第1話

 カリカリッ。とシャープペンシルで紙に問題を書いている音が聞こえる。教え子の―真壁愛莉まかべあいりが僕の作った模擬試験を解いている。

 こうして見る分には―かわいい教え子なのだけれど…。

 耳を出した黒髪のボブヘアに、垂れ目が特徴的。例えるなら―5月のひだまりの暖かさを感じさせる。

「センセイ…。そんなに見られたら―穴が開いちゃうよ」

「ごめん…」

 僕は目をそらした。教え子の調子を見ていたはずなのに、いつの間にか彼女自身を見てしまっていた。僕は視線をそらす。

「なんでそらっしゃうの?別にセンセイにだったら―いいかなぁ」

 よくはないだろう。

「他人のことをジロジロ見てたら、マナー違反でしょ?倫理的にも―あんまりね…」

「センセイに倫理観なんか期待してないのに」

「僕は倫理観を大事にしてるつもりだけど?」

 こういうセリフって、自分で言ったら―真逆の意味にならないか?本当に大事にしている人はそんなセリフを言わないし…。

 けれど―事実を言ったつもりだ。

「大人の倫理をバカにしないこと」

 先生としてそう言った。大人としてそう言った。

「え~。女子校生の部屋にふたりっきりのくせに―倫理とかおかしくない?」

「言い方…。僕はアルバイトに来ているだけだよ」

「ロマンスの香りがしませんか?」

「芳香剤の香りしかしないね」

 バラとの香りが部屋を満たしている。女の子らしいなと思う。が、変態みたいなので―みなまでは言わない。

「え~。気が付いてくれたんですね。嬉しい」

 まさかの展開。

「新しいのにしたんですよ。フレグランス。―あそこにあるでしょう?占い師みたいなの」

 そこには、香料に棒がささっているタイプの芳香剤があった。後で調べたらディフューザーというモノらしい。

「センセイが来るから―ちょっといいの買ったんだぁ」

「わざわざ?そんなに気にしなくていいのに」

 と言うとしたけれど、

「嬉しいなぁ~。嬉しいなぁ~」

 と彼女が歌い出したので、やめておいた。

 僕は話題を無理に変えた。

「で、テストは終わった?」

「もう終わってますよ。これです」

 彼女は僕に解答用紙を提出した。僕はそれを受け取って―少し感動した。

「すごい…。ちゃんと全問解答してる」

 大問が3題あり、それぞれ(1)~(3)まである。空欄がない。

「エッヘン」

 彼女は胸を反らす。

「難しい問題もあったでしょ?」

「ベクトルの問題が―少し手間取っちゃいました」

「それでも―だよ」

 彼女は今までそんなに勉強ができるタイプでもなかった。けれども、僕が勉強(特に理系教科)を担当してからの成績の伸びはすさまじい。半年でクラス最下位から―最高順位が15位にまで上昇した。

「ホント…褒めてあげたい」

「そうです。もっと褒めてください」

「ここまで僕の指導力が―高かったとは」

 ナルシストみたいに言った。

 けれど、ほんの冗談。質が悪いのは自覚していたけれど―ちょっとしたボケのつもりだった。

「…ふ~ん。センセイは…わたしのこと嫌いなんだ…。ごめんね…。面倒かけさせて…」

 今まであった目の輝きがなくなって、ブラックホールみたいにくらい目で僕を見つめる。

「そんなことないよ。真壁さんも頑張ってるよ!」

 凍えきった部屋の空気が―瞬時に変った。

「そうですよね。わたしは―偉い」

「そうそう―偉い偉い」

 頭を撫でようと思ったけれど―先生と教え子の立場から止めた。あと―シンプルに発想が気持ち悪い。反省。

 僕は解答用紙の採点をする。

「ねぇ…センセイ?」

「なに?今の所―大問1は全問正解」

 僕は大問2の採点に移る。ここが難しいベクトルの問題だ。どのくらい正解するのやら。

「…。真壁さん?そんなに見られると―今度は僕に穴が開いちゃうから…」

「センセイは―穴が開いててもステキです」

「穴が開いた人間はステキじゃないと思うなぁ」

「蜂の巣人間とか―かっこいいと思います」

「思ったより穴が多いな!あと、多分それ―生きてない」

「センセイは―死んでもステキです」

「勝手に殺さないでよ…」

 くだらない話をしていると―大問2は(3)を間違えていたことが判明した。理由は計算ミス。コサインの値を間違えていた。

「大問2の(3)間違えてたよ…。それより―なにか言いたいことがあるんでしょ?」

「分かっちゃいますか…?」

「一応はね。半年の付き合いがあるわけだし」

 今まで、早かった会話のテンポが―遅くなる。歯切れよく、詰まりなく進んでいたが―ここでつまずく。

 大問3の採点をしながら―彼女の聞いた。

「センセイ…。2週間後の期末試験ありますよね…」

「それに向けて―今日のテストを作ったわけだし」

 ベクトルの問題を解かせたわけだし。

「もし…なんですけど…。もしもテストの順位でクラス1位を取ったら…」

 彼女の勢いが―止まる。

「取ったら?」

「なんか…。そうご褒美ください」

「ご褒美?」

「そう…えっと、そうランフェのケーキとか。おいしいですよね」

 ランフェとは洋菓子店で、ここのケーキを彼女の母からご馳走になったことがある。確かにアレは美味しい。

 そのくらい―なら…。いいのかな?

「あぁ~。ケーキ食べたいなぁ…。ねぇ…センセイ?いいでしょ?わたし―頑張るから…ね?」

 断ってもよかった。あそこのケーキは結構高いし。けれど―彼女が不機嫌になると面倒だ。さっきも―その片鱗が見えたし…。

「いいよ。ご褒美―約束しよう」

「それからぁ。実はもう一つあって…。課外授業お願いしてもいいですか?実は…他の教科も見て欲しくて…」

 つまり―家庭教師の外で仕事をしろ…と。

「それはちょっと…」

「ねぇ…。お願い。今回だけだから」

「ご褒美に課外授業って―ちょっと滅茶苦茶じゃない?」

「ホント、一生のお願い」

「そううのは―普通1つじゃないかな…」

 僕は彼女が課外授業と不機嫌になる方の2つを天秤にかけて―前者の方がマシだと思った。

「けどいいよ。今回だけならね」

「やったぁ」

 両手を胸の前で組んで―彼女は喜ぶ。

 大問3は(2)から間違えていて―それを指摘したら、とても不機嫌になった。

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