月海院


「またねー! るなせんせー!」

「子供を診て頂き助かりました……ありがとうございます」

「こちらこそ、お子さんが元気になって本当に良かった。気をつけてお帰り下さいね」


 街道でのクロムとの再会。

 そしてそのクロムを奏汰かなたよりも先に助けたという、ルナ・トリスティアなる渡来人とらいじんとの出会い。

 クロムの話すところによれば、たしかに今の彼は彼女の保護下にあり、クロムが着ていた〝四つ身の着物〟もルナが用意してくれたものなのだという。


「わぁ……! 見て下さい奏汰さんっ! この本……最近出回るようになった〝重訂解体新書ちょうていかいたいしんしょ〟ですよ! 僕も書店で一度だけ見ましたけど、とんでもなく値が張るんですっ!」

「解体新書? そういえば、授業で聞いたことあるな……」


 もとより、奏汰が世話になっている新九郎しんくろういおりは手狭すぎ、新たにクロムを受け入れる余裕はない。

 奏汰がクロムと知り合いであることや、奏汰もまた江戸での地盤がないことを打ち明けると、ルナは快く今後もクロムの身元を預かることを承知してくれた。

 そうした話の後。奏汰たちはルナに案内されるまま、彼女が営む診療所――月海院つきみいんにやってきていた。


「貴重な書物ですので、丁重にご覧になって下さいね」

「そうだぞ君たち! ルナに迷惑をかけるようなことがあれば、神である私が許さないからなっ!!」

「しっかし……診療所ってぇからどんなとこかと思えば、あっちもこっちも本本本……新坊じゃねぇが、書店でも開けるんじゃねぇか?」


 町民屋敷を改装したらしき室内には所狭しと本が並び、台の上には診察用の見慣れぬ器具や陶器の容れ物が重ねられている。

 さらに軒先から見て奥の座敷には、大小あわせて四つの布団が等間隔で並べられていた。


「私もまだまだ医師としては半人前……少しでもみなさんの力になれるよう、蘭学だけでなく、日の本に伝わる伝統医療や、唐の漢薬についても学んでいるところです」

「すごいです! 僕もあっちこっちで月海院の先生は大層立派な方だって耳にしてましたけど、本当にそのとおりの方なんですねっ!」

「あらあら。立派なんて……そんなことありませんよ」


 新九郎からまっすぐに羨望の眼差しを向けられ、ルナは陽光のようににっこりと微笑む。

 丸めがねをかけた知的な顔立ちとは別に、彼女の醸し出す雰囲気はまるで日向のようだ。


「なんか……ただ話してるだけでほっとするような人だな。あのクロムがすぐに仲良くなったのもわかる気がする」


 ルナのその穏やかな気を受けた奏汰は、なるほどと納得したようにクロムの横顔を眺めた。


「べ、別に私は、まだぜんっぜんルナと仲良くなってなんてないよ!? だいたい、私が彼女に助けられて一日しか経ってないし……!!」

「ふふ……それでも私にとっては、もうクロムさんは大切なお友達です。貴方さえ良ければ、ずっとここにいてもいいんですよ?」

「はうあっ!? い、いや……その、そういうわけじゃなくてだね……わ、私も君にはとても感謝しているし……あうあう……」

「なんでぇこのがき、いっちょ前に色気づきやがってよぉ! 素直じゃねぇなぁ!?」

「だ、誰がいつ色気づいた!? 不敬罪で焼き尽くすぞ貴様!?」


 とても強大な力を持つ神とは思えぬクロムの狼狽えっぷり。

 共に戦場を駆け抜けた相棒の微笑ましい姿に奏汰は思わず笑みを浮かべ、新九郎は好奇心のままにルナに質問を投げかける。


「ところで、ルナ先生はどうして診療所を開こうと思ったんですか?」

「私はこの国の方に命を助けていただいたのです……乗っていた船が遭難し、死を待つばかりだった私を、この国の皆さんは救い出し、暖かく迎えてくださったのです」


 新九郎の問いに、ルナは柔らかな笑みをたたえたままはっきりと答えた。


「私の故郷は、ここから〝ずっと遠い場所〟にあります。もちろん、いつかは帰りたいと思っています……でも今はそれよりも、この国の皆さんに助けていただいたご恩を返したい……その一心で、こうして私にできることをしているのです」


 文政ぶんせい当時。

 徳川幕府成立初期よりかはいくぶん緩和されたものの、鎖国制度は依然として強固に維持されていた。

 本来であれば、ルナのような渡来人が国内で職を得るなど、どのような理由があろうと到底許されることではない。

 しかし彼女には豊富な知識と医師としての卓越した技術。

 更にはすぐに日の本の言葉を習得するほどの才もあった。

 彼女の献身的で模範的な態度は、厳格で知られる幕府の役人を突き動かし、最終的には幕府三役の一つにして筆頭奉行である〝寺社奉行じしゃぶぎょう〟がお許しを出したことで、彼女の永住と江戸での活動が特例で認められたのだという。


「この国に住む人々は、とても素晴らしい方ばかりです。いつか、私が故郷に帰る時が来たとしても……それまではこの国のみなさんのために尽くしたい。そう思っています」

「ほ、本当に立派な人じゃないですか……っ! なんだか、感動して僕まで胸が熱くなってきました……!」

「良かったなクロム。この世界で最初に会ったのが、ルナさんみたいな優しい人で」

「ふん……元はと言えば、君が私を助けに来るのが遅いのがいけないんだからね! まあ……ルナに会えて良かったのはそうだけどさ……」


 まさに聖女と見まがうばかりのルナの優しさと情熱。

 彼女の思いに心打たれた奏汰と新九郎は、ともに何度も頷いてその言葉に耳を傾けた。すると――。


「かーーーーっ! しみったれた話しやがってよぅ! そこまで頑張らなくたって、おめぇはとっくに江戸中のやつらから感謝されてらぁ!!」

「ですね。僕もそう思いま……って、どうしたんですか弥兵衛やへえさんっ!? 弥兵衛さんのお目々から涙が滝みたいにどばどば出てますけどーーーー!?」

「うるせぇ! きゅうり侍は黙ってろぃ! ここはちょいとかび臭くていけねぇぜ、俺はちょっくら外で待ってっからよぅ!!」


 ふと横を見れば、そこにはルナの話を聞いてだばだばと涙をこぼす弥兵衛の姿。

 これにはさすがの新九郎もおもわずぎょっとし、弥兵衛は溢れる涙を抑えながら、照れ隠しのような言葉を残して外に出て行った。


「……弥兵衛さんって、すごく優しい人なんだな」

「そうそう、そうなんですよ! 僕もいっつも気にかけて貰ってまして……」

「本当に、みなさん優しい人ばかり……けど、それなのに私は……」

「え……?」


 出て行く弥兵衛の背を見送った直後。

 奏汰は不意に呟かれたルナの言葉に、違和感を覚えて振り向いた。しかし、その時――。


「な、なんでぇおめぇら!? ぎゃあ――!」

「っ!? 弥兵衛さん!?」


 奏汰がその違和感を自覚するよりも早く。

 月海院のすぐ外から、争うような音と共に弥兵衛の悲鳴が聞こえてきたのだった――。


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