記憶の複製

水村ヨクト

記憶の複製

「ねえ見て! 私この間旅行してきたんだけど、そのときの写真! めっちゃエモくない?」


 都内の人気でお洒落なカフェで、大学の同級生であるかおるにそう言いながら、私は綺麗な夕焼けの写真が映ったスマホの画面を差し出した。


「へえ、いいね。どこ行ってきたの?」


 ……あれ、どこだっけ。


「えっとね……ちょっと待って」


 あー、思い出せない。喉元まで来てるのに。まぁいいや。たしか駅に着いたときに写真を……。

 スマホを手元に戻して、画面をスクロールする。


「あ、そうそう! 江ノ島! やば、これ思い出せないとか」


 私は笑いながら、江ノ電の写真を薫に見せる。そして、他の写真も見てもらいたくて、画面を何度かスクロールした。


「これ江ノ島で食べたかき氷! めっちゃかわいいよね」


 薫は抹茶フラペチーノのストローから口を離して、私のスマホを覗き見る。


「めっちゃかわいいね。なんていうお店?」


 なんだっけ。

 思い出せないな……。あ、お店の外観の写真が一個前にあった気がする。


「これこれ。えっと、『とうしゃ』ってお店! 見て、和風の外観でお洒落でしょ?」


 私は写真に写る古民家風の建物を指さす。


「ね、お洒落。これで店主の人が着物とか着てたら最高じゃない?」


「着物、かあ。着てたかな? うーん、思い出せない……」


 かき氷とかはよく覚えてるんだけど……。あれ? でもあれどんな味だったっけな……?


ゆい


 薫の白くて細い指が私のおでこを弾いた。


「痛っ」


「ボーっとしてる。どうしたの?」


 薫の茶色い瞳が私の目を覗き見る。その瞳の深さに私は少しだけ狼狽え、頭を二、三振った。


「なんでもないよ」


 私はそう言ってバニラフラペチーノの甘さを味わった。


「で、この夏は他にどこに出かけたの?」


 頬杖をついている薫が窓からの日差しに照らされている。

 えっと、他には……。

 私はスマホのアルバムをスクロールして写真を探した。


「そうそう! 水族館に行った!」


 大きな水槽に優雅に泳ぐ無数の魚が写った写真を見つけて、私は言った。


「綺麗でしょ?」


「うん。綺麗。どこの水族館?」


 私の手が固まった。

 どこだっけ。……あれ? さっきも思い出せなかったような……。アルバムを探す。どこ? どこに行ったの? 私。

 悩みながらも、私は水族館のチケットが写った写真を見つけた。


「あった……サンシャイン水族館。なんでだろ、有名なのにね」


 少しだけ顔が引きつっているのが薫にも伝わったようで、薫は「どうしたの?」と優しい声色で言ってくれた。


「ううん、ちょっとど忘れが激しいかなって思って」


「そっか。ねえ、夏休みじゃ、水族館混んでたでしょ?」


 薫の無垢な笑顔が、なぜか少しだけ怖く感じた。


「え、えっと……そうだったかも。写真にたくさん人混み写り込んでるし」


「誰と行ってきたの?」


 間髪入れず薫は質問を投げかけてくる。その興味が、何だか異様に思えた。


「だ、れと……だっけ」


 あれ?

 思い出せない。スマホに指が伸びる。


「多分、友達……」


 画面をスクロールしながら、自分でもわかるくらい弱気な声で言葉を絞り出す。


「思い出せないの? そんなに写真撮ってるのに」


 薫が乗り出していた身を引いて、椅子に姿勢よく座り直す。薫の顔が、影に入って暗くなった。


「あった。えっと、美保みほ友里ゆうり


 水槽の前で三人が自撮りをしている写真が見つかって、私は少しだけ安心しながら言った。スマホから視線を外して正面を見ると、薫の表情が影でよく見えなかった。


「結って、どんな思い出も写真に残しておくよね」


「そう、だね」


 何でそんなことを……。


「まるで記憶のコピーをスマホにバックアップしてるみたいに」


 記憶のコピー?


「私は、旅行とかに行ってもあんまり写真は撮らないんだ。手元に記録として残しておくよりも、ここに記憶として残しておきたいから」


 胸に手を当て、優しく俯く薫。

 その言葉の意味を、私は考えていた。


「ねえ、写真は見ないで思い出してみてよ。江ノ島とか、サンシャイン水族館での思い出」


「う、うん……」


 ……。

 記憶を、遡る。江ノ島での思い出。サンシャイン水族館での思い出。

 駄目だ。写真で撮ったことしか思い出せない。断片的でまるでツギハギだらけの思い出だ……。

 スマホの画面をスクロールしながら、困惑するより先に私は私に憤った。なんで思い出せない。なんで覚えておかない。スマホが覚えてくれるから、自分はいいやって、忘れてるのか? それでいいのか?


