第六話 永遠の娼婦マリーと消えない炎

 第六話 永遠の娼婦マリーと消えない炎


 ロベールはその日、深い森の中にある小さなお城、『お菓子の家』で、ずっと過ごしているのも退屈に感じていた。


 いつもなら、季節の草花や果物を巡る散策をしたり、人物や風景を切り取るスケッチ画を趣味として楽しんでいるが、今日はどこか行った事がない場所に行ってみたいと思った。


 だが、人食い鬼と人間の娘の間の子である自分は、影に潜んで生きる存在である。


 いくら人間に化ける力があったとしても、花の都パリに観光旅行に行って、何かの拍子に、頭の角を見られる訳にもいかない。


 すると、『お菓子の家』の菓子職人、銀髪のベルトランが、


『では、フェティスニール県、アレ山地にある広大な窪地、ユン・エレの地獄の玄関口から、あの世を巡る散策に出かけるのはいかがでしょう』


 などと言い出すではないか。


 ロベールはそれは名案だと、早速、スケッチブックを片手に、あの世を巡る散策に出掛ける事にした。


 銀髪のベルトランもピクニックバスケットに、お手製のお菓子を持参して、お供としてついていった。


 昔からユン・エレの泥炭地は、『地獄への入り口』、と言われている。


 底なし沼の中心部には、ぽっかりと穴が空いていて、それは、『闇の門』、『不吉な入口』とも呼ばれ、何も知らずに近くを通りかかった人間は、目には見えない力によって捕らえられ、飲み込まれてしまうという。


