と呼べるくらいには、この社と長い付き合いだ。


「まだ咲かないのか」


 男の呟きに、木は沈黙したままだった。男はわずかに目を伏せた。


 翌日、その木の枝全体が、ほんのりと色づいた。男はやっぱり賽銭箱のそばに座って、じっとその木を眺めている。


 今日も天気が良い。昼時になれば、ぽかぽかとした陽気が、山の中で切り取られたような社に降り注ぎ、更にその木は色づいた。夜になれば、冷たい夜気やきの中で、色づいた枝をしっとりと降ろしている。


 そうして何日かが過ぎた。日を追う毎に木は色づいていく。そして、ある昼の日の暖かな日差しの中で、ついに満開となった。大きく花びらを開いた枝垂桜が、寂しい社を鮮やかに彩る。男は相変わらず賽銭箱の隣に座ったまま、じっと桜の木を眺めていた。


 その日も夜が来た。満開となった枝垂桜が、銀色の満月に照らされてかすかな輝きを放つ。


 ひらりと、花びらが舞った。そのひとひらが、地面に着くか着かぬかという所で、桜の木の根元に、ひとりの女が立っていた。月明かりの中で賽銭箱の横に座る男を見つけると、女はふわりと微笑んだ。軽やかな足取りでこちらに近付く。でこぼこの石畳を小さな雪駄せったが小突いて、ころん、ころんと音が鳴った。


「こんばんは。待ったかしら?」

「こんばんは。いつも通りだ」

「そう。それならよかった」


 そう言葉を交わすと、女は男の隣に腰かけて、彼の肩に頭を預けた。そのまま二人は何も言わずに、静かな夜の中で寄り添っていた。


 どこかでふくろうが二声鳴いた。

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