私と先生と永遠の雨に

まつりスプーン

私と先生と永遠の雨に

 私は先生に片思いをしていた。

 入学式の日、講堂にシューベルトのアヴェ・マリアが響き渡る中、私は先生と目が合った。先生の目は、ただ偶然目が合ってすぐに離れて行くような目ではなかった。先生の目は、私をじっと捉えていた。私もハッと驚いて、先生をじっと見てしまった。しばらくお互いに見つめ合う時間が流れた。ほんの数秒のことだったと思うのに、時が止まったようにも、永遠にも感じられる瞬間だった。

 あの日、私は報われない恋に落ちた。先生のことが好きで、好きで、どうしていいか分からない。この突然の溢れるような気持ちをどうやって表現したらいいのか、私は誰からも教わって来なかった。

 何故、あんなにも先生のことが好きだったのか、今ならよく分かる。思い返すと、恥ずかしさと苦味を伴って鼓動が速くなる。私は助けて欲しかった。誰かに甘えたかった。理解してくれる人、優しい人が側にいてくれたらと、ずっと夢見て生きてきた。孤独で、つらかった。

 そんな状態で人を好きになっても、誰からも愛されないのに。あの頃は幼過ぎて、そんなことも知らなかった。無知で、可哀想で、痛々しい。私はそんな子だった。

 先生は結婚していたし、奥さんと二人の子供がいた。

 私は、自分が抱えている孤独の闇の濃さに気付かなかった。簡単には癒やされないほどの深い寂しさに侵食されていたのに、漠然と名状し難い悲しみが胸の中に混沌と漂っているのを感じるだけで、自分がどれほど薄氷を踏むような危険な状態にまで追い詰められていたか、はっきりとは自覚していなかった。

 私は自分の感情も、自分が生まれた時から置かれてきた場所も、もちろん咲き方も分からずに、先生に会いに行った。休み時間や放課後に。階段を駆け上って、息を切らして会いに行った。何か悩んでいる振りをして。授業で分からなかったことを質問する振りをして。

 先生は私と二人で話してくれた。どんな会話を交わしたのか、もう殆ど覚えていない。思い出せるのは、白い机と、折りたたみ椅子。窓から白い光が射し、先生と二人きりの部屋は、いつも白く輝いて透き通るようだった。窓は開けていない筈なのに、カーテンが揺れているように、踊っているように感じた。

 先生は親切だった。私を見る目が優しくきらきらと輝いていた。先生は眼鏡がとても似合う人だった。いつも着ていた黒っぽいスーツも、私が男の人の恰好の中でいちばん好きな姿のひとつだった。背も私より高くて、肩幅はほっそりしているわけでも、太っているわけでもなく、ちょうど良かった。先生が私の肩や背中に時々置いてくれる手が嬉しかった。大きなしっかりした手だった。そこだけ、ふわぁっと浮き立つような、じんわりと温かくて、もっとそのまま抱き締めて欲しかった。

 私が会いに行っても、嫌な顔や迷惑そうな態度はひとつも取らなかった。先生は私の髪に触れ、何か囁いてくれた。励ましの言葉だったか、とても温かい言葉を。私は先生にもたれたかった。精神的にも物理的にも、先生に凭れて、安心したかった。雛鳥のように、私を全力で守ってくれる巣が欲しかった。



 先生、人生ってどうやって築いていけばいいんですか?お父さんもお母さんも、あまり良い親じゃありません。ひどい言葉やぼうりょくのなかで育った子供は、どうすればいいのでしょう?優しいお父さんとお母さんに真っすぐ育てられた人が憎いです。人を憎むのは悪いことだって、もちろん知っています。でも、どうしたらいいのか、分からないんです。教えてください。

 先生、私は幸せになれますか?幸せになるには、どんな風に歩けばいいのでしょう。私に地図の描き方と、羅針盤の見方を教えてください。いつからでも人は幸せになれると、今なら智慧として、真理として、私も知っています。

 先生、さみしい子供は幸せになれますか?愛情にくるまれて育った子供に負けませんか?そもそも勝つとか負けるとかじゃないってことも、知っています。でも、ふあんやさみしさが消えないんです。どうしたらいいですか?

 先生、私は先生に恋をしてお慕いしていた頃、よく聴いていた歌があるんです。「永遠の雨に」っていう歌です。歌手の名前は忘れてしまいましたが、男の人でした。うっとりするような良い声で、胸に染み渡るように、いつも聴いていたのです。先生を想いながら。

 外では強い雨が降り、雷が鳴っていても、家の中で暖かな温もりに包まれたなら、どれほど幸せでしょう。ソファーもお布団もふかふかで、暖炉で燃えている火が奏でる音も優しい。部屋はふんわりとベルガモットの香りがします。ベルガモットは、私のラッキーアイテムなんです。

 私は眠る前に、あなたが入れてくれたココアを飲みました。この世のものとは思えない美味しさでした。私はこの上ない安らぎに包まれました。甘やかで心地よく、初めて感じる安らかな夜の静寂しじまでした。


 先生、私は自分のことを少しでも好きになるために自分に名前を付けました。茉姫菜まひなと言います。まひなは、ハワイ語で月という意味なんです。素敵だと思いませんか?とても気に入っています。夜、この新しく名付けた私の名前を囁くと耳に美しく響きます。なのに、人生は美しくなく、いつまでも厳しさが続くのは何故ですか?

 昔々、私がまだ混沌の真っ只中にいた頃、遠縁の親戚の人が、新婚旅行のお土産にハワイのチョコレートをくれました。箱を開けて一粒食べてみたら、不味くてがっかりしました。

 でも、きっとハワイの月は、山は、空は、海は、大地は、美しいでしょう。この世の楽園なのでしょう。世界中の人がこぞって遊びに行くのでしょう。美しいに決まっています。だから私も美しく祝福された道、虹のかかる滝、星たちが降りそそぐ夜空、満開の花々の上を歩かなければならないのです。


 先生は幸せですか?幸せでいてください。いつまでもお元気で。学校のあの白い部屋は、今も変わらず眩いばかりの光で揺らめいているのでしょうか。さようなら。

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