星四つ

午前二時

披星

 かつてキリストはユダに、「お前のすことを速やかに為せ」と言ったそうだ。ならば、ぼくは如何どうだろうか。


 茹だるような酷暑の中、ぼくは独り、草木の生い茂る山の中にいた。薄汚れた軍手を両手に嵌めて、シャベルを持って。何をしているかなんて聡明な読者様なら直ぐにわかるだろう。穴を掘っているのだ。深い、深い、穴を。掘り始めてからもう一時間、いや、二時間は経っただろうか。軍手の中は蒸れ、頬や首筋にも汗が伝う。それを軍手でごし、と乱暴に拭うと、目の粗い、安っぽい生地の軍手は、ぼくの頬をいたずらに引っ掻いた。

「……ふぅ」

 流石に疲れて、ぼくはシャベルを地面に突き刺しその上に体重を掛けて寄り掛かった。手のひらはじぃんと痺れているし、脚は重怠く取り外してしまいたいほどだ。こんなに疲れているというのにまだ、目標ノルマの半分しか掘れていない、なんて。

 そういえばシャベルは、関東ではスコップと言うらしい。定義としては、足をかけるところが有るものをシャベル、無いものをスコップとしているらしいが、まァどちらでも良いだろう。最終的に相手に伝わればそれで良いのだ。

 兎も角、今ぼくが使っているものは足がかけられるやつ。大きくて重い。そのぶん、硬い土を掘り起こすのには適しているけど。

 土。ぼくを囲む土の匂いは、穴が深くなるごとに強くなっている。まだ僕の胸辺りまでしか深さはないから、これが頭までになったらきっと、もっと強くなるのだろう。まだ木の匂いや、葉っぱの匂いなんかも混ざっているから、これが無くなったとき、ぼくは完全に土に囲まれることになる。

 土は、死と近い、とぼくは思う。人は死んだら土の下に埋められる。火葬だろうが土葬だろうが、最後はみな同じく土に還るのだ。

「そろそろ、また、やるかァ」

 ぼくは、誰も聞いてないのに、いや、だからこそ敢えて言葉を口にした。こうやって自分に言い聞かせないと、動く力も湧いてこない。体重を掛けたせいで先の埋まったシャベルを一旦地面から抜いて、ぼくはまた、ざく、ざく、と地面を掘り返すことを始めた。

 先を考えてはいけない。ただ目の前にある、残りの土のことだけを考えて、手を動かし続けなければ。でなければ、心が折れてしまうから。

 いつ終わるとも知らない、誰も見ていない孤独な作業を、鳥の鳴き声と、時折栗鼠リスか何かが走り抜けるがさがさという音以外何も聞こえない場所で、しかも段々と視界を黒っぽい茶色が覆ってゆくような環境で続けるのは至難の業だ。

 いくら自分がやらなければならないことだとしても、つらいものはつらい。それに加えて、木々の隙間から憎らしくもぼくを灼く太陽の光が、ぼくの残り少ない体力を奪ってゆく。汗が頬を伝ってぼたぼたと地面に染み込む。もはや拭うのも面倒で、流れる汗をそのままにした。

 音楽が聴きたい、と、不意にその言葉が脳裏を過ぎった。どんなときも、音楽だけはいつもぼくの傍にいてくれたから。音楽で脳を満たして、脳を浸して、それ音楽しかない世界にトリップするのだ。

「逃げてるだけでしょ」

 昔、ぼくにそう言ってきた女の子がいた。赤いリボンの女の子。もういないけど。逃げている、そうかもしれない。でも、それがなんだと言うのだ。逃げて何が悪い? 誰にも迷惑なんて掛けてやいない。ただ音楽ゆめに浸っているだけだ。

 ざく。ざく。思考で脳を埋め尽くして、肉体の疲労をできるだけ忘れながら、動きだけは止めない。まるで自動人形オートマタのように、ぼくは同じ動きを何百回と繰り返した。


 ぼくの真上でぼくを灼き続けた太陽は、ぼくの気付かないうちに明日へ向かったらしい、と気付いたときには、薄闇がぼくの周りを囲んでいた。ぼくの体はすっかり穴の中で、いくら見回しても土の壁以外には何も見えなくなっている。目標達成だ。

 ぼくは、軍手を外してポケットに突っ込むと、ぼくの作った土の壁にそっと手を触れた。ひんやりとして気持ちがいい。じんじんと熱い手のひらを土で冷やすと、滲んだ汗で土がべたりとくっついてやや粘性を持った。

「座ろうかな」

 そう呟いてから、ぼくは腰を下ろした。ずっと無言で、しかも水の一滴も口にしていなかったぼくの声は、掠れて小さく、無様だった。ここに誰もいなくてよかった。ぼくは胸を撫で下ろした。

 見上げると、生い茂る葉の隙間から星の光が零れている。綺麗だ、という感想が、すとんと胸の中に落ちてきた。今まで、星を見て綺麗だ、なんて思ったことは無かったのに。

「お前の生まれたとき、いつもより星が輝いていたんだ。病院の窓からもわかるくらいに」

 それがぼくの名前の由来だという。今の今まで忘れていたことを思い出すなんて。

 投げ出した脚が熱を持って怠さが暴れている。もう二度と立ち上がれないのではないかというほど、ぼくはくたくたに疲れ切っていた。このまま眠れたらさぞかし気持ちの良いことだろう。

 しかし、ぼくには最後にやらなければならないことがあった。軍手を嵌め直したぼくは、シャベルを穴の外へ放り投げてから、穴の縁に手を掛けると、棒のような両脚に鞭打ち、跳んで外へ出る。それから、土の山の近くに転がっていた、ブルーシートでくるんであるソレの端を持ってずるずると引き摺り、穴の中へと落とした。少し斜めになっている土の壁を転がったソレは、勢いのままに反対側の壁にぶつかって、軽く跳ね返り、止まった。

「さて、やるか」

 ぼくは、再びシャベルを握って、ぼくが一日を掛けて掘り返した土を、穴の中へ戻し始めた。穴を掘るよりこちらの作業のほうが随分簡単だ。闇に染まったブルーシートはすぐに見えなくなって、それでもぼくは手を動かし続けて、やがて穴は平らになった。

 ふかふかの土を足で均等に慣らして、そしてぼくは、徹夜明けの微かな頭痛と眼の疲れとを感じながら、薄くなっていく闇を見送った。

「ぼくは、為すべきことを為した」

 時間は掛かったけれども。さあ、小鳥が鳴き始めた。ユダはこれをうるさいと言ったけど、ぼくはそうは思わない。銀貨三十枚でキリストを売ったわけではないし、商人でもない。ましてやこれは復讐などではないのだから。

「逃げてない」

 帰ろう。音楽が聴きたい。見えない麻薬に脳を預けてしまいたい。視界の端に赤がちらつく。うざったくて、ぼくは目を瞑った。赤はいちばん嫌いな色。

 最後にもう一度だけ、穴の真ん中を踏み付けてから、ぼくは穴に背を向けた。もう二度とここへは来ないし、ぼくがシャベルを握ることもないだろう。

 ああ、星が、微かに輝いている。もうじき太陽に消されてしまう星を、ぼくは見えなくなるまで見つめ続けた。

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