 その為、この辺りに住む人々は誰も近付こうとしなかったので、ロベール達が人目を気にせず旅するには好都合だった。


 ロベール達が先に進むにつれ、広大な湿地帯から、まるで地獄の底から響いてくるような、苦しげな悲鳴や呻き声が聞こえてくる。


 どこかから、大鎌を手にした死神アンクーが乗る、荷車が軋む音も聞こえてきた。


 ロベールは銀髪のベルトランを連れて、ユン・エレのぽっかりと口を開けた真っ黒な穴に飛び込んだ。


 ふと振り返ると、遠くの方で、山火事のように、紅蓮の炎が燃え盛っていた。


 ついさっきまで、自分達を苦しめていたそれも、今は真夏を通り過ぎる涼しいそよ風のように思えた。


 ここは、地獄だ——地獄は火と硫黄の地であり、永遠の氷による刑罰もあると言われている。


 罪人が、消える事のない火と尽きる事のない蛆虫によって、永遠に苦しみ続ける場所である。


 地獄には無数の穴が開いていて、生前、犯した罪によって、それぞれ決められた穴に落ちていくという。


 ある穴の底では、男を誘惑して不倫した女が髪の毛を吊り下げられ、火炙りにされていた。


 誘惑して来た女と関係を持った男もまた、同じ穴で火炙りにされる。


 またある穴の底では、信仰を否定した者が、自分の舌で吊り下げられ、やはり火炙りにされていた。


 一番、深い穴の底は、子どもを堕した女が落ちる穴だという。


 そこは他の穴よりも遥かに大きく深く、糞尿をはじめとした忌み嫌われるものが四方八方から流れ込み、女達は首まで浸かって拷問を受け続けているという。


 下に行けば行くほど、炎の激しさ、勢いは、いや増していく。


 ロベールは、こうして歩いているだけでも、焼け死んでしまうのではないかと思った。


 あまりの暑さにすぐ後ろを歩いていた銀髪のベルトランなどがっくりと項垂れている。


 ピクニックバスケットはもちろん、中身のお菓子まで、焼け焦げてしまいそうである。


 歩いているだけでこれだ。


 もし、天使に見つかって罰せられたらと思うと、考えるだに恐ろしい。


 亡者達は皆、炎に包まれて、呻き苦しんでいた。


「わー、見渡す限り火の海だ」


 ロベールは嬉しそうに笑っていた。


 見れば、ちょうど一人の亡者が万歳をしているような格好で火の海に飲まれ、もがき苦しんでいた。


 次の瞬間には、火柱になり、消し炭と化す。


「すごいなー!」


 ロベールは物珍しそうに見ていた。


 地獄に来ているせいか、今はその身に流れる人食い鬼の血が勝っているのか、どんなに残酷な光景を見ても、それほど可哀想だという気持ちは湧かないらしい。


 加えて、今日まで誰とも関わって来なかった分、人間とは何なのか知りたい、他人の人間らしいところを見たいという気持ちもあった。


「ここは姦淫、淫行の罪を犯した者が堕ちる地獄みたいですね」


 銀髪のベルトランが言うように、地獄の亡者達は皆、好色そうな顔をしている。


 彼らは皆、至る所で激しい炎に巻かれ、熱せられ、焼かれ、呻き苦しんでいた。


 それも地獄には終わりがない為、永遠に続くのだ。


 だが——、


「ベルトラン」


 ロベールは目の前の光景に笑顔をこぼした。


「はい?」


「誰もが皆、責め苦を味わい、絶え間ない苦痛に醜く顔を歪めている中で、どうしてあの女の人だけ、嬉しそうに笑っているのかね」


 ロベールは言うや否や、彼女の元に駆け寄っていた。


 髪は烏の濡れ羽色、肩も露わな白いレースの衣装を身に纏った女は、灼熱の炎にその身を焼かれながら、なぜか嬉しそうに笑っていた。


「——君はなぜ、そんなに嬉しそうに笑っているの?」


 ロベールは肩を露わにした女を激しい炎から救い出し、これ以上、焼かれるのを避けようと、岩陰にさっと引き寄せた。


「貴方こそ、どこのどなた?」


 ロベールに連れ出された事が気に食わないのか、肩を露わにした女は訝しげな顔をした。


「そうだな、さしずめ僕は旅の絵描きだよ」


 ロベールは笑って言った。


「……貴方、その角」


 肩を露わにした女は、ロベールの頭から生えた一本の角に気づいて、はっとした。


「あっはっは! どこの世界に、頭っから角を生やした旅の絵描きがいるのよ!」


 肩を露わにした女は、打って変わって、ほっと一安心したように、大笑いした。


「そんなにおかしいかな」


 ロベールは苦笑いした。


「貴方、人間と悪魔の間の子か何か?」


 肩を露わにした女に物珍しそうに聞かれ、ロベールは曖昧に頷いた。


「あはは、私も莫迦よね。さっき貴方に燃え盛る炎の中から連れ出された時、一瞬、神様なんじゃないかって思っちゃったのよ。本当、莫迦ね、こんな罰当たりな私の事を、神様が助けに来る訳ないのにね」


 肩を露わにした女は自嘲気味に言った。


「神様が助けに来たと思った割には、随分と嫌そうな顔をしていたんじゃない?」


 ロベールは疑問を口に出さずにはいられなかった。


 ——僕の事を地獄から救い出してくれる神様だと思った割には、反応が妙だった。


 そう言えばこの女の人、地獄の炎に巻かれながら涼しげに微笑んでいたような?


「……もしかして、こんな所に好き好んでいるんじゃないよね?」


 ロベールはまるで確かめるように、一度、辺りを見回して、質問した。


 地獄だ。


 地獄に好き好んでいるなど、普通じゃない。


 未来永劫、永遠に業火に焼かれ、いったい、何が楽しいというのか?


 だが——、


「こんな所に好き好んでいるのよ」


 肩を露わにした女は、嘲笑うように言った。


「どうして?」


 ロベールは興味津々という風だった。


「……私は〝永遠〟が欲しかったから」


 肩を露わにした女は寂しげに言った。


「なんでまたそんな御大層なものが欲しくなったんですか?」


 ロベールはますます、興味を覚えたように聞いた。


 彼女は微笑んでいる。


「……僕は現世で、不老不死の錬金術師に出会った事があるんですよ」


 ロベールは彼女がただ笑っているばかりだったので、ふと思い出しように話し始めた。


「その人はフランス革命前夜のパリに現れて、ルイ十五世の傷ついたダイヤモンドを元通りにし、一躍、社交界の寵児になった。お城までもらって、錬金術の研究をしていたとか。年齢はその時点で、二千歳とも四千歳とも言われていて、僕は、その人の肖像画を描いた事もあるんですよ」


 ロベールの話を聞いているうちに、肩を露わにした女の顔つきが、みるみるうちに変わる。


「僕が今まで描いた絵の中で、その人の絵が一番壮絶かも知れない。何せ、みんなが命尽き果てる中、たった一人、生き続ける男の絵だからね。彼はいつも笑っていたけれど、逆にいつも泣いているようにも見えた……不老不死っていうのはひどいもんだ、自分が笑っているのか泣いているのか判らなくなってくるんだから。なのに君は、この地獄で永遠に焼かれていたいと、涼しい顔をして、笑顔で言うんだから、これはすごい事だよ? よかったら、貴方の絵を描かせてもらえませんか?」


 ロベールは感心したように言って、真摯にお願いをした。


「……私、貴方が絵を描いたっていう不老不死の錬金術師が誰なのか知っているわ」


 肩を露わにした女は、思い詰めたような顔をした。


「……サン・ジェルマン伯爵」


 ロベールは、彼女の呟くような声を聞き、驚きに目を見張った。


「確かにあの人の名前は、サン・ジェルマン伯爵だ。でも、なんでまた君が、その名前を?」


 ロベールは半分、笑っていた——やはり、この女の人は面白い。


 サン・ジェルマン伯爵と言えば、ロベールが言った通り、十八世紀、パリ社交界に現れた、不老不死の錬金術師の名である。


「私の親は、私が十歳の時に死んだ。引き取ってくれた叔母とはそりが合わず、家を出た。家出少女が生活するには、盗みをやるか、体を売るしかない。私はどっちも嫌だった」


「だけど、そうするしかなかった?」


 肩を露わにした女は、何の返事もしなかった。


 が、そうに違いない。


 だからこそ、地獄に堕ちた。


「十五歳の時、殺しをやった」


「他には?」


 ロベールが質問すると、彼女は莫迦な事を聞かないで欲しいと言わんばかりに、けたけたと笑った。


「私は、殺し、盗み、姦淫、その他色々、自分で言うのもなんだけど、地獄がお似合いの女よ」


 肩を露わにした女は、いっそ、楽しげに笑った。


「…………」


 ロベールは聞いていて、なんだか気の毒になって来た。


 ——この女の人、〝永遠〟が欲しいなんて、あまりに地獄が苦しいものだから、強がりを言っているだけなんじゃないか?


