跋

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 ロベールはいつものように、霞がかった深い森の中にある小さなお城、『お菓子の家』の店頭に立っていた。


 夕方、深い森の外れにある、寄宿舎学校『マゴニア学園』の授業を終えて、『お菓子の家』にやって来たのは、常連客と言ってもいい少女、『リヴ・ドロワット』高等部二年生の女子生徒、〝人形姫〟、フィネットである。


〝人形姫〟、フィネットは、呪いの本と言われる『クエレブレの書』に心を奪われ、感情の起伏に乏しい。


 それでも、金髪のパニュルジュと銀髪のベルトランが作るお菓子の味は気に入ったようで、こうして時々、お店にやって来てくれる。


 人々から、〝人形姫〟とあだ名されるほどの彼女は、ビスク・ドールのように見目麗しい。


 が、呪いの本によって心を失くし、人間らしい表情という表情はほとんど見せる事はない。


 ロベールは一度でいいから彼女の心からの笑顔を見てみたいと思っていたが、人食い鬼である彼にはどうする事もできなかった。


 不老不死の錬金術師、サン・ジェルマン伯爵から、魔法の小瓶、『落涙の瓶詰め』に、彼女を思って自分が流した涙の雫が一定量溜まったところに、賢者の石の粉末を上手い事調合すれば、虹色に煌めく飴玉、〝空知らぬ雨〟が出来上がり、舐めれば人の心を取り戻す事ができるなどと言われ、実験に付き合っているものの、〝空知らぬ雨〟は一向に完成しない。


 他に自分にできる事と言えば、『お菓子の家』で、金髪のパニュルジュと銀髪のベルトランが作ってくれた手作りのお菓子の中から、彼女が気に入った商品を売るだけである。


 ——まさか、人食い鬼だからと言って、本性を現して彼女を食べる訳にもいくまい。


 人食い鬼と人間の娘の間に生まれた子どもは哀れなものだな、人食い鬼にも、人間にもなれやしない。


 ロベールはある日、なんとはなしに本を読んでいて、古い諺が目に留まった。


 Va où tu peux, meurs où tu dois.


〝行ける所まで行き、然るべき場所で死ね〟


 ——だとしたら、僕はどこまで行く事ができる?


 ロベールはいつの間にか、まるで砂糖菓子のような銀世界に迷い込んでいた。


 月もない夜、音もなく雪の降った、深々とした夜である。


 絶え間なく降り注ぐ粉雪は肌に触れると、幻のように消えてしまう。


 ロベールだけがたった一人、雪化粧に彩られた夜の底を歩いている。


 ロベールは出口を探し求めるように、ずっと歩き続けていた。


 燃えるように赤い髪を、冷たい指先めいた雪がそっと撫でる。


 まるで舞い踊る雪の精が妖しく伸ばした氷の手のひらである。


 少しずつ、少しずつ、体温を奪っていく。


 ロベールの手は悴んですでに感覚がない。


 吐く息は痛々しいほど白くなっているし、だんだんと歩みも遅くなっている。


 それでも歩く。


 あてどもなく、歩き続ける。


 ふと立ち止まると、見渡す限り、雪だった。


 銀世界の夜空はどこまでも真っ暗闇である。


 まるで、ユン・エレの窪地を見上げているようだった。


 底なし沼のような空の下、周囲を見回しても、誰一人、見当たらない。


 どこにも出口はなかった。


 ついに呆然として立ち尽くした。


 ここからもう、出られないのだと思う。


 まるで、自分の心の中に足を踏み入れてしまったように。


 それも、何もかも全て諦めた自分の心の中に。


 だから、出られない。


 きっとここは、何もかも全て諦めた自分の心の中だから、出られない。


 ——僕の心の中には何もない、だから出る事はできない。


 けれど、生まれた時から何もなかったのだろうか?