「なんで……なんで……」


 自分でも引いてしまうくらい、突然に、場もわきまえず、私は動揺している。心拍数が上がっている。手に汗を握っている。


「落ち着いて、結」


 そんな私を治めるように、薫は私に言った。人形みたいに綺麗な指先を、私の眉間に置く。


「薫」


 深呼吸をする。不思議と、暴れていた胸の何かが静かになって、私は現実に引き戻された。

 そんな私を見て、薫は口を開く。


「ごめんね、私ちょっと意地悪しちゃった」


 意地悪?

 刹那、私の脳内に衝撃が走った。と同時に、失われていた思い出の記憶が次々と蘇る。写真に収めていない、私の眼で見た記憶が。まるで薫の指先から流れ込んでくるかのように。江ノ島に向かう電車の中。友達と並んで歩いた道のり。サンシャイン水族館のチケット。エレベーター。

 私はこれだけの記憶を忘れていた……?


「かお、る? こ……これって」


 私は頭に手を当てながら、薫に尋ねた。


「実は私、さっき結に、写真で撮った風景しか思い出せない呪い掛けたの」


 呪い……?


「呪いって、なんでそんな……ていうかどうやって……?」


 突拍子のない単語に私は目をぱちくりさせた。

 薫は、少しだけ顔を私に近づけた。陽に照らされて、薫の切なそうな表情が現れる。その顔は、綺麗で、儚げで、どうしても話を聞いてしまうような魅力がある気がした。


「だって、結、最近写真ばっかりなんだもん。下校中も、遊びに行っても、ご飯食べに行っても、旅行に行っても、スマホ片手に。私が見たあの思い出の風景を、結はどれくらいその眼で見た? スマホの画面越しとあなたの眼。どっちの方が長く景色を見てた? 帰り道で見つけた黒猫も、一緒に食べたパンケーキも、私の心には残ってるのに、結にはまるで残ってないみたい。スマホのストレージに、ただのデータとして残ってるだけ。そんなのって、あんまりにも悲しいから、気付いてほしくって……」


 後半は少し泣きそうだった。

 薫は、そんなことを考えて……。

 ……でも、それじゃあ私が全部思い出を覚えてないみたいじゃないか。それは、違う。


「違う……!」


 気づいたら声を張っていた。


「覚えてるよ! 覚えてる! だって今忘れてたことは全部呪いのせいなんでしょ⁉ だったら、私だって思い出は全部心の中に残ってる!」


 私の声に、薫は頷いた。


「分かってる。分かってるよ。全部忘れてるわけじゃないってこと。でも。普段からカメラ越しばっかりで風景を見て、思い出を語るときはスマホ片手で……そういう行動が、不安になっちゃう」


 潤んだ瞳が、私に向く。


「ごめん。メンヘラみたいなこと……でも、それが本心」


 …………。


「それと、結は覚えてるって言ったけど。私、かき氷屋さんの話までは何もしてない」


 ……まさか、そんな。

 ということは、最初の忘却は本当なのか。

 やっぱり、私はスマホにばっかり頼って、思い出を覚えようとしてないということなのか……。

 ああ、些細なことだ。些細で、くだらない、スマホの写真でこんなことになるとは。思い出を全く覚えてないわけじゃない。でも、思い返すと、写真に撮ったことばかりが鮮明で、強烈で、他の風景が霞んでしまっているのは確かだ。薫はちゃんと全部覚えてくれているのに。

いつでも思い出を取り出せる私は、いつでも取り出せるから忘れていくのかもしてない。

だから、


「……ごめん。ごめんね薫。たしかに、薫の言うとおりかもしれない。私、今後はちゃんと自分の眼で風景を見て、音を聞いて、感じて、心に思い出として大切にしまうことにする」


 私の言葉に、薫は静かに頷いた。


「ありがとう」


   *


 数日後、私は美保と友里、そして薫と四人で東京スカイツリーに出かけた。

 展望台から景色を眺める私に、美保が声を掛ける。


「あれ? 結、今日あんまり写真撮ってないね?」


 私は遠くに見える東京湾の水平線を眺めながら、答える。


「うん。この景色をちゃんと自分の眼に焼き付けておきたくって」


「ふうん」


 視界の隅に、優しく微笑んで景色を眺める薫の姿が映った。

 写真に収めることのできないこの風景を、楽しくて、とっても素敵なこの思い出を、私は多分ずっと、忘れない。

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