レニングラードの凡庸なる魔女
夕藤さわな
第1話
飢えに凍てつく寒さが加わり死神たちはさらに忙しく働きまわる。この街で死はありふれたものになり、当たり前のように、道の至るところに転がっているものになった。
比喩ではない。
凍り付いた死体が片付けられもせずに道に転がっているのだ。いくつも、いくつも。
一九四一年九月に始まったナチスドイツによるソ連第二の大都市レニングラードの包囲は年が明けた一九四二年一月の今も解ける気配はない。敵に包囲され、封鎖された街に届く物資の量はほんのわずかだ。
パンは手には入らず、人が人らしく食べられる物も手に入らず、街からは犬も猫も姿を消し、人が人を食料とするまでに飢えて追い詰められていた。
命をも奪う寒さの中、何時間も長い列に並び、結局、配給されるはずのほんのわずかなパンすら手に入れることができない。
私もそうだ。
まだ暗いうちから何時間も長い列に並び、結局、今日もほんのわずかなパンすら手に入れることができなかった。これで何日目だろう。途方に暮れながらも家に向かってよたよたと歩く。
一度、足を止めたら再び歩き出すには多くの気力と体力が必要になる。倒れこめば二度と立ち上がることはできない。そうなったら道に転がって凍り付く彼ら彼女らの仲間入りだ。
背中を丸めて歩いていると道に転がる彼ら彼女らと目が合う。身近にある死の光景をもやのかかった頭で眺める。道に転がる彼ら彼女らの目は大きく見開かれ、その目からは大粒の涙がこぼれて頬を伝う途中で凍り付いていた。
***
何か食べられるものはないかと家の中を探す。食べ物を、ではない。口に含んで、噛んで、飲み込んでも死なず、ほんのわずかでも飢えを誤魔化せる何かだ。
もちろん、そんなものが残っているはずはない。祖父や父の革ベルトも壁紙も、本のページすらも食べてしまった。木製の家具は
途方に暮れていると部屋のすみにぞんざいに置かれた一本のスプーンが目に入った。ツタが巻きついたデザインの鈍く金色に光るスプーンだ。
ドイツ軍の空襲や砲撃により多くの食器は割れ、残ったものも闇市でほんのわずかなパンと換えてしまった。あとは欠けて役に立たない物ばかり。祖母にもらったそのスプーンもまた、役に立たない食器の一つだ。
他の食器と違って割れたり欠けたりしているわけではないのだけれど。
森の魔女の末裔だという祖母からそのスプーンをもらったとき。十才だった私はなんて役に立たないものをもらってしまったのだろうと子供ながらに思った。
祖母はニコニコと微笑んでそのスプーンのことをこう紹介した。
「シチューを食べるのに使えないけれど、たくさんの「幸せ」をすくい取る魔法のスプーンなのよ」
試しに母が作ってくれたシチューを魔法のスプーンで食べてみようとしたけれど、すくうどころかかき混ぜることもできない。シチューに隠れたスプーンの下部分が溶けて消えてしまったかのようにシチューの表面は少しも揺れない。
持ち上げてみるとスプーンの先はきちんとあって、溶けて消えたりはしていなかった。だけど、スプーンの先からぽたりとシチューが垂れることもない。
「幸せ」をすくい取る魔法のスプーンというなら、と宙ですくう仕草をしてくわえてみたけれどこれまた何も起こらない。
しかめっ面の私を見て祖父は静かに微笑み、父はケラケラと笑い、母はいつものスプーンで食べなさいと湯気の立つシチューに子供用のスプーンを差し入れ、役に立たないスプーンをくれた当の祖母はニコニコニコニコ笑っている。
「あなたのお父さんは魔力がなくて使えないけれど、あなたならこの魔法のスプーンを使うことができるから」
こんな役に立たないものをもらってどうしろというのだろう。
私が考えていることを見透かした上で祖母はニコニコ顔で答えにならない答えをくれた。
魔力は体力と同じ。使えば消耗し、食べて寝れば回復するのだと祖母は言っていた。今は消耗した魔力どころか生きるために必要最低限な体力を回復するための食料もない。寝て回復しようにもこの寒さと空腹では二度と目を覚ますことはないだろうという確信がある。
魔力を消耗するなんて命取り。「幸せ」をすくい取ると言いながら何も起こらず、なのに魔力だけは消耗する魔法道具を使うなんて論外だ。
やっぱり役に立たないなとため息をついて私は「幸せ」をすくい取るというスプーンを見つめた。役に立たない具合で言ったら今では普通のスプーンも同じようなものなのだけれど。何せすくい取るシチューがどこにもないのだ。
「……」
いや――。
デザインが凝っている分、祖母からもらったこのスプーンの方がほんのわずかだけどパンと交換してもらえる可能性は高いかもしれない。スプーンがシチューをすくえるかなんて確かめる疑り深い人間はいないだろうし、そもそも装飾品と見なされるはず。
パンを受け取って胃に納めてしまえばこちらのものだ。
毎日のように行われるドイツ軍の空襲や砲撃で家の壁には穴が開いていた。暖房器具を点けるための燃料はもちろん、火にくべられるようなものももうない。家の中にいれば寒さをしのげるというわけでもないのだ。
私は魔法のスプーンを懐に入れると外へと出た。
***
しまったと思う暇もなく足がもつれてひっくり返った。
着れるだけのものを着込んでいるので痛みはない。ただ、恐れていたとおり起き上がることができなくなってしまった。右を見ても左を見ても道に転がって凍り付いた彼ら彼女らがいる。大きく見開かれた目と目が合った。
このままここに横たわっていたら彼ら彼女らの仲間入りをしてしまう。
「……っ、……っ」
かすれた声すらも出ず助けを求めることができない。幸いにも人通りはある。まだ私が生きていると誰かが気が付いてくれるはずだ。
目の前を通り過ぎていく人たちの目をじっと見つめた。
凍てつく風から身を守るために頭からすっぽりと布を被り、着れるだけのものを着込んでいる。むくみ、顔色は悪く、男か女かもわからず、皆、老人のように見える。うつむいてよたよたと歩く人たちは亡霊のようで、ここはすでに死者の国なのではないかとさえ思えてきた。
うつろな目をした人たちは道に転がる私のことを見ようとしない。目をそらしたり顔を背けたりするわけではない。でも、目が合わない。凍り付いた彼ら彼女らの横を通り過ぎるときと同じように道に転がっていて当然のものとして通り過ぎていく。
すでに死んでいると思われてしまっているのだろうか。
私は死んでいない。まだ死んでいない。
起き上がらせてさえもらえれば、まだ――。
「……」
大きく目を見開き、ゆっくりとまばたきをする。残っている力すべてを使ってまだ生きているとアピールする。助けてくれと目で訴える。
私よりもほんの少しだけ恵まれた二人が私の横を通り過ぎていった。親子だろうか、兄弟だろうか、夫婦だろうか。互いに相手に寄り掛かってよたよたと歩き去っていく二人の背中を大きく見開いた目で見送る。
「……」
最初の一人がなんと言ったのかは聞き取れなかった。多分、〝まだ生きている〟とでも言ったのだろう。対する答えに私の心臓が跳ねた。
「……もうすぐ死ぬ」
そして――。
「……」
同意するように小さくうなずくのが見えて――大きく見開いた目から涙がこぼれ、頬を伝う途中で凍り付いた。
右を見ても左を見ても道に転がって凍り付いた彼ら彼女らがいる。ぎょろりと大きく見開かれた彼ら彼女らの目からも大粒の涙がこぼれ、頬を伝い落ちる途中で凍り付いていた。
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