 そうだ、何もない。


 当たり前と言えば当たり前だ。


 人食い鬼と人間の娘の間の子——言わば、影に潜んで生きる存在、だ。


 子どもの頃から深い森の中を住処として、誰とも関わってこなかったのだから。


 いや、何か大事なものがあった気がする。


 大切なものがあった気がする。


 それは何か温かいもの、何か優しいものだった気がする。


 何か温かくて、優しいものだったはずだ。


 ロベールは意識が朦朧としてきた。


 ——やっぱり何もない。


 いやに瞼が重い。


 もう目を開ける力もない。


 すごく足が重い。


 もう歩く力もない。


 凍てついた空気が胸を痛めつける。


 膝をつきため息をついた。


 たぶん、もうすぐ終わる。


 きっと全てが。


 僕が終わる。


 そう思った時——、


「あら?」


 と、誰かの声がした。


「君は?」


 ロベールの目の前で、薔薇のように凛とした少女がきょとんとしていた。


 ロベールは少女の顔に見覚えがある気がした。


「こんなところで人と会えるなんて思ってもみなかった」


 薔薇のように凛とした少女は、驚きに目を見開いていた。


「ねえ、私、いつの間にか迷っちゃったみたいなの。貴方は出口がどこか知っている?」


 ロベールは何から話せばいいのか判らず、すぐには答える事ができなかった。


「……知っている訳ないよね」


 薔薇のように凛とした少女は、ロベールが一向に返事をしない事から、残念そうな顔になる。


「だってここは、まるで私の心の中みたいなんだもの」


 薔薇のように凛とした少女は独りごつように言った。


「まるで私の心の中みたいに、何もないところなんだもの」


 それっきり口を閉ざしてしまった。


「……きっと、貴方も私の心が生んだ幻みたいなものなんだわ……」


 最後にぽつりとこう言った。


 その途端、ロベールは彼女の手を取った。


「…………」


 薔薇のように凛とした少女ははっとした。


「知っているよ」


 ロベールは精一杯、心を込めて口にした。


「僕もここがどこかなのかはまだ判らない」


 ロベールの手は、薔薇のように凛とした少女の手に、しっかりと重ねられていた。


「でもどこかに絶対、出口があるのは判る」


「どうして?」


「だって……」


 ロベールは自分でも子どものようだと思ったが構いはしなかった。


「だって、君がここにいる。僕もさっきまではここが自分の心の中なんじゃないかって思っていたんだ。でも、違ったんだ」


 ロベールは、ここがどこかなのかはまだ判らない、と繰り返した。


「でも、君がここにいる」


 ロベールの真っ直ぐな瞳には、薔薇のように凛とした少女が映っている。


「君はここまで、自分の足で歩いてきたんだ。だから必ず、どこかに出口はある」


 ロベールは薔薇のように凛とした少女をじっと見つめて、力強く言った。


「うん」


 薔薇のように凛とした少女は少し考えてから、こくりと頷いた。


「私にも判るよ。だって、貴方がここにいる」


 ロベールの事をじっと見つめ返した。


「貴方がここまで自分の足で歩いてきたんだ」


 ロベールは薔薇のような少女の言葉に、こくりと頷いた。


「だから必ず、どこかに出口はある」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 ロベールはその時、今まで忘れていた何かが甦った気がした。


 いつの間にか失くしてしまったものが甦った気がした。


 それは何か大事なものだった。


 何か大切なものだった。


 それは温かいもの。


 優しいもの。


 そうだ。


 それは、薔薇のように凛とした少女の微笑みのようなものだった。


 どうしても人間が食べたくて堪らなかったのに、僕の事を殺す事ができなかった、人間の僕を信じてくれた、お母さんの優しくて温かい微笑みだった。


 それがいったい、なぜ、自分の中に甦った気がしたのか。


 きっと、僕も今、薔薇のように凛とした少女と同じように微笑んでいるのだろう。


 一面、雪景色だという事には何も変わりはなかったが、二人の胸の内はお互いに温かく優しい気持ちに溢れていた。


 ロベールが凍えるような冬の最中に、お互いに寄り添い、手を取り合った相手は、花が咲いたように微笑んでいた。


 まるで真冬に咲き誇る、可憐な薔薇のように。


 ロベールは目が覚め、自分が『お菓子の家』の帳場に座り、居眠りをしていた事に気付いた。


 傍らにはフィネットが昨日忘れていった、『クエレブレの書』が置かれていた。


 もしかしたらさっきまで自分が夢の中だと思って彷徨っていた何もない場所は、『クエレブレの書』の何も記されていない頁の中だったのかも知れない。


 いや、こうしてはいられない。


 ——僕は人食い鬼の血がこの身に流れる、影に潜んで生きる存在だ。でも、もう半分は人間。だとしたら、人間のこの手を使って、できる事はなんだ?


 この本の持ち主が、今日もやって来るに違いない。


 ロベールは、早速、店の奥にある厨房にこもって、自分の手でお菓子を作る事にした。


 ——小麦粉、四〇〇グラム、バター、三〇〇グラム、砂糖、三〇〇グラム。


 ロベールが作り始めたのは、普通よりもバターの配合が多い、パンである。


 更に、ブルターニュ地方名産の有塩バターを溶かしてそのまま焼く、すると表面がカラメル状になり、バターの風味が豊かなおいしいお菓子が出来上がる。


 ブルターニュ地方に古くから伝わる伝統的なお菓子、名産の有塩バターをたっぷり使い、香ばしく艶やかに砂糖をキャラメリゼした、『クイニーアマン』、である。


『クイニーアマン』の誕生には諸説あるが、一つには、ブルターニュ地方は、ドゥアルヌネの、イヴ=ルネ・スコルディアとマリー・アンヌ・コランティーヌ・グェグァン夫婦のパン屋の話がある。


 ある日、パン屋にお客が押しかけ、商品が飛ぶように売れてしまった。


 妻のアンヌが、夫のイヴに、なんでもいいから作って欲しいと頼んだところ、彼がその場でバターが多めの生地を作り上げ、焼き上げた品が大変な評判を呼び、それからこのお菓子は、『クイニーアマン』と名付けられたのだという。


 ロベールの彼女を思って流した涙の雫が一定量溜まれば出来上がる、虹色に煌めく飴玉、〝空知らぬ雨〟は未だに完成に至る事はなかったが、彼はパン屋のイヴのようにできるだけの事をしようと、ありったけの想いを込めて『クイニーアマン』を作った。


 こうして自分の手でおいしいお菓子を作り続けていれば、いつか花が咲いたような彼女の笑顔を見る事ができるかも知れない。


 不老不死の錬金術師だって楽しませる事ができるし、まだ見ぬどんなお客だってもてなしてあげたいと思う。


 そう! ここは人食い鬼ロベールの、小さなお城のお菓子屋さん!


 浮世の塵に塗れて彷徨い歩いてきた、旅人や迷子、行く当てのない者が、お菓子の甘い匂いに釣られてやって来る、『お菓子メゾン・ド・ガトーの家』!


 人食い鬼ロベールの手作りお菓子の甘い匂いに釣られて、今日もまた薔薇のように美しい〝花の妖精〟がやって来る。


(了)

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『人食い鬼ロベールと人形姫と手作りのお菓子』 ワカレノハジメ @R50401

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