「君だって、何もやりたくてやった訳じゃないだろう? そんなに自分の事を虐めなくてもいいんじゃないか?」


 ロベールは慰めるように言ったが、すでに地獄に堕ちているのだから、今更と言えば今更である。


 だが、あまりに可哀想な気がした。


 現世の罪を背負い、罰せられている自分を、永遠に嘲笑うというのは。


「……やりたくてやったのよ」


 肩を露わにした女は、一瞬、蛇のように唇を舐めた。


「なぜ?」


 ロベールは思わず、疑問を呈していた。


「判らない? さっき言ったでしょう? 私は〝永遠〟が欲しかったからよ。だから自ら罪を犯して、地獄に堕ちたの」


 肩を露わにした女は、あっけらかんとしていた。


「まさか本当に、永遠にその身を地獄の炎に焼かれたくて、そんな事を?」


「ええ、そうよ」


 肩を露わにした女は、勝ち誇ったように笑った。


「君はサン・ジェルマン伯爵の事を知っているんだよね。だったら、不老不死のあの人がどれだけ永遠に苛まれているのかも知っているよね? なのに、なんでそんな事をしたんだ?」


 ロベールはこの女の気が知れなかった。


 なんだか怖いぐらいだ。


「僕が描いたサン・ジェルマン伯爵の絵を見てみなよ。あの人がどんな気持ちで生きているか、はっきりとそこに描かれているはずだよ。あの人は僕に言ったんだ——『人は必ず生き別れ、死に別れる事になる。それは不老不死の私にすれば、永遠の苦しみになる』って!」


 ロベールは自分が描いたサン・ジェルマン伯爵の肖像を、懐から取り出そうとした。


「だからよ」


 肩を露わにした女は、きっぱりと言った。


「私はパリの社交界に高級娼婦として出入りした時、あの人に恋をしたの。でも、あの人のお眼鏡には敵わなかった。私は、ただの女だったから。不老不死でもない、錬金術師でもない、年老いて死ぬだけの、ただの女だったから」


 肩を露わにした女は、真剣な眼差しをしていた。


「……君は」


 ロベールは目の前の女性がサン・ジェルマン伯爵に対して、本当に思慕の念を抱いている事に気付いた。


「さあ、お望み通り、私の身の上は一通り話したわ。今度は貴方が私の言う事を聞いて、私の絵を描く番よ。貴方は見たところ、時々、地獄に迷い込んでくる現世の人間。それなら、絶対に現世に戻って、私の肖像画をサン・ジェルマン伯爵にお見せしてね」


 肩を露わにした女は恋する乙女のように頬を赤らめた。


「サン・ジェルマン伯爵に?」


 ロベールは鸚鵡返しに聞いた。


「そう——そして私は、サン・ジェルマン伯爵と永遠に愛し合うの。ここで永遠に、私はあの人の孤独を癒すのよ!」


 肩を露わにした女は、うっとりとしていた。


 ロベールが彼女と出会った時に初めて見た、地獄の激しい炎に焼かれながらもやけに嬉しそうにした、あの微笑みだった。


「そうか、僕の絵は現世のサン・ジェルマン伯爵に差し出す、恋文という訳か」


 ロベールはようやく、合点がいった。


 彼女が地獄の底でその身を炎に焼かれながらも微笑んでいたのは、愛する男を想っていたからなのだ。


 未来永劫続く拷問を受けながら、いつか愛する男に想いが届くと考えている。


 気持ちが通じ合うと信じている。


 だから微笑んでいる。


 これからもずっと。


 永遠に。


「君の気持ち、判ったよ。ところで、君の名前は?」


 ロベールが聞くと、彼女は一言、『マリー』とだけ名乗った。


「さあマリー、好きな格好をして。そうだ、こんな地獄には決して咲かない、一輪の花も描き添えよう」


 ロベールはあたかも匂い立つ花のように、豊かな髪をかき上げ媚態を見せた彼女に、見事な薄紫色をした一輪の花を描き添えた。


 その花の名前は、薫衣草ラベンダーという。薫衣草の花言葉は、『貴方を待っています』、だった。


 今も地獄の底まで行けば、一切が炎に覆われた場所に、まるで一輪の花のように、嬉しそうに笑っている女がいるかも知れない。

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