きょうも一つ手話を覚えた

元橋ヒロミ

第1話 きっかけのカップル

 手話を覚えようと思った理由は、大したものではありませんでした。

 劇的な何かがあったわけでも、何か必要に迫られていたわけでもなく。かといって、知人に手話を使う人がいたわけでもありません。

 ただ、仕事をしていた時に、ちょっとしたモヤモヤする出来事があったのです。


 私は、いわゆるサービス業といわれる仕事をしています。

 その日もイベントの関係で、建物の外に出て、商品の説明と受付をしていました。

 まばらに行き交う人々、そこから外れて遠巻きに説明を聞いている、何人かの人達。

 いつもの光景です。

 私は、説明を聞いている人の中に、少し違和感を感じました。20代前後カップルです。


 目立つ格好をしていたというわけではありません。ただ、なんとなく動きか気になりました。

 男性がスマホに何かを打ち込み、それを女性に見せる。女性はそれを読んで、困ったような表情を浮かべています。

 二人はそんなやりとりを、何度か繰り返していました。

 何度目か、男性がスマホを見せた時、女性が左右の手や指を、踊るように……透明なハープを奏でるように動かすのを見て、初めて気がついたのです。


 手話しゅわ


 といっても、私は全く手話の勉強をしたことがありません。

 ですから、本当は違っていたのかもしれないのですが、それを手話だと思いました。

 思ったあと、私がどうしたのかというと……をしました。


 そもそも手話なんて、私には出来ないし。

 一人のお客に時間を掛けすぎると、受付の列は伸びてしまいます。そうなれば、仕事全体に影響が出てしまうでしょう。


 いや、これは言い訳でしかありません。


 本当は『面倒だ』と思ったからだと思います。

 あと、何も対応できないであろう自分が、頭の中に浮かびました。

 恥をかくのが嫌だった。カッコ悪い姿を、同僚に見られるのが嫌だったのです。

 だから、そのカップルが困ったような表情を浮かべたあと、立ち去る姿を見て、私は心底ホッとしていたのです。

 そして、カップルがどんな気持ちだったのか、想像していながらも、頭の片隅へと追いやったのです。

 我ながら、最低だと思います。


 私は、過去に自分が差別されてきた経験から、他人を差別しまいと思ってきました。

 差別する人間を、軽蔑していたくらいです。

 なのに、この有り様でした。


 一週間後、仕事の帰り道。

 そのことが、その時の感情ともに頭の中で再生されて、手話を勉強してみようと思ったのです。

 手話を勉強して、その後なにかしようとか、そんなことは考えていません。

 ほんの気まぐれでした。


 ところで、初めて手話を勉強する人は、何から始めるのでしょうか?

 なにもわからない私は、とりあえず本を買えば良いと考えて、最寄りの駅の本屋へ行きました。

 ところが、そこには手話の本なんて、1冊も置いていなかったのです。

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