初恋の君 Ⅰ


「はぁ……」


 ナイルたちが去った静かな室内で、ミレーユは椅子にもたれ、ゆっくりと溜息を吐き出す。


 一人になると、途端に疲れを自覚してしまう。長く吐きだした息が、心の疲れとなって血流を渡って体全体に広がっていく錯覚さえ感じるほどに、体が重くて仕方がなかった。思えば、父に命じられた日からずっと緊張状態だったのかもしれない。


「いえ、休んでいる場合ではないわ。考えなくちゃ……」


 フルフルと頭を振って活力を呼び覚まそうとするが、さすがに今日はどうしても脳がクリアになってくれない。


「自業自得、ね」


 あの時もっと父を諫めていれば、こんなわけがわからない状況には陥らなかったはず。罰を受けてでも、自分は止めるべきだったのだ。だが、いまさら説得できなかった自分の力不足を後悔したところで、なんの解決になろうか。


「それにしても、本当にここで休んでいいのかしら?」


 求めていた花嫁ではないことが伝わるには、十分な時間が経過したはずだ。いまだに話し合っているにしても、少しくらいこちらに問うなどしてくれないものだろうか。


 なにも分からずただ待つ時間は長く、そして不安だった。


「はしたないけれど……少しだけ…」


 樫材でできたテーブルに耳をつけ、耳朶に集まる魔力に集中する。


『――――で、さぁ』

『ああ、――って聞いたよ』


 誰かの会話が聞こえてきた。


(よかった。ドレイク国でも使えるみたい。さすがに相手が竜族の方だと使えないかと思ったけれど)


 ミレーユの数少ない能力には、遠くからでも音の周波数を拾うことができる力があった。


 聞き耳を立て、人の会話を聞くというお世辞にも行儀の良いものではないため、自国でもあまり公言はしていないが、齧歯族の“原始の能力”と言われる一つだ。


『聞いた? 今日お越しになられた王妃様の女官候補たちが、総入れ替えするみたいよ』

『ええ、どうして? 厳選に厳選を重ねた、魔力も家柄もすべて兼ね備えた人材で構成されたメンバーだったわよね?』

『なにか手違いでもあったんじゃないかしら。あのナイルさまが頭を抱えたそうだから』

『まあ! あの方が頭を抱えるって、よほどのことがあったのねぇ』


 そこで、パッと耳を離す。


 総入れ替え――――。


 きっと、自分が偽物の花嫁であることがナイルの耳にも届いたのだろう。

 知っていて騙していたことが居た堪れない。


 頭の後ろが冷えていく感覚に耐えながら、伏せていた視線を上にあげると、虹石の砂時計が目に入った。


 ミレーユはほぼ無意識に立ち上がり、緩慢な動きで砂時計の前まで来ると、ぼんやりとその美しい色を眺める。ここを出れば、こんな数の虹石を見る機会などもう二度とないだろう。

 ならば、せめてこの美しさだけは、美しいままに心に留めておきたかった。


「不思議な輝き……」


 見る角度で色が変わる、神秘の石。

 虹石の色は、心を奪われるように美しかった。


 この石一つで戦争が起きてしまったことには憤りを感じるが、こうやって間近で見ていると、手に入れようと躍起になる気持ちも少しだけ理解できる。それほどに七つの光が眩しくて仕方なかった。


「……でも、ヴルムはもっと眩しかったかな」


 思わず零れた名を、大切に呼ぶ。


 虹石を見た瞬間、溢れるように思い出した――――あれは十年前の戦が終結する少し前の祈年祭の日。


 食糧難とは言え、農作で生きながらえている国にとっては大事な式典だ。たとえどれほど質素であろうが、祈年祭は執り行われる。


 苦難の年であったからこそだろう。余計に聖女の君と崇められる妹のエミリアと違い、自分はいてもいなくてもいい存在だった。


 産まれた時から特別だったエミリア。

 待遇の差は明らかだったが、それをミレーユが羨んだことはなかった。


 幼い時から、特別な人間はほんの一握りだという事実を、ミレーユはよく理解していた。


 多産系である齧歯族の人口はそれなりに多いが、大半の者が魔力も能力も大したことがなく産まれる。


 それは王族であろうが貴族であろうが、平民でも同じだ。

 だからこそ自分が特別でないことは当たり前で、羨む心を持つことすらお門違い。


 そんな手に入らないものは望まない。望むのは、一日でも早く戦が終わること。そうでなければ、乳母の娘、ルルまで飢えで苦しむことになる。


 祈年祭が終わり皆が引き上げた後も、ミレーユは一人森の奥深くにある祠で祈りを続けた。


 だが、ふいになにかが落下する音を聞きつけ、慌てて外に出る。

 辺りを見回せば、誰かがそこにいた。


 最初に目に入ったシルエットは子供の背丈。

 てっきりルルが迷い込んだのかと思ったが、よく見れば違う。


 その子は、まばゆいばかりの七色の髪を持っていたのだ。


 振り向いた瞬間、目が合って驚いた。髪だけではなく、その大きな瞳すら七色だったのだ。

 自分よりも少し年下の男の子に見える彼は、すべての造形が美しかった。


(森の妖精?)


