3.川のせせらぎ、君と釣り

 森と森、その谷間にゆるやかな渓流がある。見て回った足で、そのまま少女を連れて来ていた。

 川を横目に、手前の岩場に腰をかける。そして持ってきていた釣り竿の準備をする。


「確かになんだってしてやるって言ったけど、釣りかぁ……」


 右隣に座る少女は、顔をしかめてさも嫌そうに呟いていた。

 彼女の言うような子分になったとしよう。しかし、人には意思と適正、向き不向きがある。

 一先ず、やらせたいだけやらせてみよう。ということで、体力も有り余っている様子だからと、丘を登ったその足のまま連れてきていたのだが、随分と渋い顔をしている。


「や、嫌ってわけじゃなくて……聞いたことはあったけど、これまでやったことないからさ。こういうのって目に見えて成果が出るかわかんないし。それに、魚が食いたいなら、もっと手っ取り早い方法とかあるじゃん。こう、素手とか、網とかさ。違うか?」


 自己弁護はともかくとして、確かに手段を選ばなければやりようはいくらでもあるとは、彼女の言うとおりだ。

 だから釣りをする目的はといえば、どちらかというと他にある。


「……釣りよりも、じっと過ごすのが目的なのか? ……へんなの」


 持論を語ってみたはいいものの、どうにも、体力の有り余っている子供には理解してもらえなかったらしい。まあ、口で言っても伝わらなければ、体感して貰うしかあるまい。

 準備を終えた釣り竿を少女に渡す。竹で出来た竿の先端に糸をつけ、そのまた先端に釣り針をつけた簡易なものだ。餌の虫も準備済み。あとは放り投げるだけだ。


「釣り、やってみるけどさ……釣竿とか壊しても、責任取れないからな。おれは、言ったからな」


 おずおずと受け取り、それから「せーの……そりゃっ」と声を出して勢いよく振る姿は、意外と様になっていた。


 釣り針が川に入り、ぽちゃんと音が響く。

 それから、静かな時間が流れていく。

 自分と、川の音。たまに鳥の鳴き声。

 釣りをしている間、ここにあるのは、ただそれだけがある。

 先ほど木々の下で寝転がっていたように、自分もまた自分なりに、自然を感じている。目で見上げるものではなく、心で見下ろすこともなく、ただ、隣にあるものとして。


「おやぶんって、森で一人暮らしてるって割りに、あんま喋んないよな」


 さて、それだけがあると言い切ったものの、普段とは違い、自分の横には少女がいる。

 彼女は話すことそのものが好きなのか、黙ってじっとしていることに耐えられなかったのか、早々に口を開き始めた。


「おれもこっちに来るまではそうでもなかったけど、しばらく一人で過ごしてたから、その反動っつーか、話したくなって当然……ってわけでもないのかな」


 まあ、生まれ持った性質によるものではないだろうか。


「おやぶんはさ、こんな場所で一人でいて、寂しくないのか? 後悔してることとか……いや、ないわけないよな、うん。まあだからさ、して欲しいことがあれば何でも言ってくれよ。それこそ、話す程度でもさ」


 気遣うような言葉が、少し微笑ましくもある。


 一人での寂しさもある。後悔していることだってある。

 でもそれは、一人で抱えられる程度のものだ。抱えながら生きていけるのなら、問題はない。

 でも、いつか抱え込めなくなったときが来るかも知れない。

 これから彼女がどうするとしても、村で生きていくのであれば必然関わりを持つことになるだろう。気遣うその言葉は、ありがたく受け取っておくことにした。


「でも、何でも言って欲しいっていったけど、釣りは……やっぱ苦手かも」


 そうした弱音は、少しだけ微笑ましいものだった。

 苦手なら仕方ない。加えて、根気よく向き合っているだけ良かった。自分がこの年の頃に、つまらないことをさせられても、早々に投げ出していただろう。


「というか、おやぶん、このまま煙に巻こうとしてないか? おれが子分になりたいって、本気で受け止めてくれてないよな? どうすれば信じてくれるのかなぁ……」


 特にこちらからはなにも言っていないのだが、勝手に悩む彼女に、なんといえばいいものか。

 ここで口出しをすれば、それこそ唆すようで難しい。

 こちらとしては本気で受け止めていない、というよりは真意が分からない、というべきだった。

 彼女が自分に求めるものが何であるのか、分からないのだ。それが分からなければ、なにも与えることは出来ない。

 果たして、餌をつけた釣り糸を垂らすように、彼女は話し始める。


「おれさ、住んでた村から逃げて、ここまで来たんだよ。ろくでもない村っていうか……家だったって言うか……とにかく、こき使われてた、って言えばいいのかな」


 静かな語りだった。

 その静けさとは裏腹に、胸の内にある熱を隠すような、そんな語り口だ。


「別に、昔はそういうものだと思ってたから、それでもよかったんだ。村の中だけで、死ぬまで過ごすんだって。でも、あるとき村の外から来た行商人さんがさ、外の話をしているのを聞いたんだ。視界いっぱいの水がある、うみ? だとか、見上げるくらい大きな氷の山だとか……夢みたいな外の話を、本当にあるみたいに言っててさ。本当にあるのかわかんないけど、いいなって、見て見たいなって、そう思っちゃった。そしたらさ……気づいたら飛び出しちゃってたんだ」


 憧れを語り、そして最後には茶目っ気があるみたいに、さも愉快であるかのように話す。

 しかし、飛び出した結末は……末路は、目の前にいる通りだ。


「準備も用意もほとんど何もなし。着の身着のまま。自分が、そこまでばかだったとは思ってなかったけど……後悔はしてないよ。もちろん、色々大変だったけどさ、でも、いまはこうして生きてるし。それに、結局のところ、おれはあの村からでたかっただけみたいだ。だからもう、十分。そんで得た教訓は、人生不自由なくらいが生きやすいってわけ……これでおやぶんは納得してくれたか?」


 納得する部分と、していない部分がある。

 つまりは、わざわざここに……自分のような、集団から一歩離れた山の中で暮らす必要もない。

 村で過ごせばいいだろう。それとも、折り合いが悪いのだろうか。


「……うん、ここの村の人たちは、いい人たちだと思う。だから、苦手なんだ。一度逃げ出したおれが、次、また逃げ出さないなんてこと、ないだろ。優しくされるほど、居心地が悪いんだ。おれは、おれがそういう人間だってわかってるから」


 伏し目がちに語るけど、すぐにぱっと上げた顔には笑顔が張り付いていた。


「でも、その点、アンタ相手なら別にいいかなって」


 それはどういう意味かと問う前に、彼女は「うーん」とのびをして、それから釣り竿を置き、急に靴を脱ぎだしている。


「おれ、やっぱ釣りは苦手みたいだ。でもちょっと待ってくれよな。手づかみなら、取ってこれるはずだからさ」


 止める間もなく、じゃぶじゃぶと目の前で川に足を踏み入れる。「けっこう冷たいな」と呟いてはいるが、袖をまくって臆することなく手を突っ込んでいく。


「っと、しょっと……この……よいしょっ。あれ、全然取れないな……うおぉっ」


 どこかで足を滑らせたのか、くずれていく姿勢。彼女の驚く声。

 ほんの少しだけ遅れて、じゃぶん、と響く。子供だから体が軽いのだろうか、思ったよりも静かな音だった。

 そして濡れ鼠一匹、できあがり。

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