まちぶせ

五速 梁

第1話 その1


「わ、大きな音」


 エコバッグを手にリビングのドアを開けたわたしを出迎えたのは、大音量で鳴り響くクラシック音楽だった。


「ブラームスだよ。昔はよく、仕事の後に晩酌をしながら聞いた物だ」


 ソファーから振り返ってわたしにそう言ったのは八十歳になる雇い主の父親、光藤弘宣こうどうひろのぶだった。


「今日はおかげんよさそうですね」


 わたしは買ってきた食材をバッグから取り出し、冷蔵庫との間を行き来しながら老人の穏やかな表情をちらちらとうかがった。


「おかげさまでね。ああ、悪いが昨日洗濯したカーディガンを出してもらえるかな」


「はい。これを冷蔵庫にしまったらすぐ、出しますね」


 今日は調子のよい日だな、とわたしはこのひと月の間につかんだ老人の好不調を素早くおさらいした。


 たまたま知り合った医師の奥さんから、少々言動がおぼつかなくなった義父のために四時間だけヘルパーに来てくれないかと打診があったのはひと月ほど前のことだった。


 ちょうど職を失ったばかりで資格でも取ろうかと思っていたわたしにとって、この短期集中の仕事は渡りに船だった。


 雇い主でもある弘宣の息子、光藤昭信こうどうあきのぶは開業医で夫人も同業だ。老父の見守りに手が回らぬ息子夫婦に代わり、家事をしつつ多少のケアもこなすというのがわたしの役割だった。


「ああ、レコードが終わってしまった。……どれ」


 老人がどこかうきうきした動作で趣味の後始末を始めたのを見て、わたしが「今日はあれこれ煩わされれることもなさそうだ」と安堵したその時だった。


「ただいま、お祖父ちゃん。……あ、衣都いとさん来てたんだ」


 学校指定のバッグを手にリビングに入ってきたのは、雇い主の娘で老人の孫でもある女子高校生、美生みおだった。


「こんにちは、美生ちゃん。お祖父さま、今日はご機嫌がいいみたい。さっき大きな音でレコードをかけてたから」


「あ、そうなんだ。昔は毎日かけてたってお父さんが言ってたっけ。……ところで衣都さん、今日はもう終わりなんでしょ。私、これから歩鷹ほたか君の家に行くから途中まで一緒に行こうよ」


「待って。勤務は三時半までだけど、色々と後片付けもあるしあと二十分はかかるわ」


「わかった。じゃあ私も着替えて来る。二十分経ったら玄関に来てね」


 美生はそう言い置くと、自室のある二階へ姿を消した。私はばたばたと片づけを済ませると、「それでは失礼いたします」と一礼して上着とバッグを手にリビングを出た。

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