 妖精など架空の生き物だと思っていたが、彼は確かに妖精のような特別な存在感があった。


 少し距離があるというのに、長いまつ毛の先から見据える瞳はあまりに神秘的で、とてもこの世の者とは思えない。


 驚きのあまり立ち尽くすミレーユの代わりに動いたのは、彼の方だった。


 七色の髪に、七色の瞳。

 まっすぐに目の前までやってきた美しい色を持つ少年は、ミレーユを見つめ、その瞳を瞬く。


「僕は、ヴルム。君の名前はなんていうの?」

「み、ミレーユ……グリレス国の第一王女、ミレーユ・グリレス…です」


 名を口にするだけで、これほど緊張したのは初めてだった。


 いつもならもっとマシな自己紹介ができただろうが、いまは名を告げるだけでやっとだ。


「ミレーユ……、可愛い名前だね!」


 七色の少年ヴルムは、王女というところには興味がないようで、ミレーユの名だけをゆっくりと復唱すると朗らかに笑む。


 その笑顔を見た瞬間、軽やかな風が吹いて、周りの木々までもが色を濃くしたように感じられた。


「僕、母上以上の“陽力”を持つ子なんて初めてだ!」

「え?」


(陽力って、なんのことかしら? 魔力のことではないわよね?)


 妖精が感じる特有の何かなのだろうか。


 不思議に思いながらも、ミレーユはなぜ彼がこんななにもない森にいるのかの方が気になった。

 問えば、ヴルムは「うーん」と、少し考え込むように首を傾げた。


「なにってわけでもないけど。ちょっと家出してきただけで」

「家出?! ……家出するほど、なにか嫌なことがあったの?」


 思ってもいなかった回答に、ミレーユの問いかける声も心配げなものになる。


 両親との言い合い?

 それとも兄弟喧嘩だろうか?


「父上が仕事をしなさすぎて、将来僕がその尻ぬぐいをするんだと思うと気が重くて。母上の親類からは、毎日のように僕はああなるなとグチグチ言われるし」

「ま、まぁ…」


 ヴルムの家出の理由は、ミレーユが考えていたよりも深刻だった。

 こんな幼い身空で、なんとも世知辛い悩みだ。


 だが彼より年上とはいえ、ミレーユもまだ九才。なんとも答え難い。


 ミレーユが戸惑っていると、ヴルムが何とはなしに問う。


「ミレーユの父上はちゃんと働いてくれる?」

「え? ……ええ」


 少しだけ言い淀んでしまったのは、その働きが国民に還元されていないことを知っていたからだ。


 現在起きている近隣二つの国の争いを制する国力が、自国に無いことは承知している。

 だが、両国を敵に回したくないあまりにどっちつかずな父の態度が、それぞれを煽っているようにしか見えなかった。争いの終結を望む嘆願すら、いま国民が喘いでいる状況ですら一度たりとも提出されていない。


 それは小さな国が生き抜くための苦肉の策なのか、問題先送りの愚策なのか――――。


 両国の争いを止められないのならば、せめて民の者たちがこれ以上苦しまぬよう国庫を開いて欲しいと願ったが、それもけんもほろろに断られた。


 今後どちらかの国に加勢するとき、戦で配給する食料がなくなっては困ると。


 父がいう加勢するときとは、どちらかの国が勝利目前になった頃をいうのだろう。抜け目なく、勝利が確定した国に媚びるために。


(現状を考えれば、いま現在ですら、戦に参加するほどの余力があるとは思えないけれど……)


「どうしたの? かなしそうな顔してる」


 心配げに顔を覗き込まれ、ミレーユはハッと頬を抑えた。

 いま、自分はちゃんと笑っていたはずだ。なぜ気分が滅入ってしまったことが彼に伝わってしまったのだろう。


(いけない、沈んだ気持ちを顔に出してはいけないわ)


 それは、亡き母から贈られた言葉だった。


 たとえ心の中がどれだけ大雨であろうと、明るくほほ笑んでいれば、きっと気持ちも晴れてくれる――と。


 優しく教えてくれた母の最後の言葉を、ミレーユは大切にしていた。


 だから、いつものように笑って『なんでもない』と言えばいい。そしたら、皆、それ以上は気にもとめない。


「な…」


 なんでもないの、そう言うとして言葉が喉の奥でつまる。

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