三日目Ⅰ

 早朝。まだ朝練をする生徒の声もしない学校の廊下を俺は歩いていた。

 泰山冬薫という男は一度注意されたことを繰り返さない人間だ。〝例外はある〟と早々に注釈を入れておこう。

 と、まあそんなわけで校門で張り込みをするのは昨日先生に止められたので、今は校舎をうろうろしている。情報に寄れば、東大寺さんは毎朝誰よりも早くに登校して始業のチャイムが鳴るまで部室に居る、らしい。

 もちろん教室に行って会うのも可能だろう。しかし、それでは二人の時間を作りにくい。こうして朝の当番の先生や用務員のおっちゃんしかいないような時間帯に、校舎の一室で逢瀬を楽しむなんて青春以外なんと言えよう。たとえ大人同士の不倫であったとしても、朝の澄んだ空気が如何わしさをかき消してくれる。それが高校生同士なのだから、純情であり清純でありクリーンな場面しか想像できない。そう、二人っきりになれるからって期待はしていない。俺の脳内がピンク色に染まっていたとしても、東大寺さんは穢れない白なのだから。まだ二言三言しか会話していないけど、俺のイメージではそうなっている。

 いかんいかん、イメージなどと表現してしまった。昨日おとといと全力で会おうとしたのに会えなくて、少し弱気になってしまっていたらしい。

 東大寺さんは俺の彼女! 美人で可愛い! 少しピンクな一面もあって美味しい状況になるかもしれない!

 よし、探そう。

 既に校舎の外にある部室棟は調べ終えた。全ての扉をノックして回り、本当に誰もいないか確認するためにノブを数回回すこともした。

 結果、どこも無人。施錠して出てこないだけだったのだとしたら、その人は居留守の達人だろう。

 なので、今は校舎内にある文化系の部室を回っているというわけだ。

 吹奏楽部、美術部、演劇部、と部室を訪ねたが、愛しい彼女の姿はなく。

 しかしまだ、天文部、写真部、文芸部、などなどあるので気落ちする必要はない。ここの部に入っていたらこんな活動しているのかなあ、と想像しながら扉をノックするのは実に楽しくもある。

 そう、楽しくしていたのだ。

 だが世界は一転。

 鬼がいた。

 いや、悪魔か。


「おや、泰山じゃないか。こんな朝早くから私に会いに来たのか?」

「――に、に、に、に、丹生さん⁉」


 白衣のマッドサイエンティスト。――丹生灯(にうあかり)。

 サイエンティストならマッドでも白衣はセットで当たり前だと思うのだが、彼女は校内でそう呼ばれている。

 何を隠そう、俺が入学して六番目に告白した三年生だ。もちろん顔が良い。


「いやあ、嬉しいな。どうしてまあこんなにも虜にしてしまったのだろうか。泰山に告白されてから私も女性としての自意識を持ち始めてね。ほらどうだ? あの日の私と違うところがあるだろう? 男らしくどこか当てて見せてはくれないか」


 俺の余命は十秒もないらしい。間違えれば実際の命だけでなく、人間としての尊厳を奪われる可能性もある。


「あうっ、あっ、えっと、あの」


 脳の一部である偏桃体が悲鳴を上げている。嫌な汗が浮かび上がり、身を震わせる寒気が襲いかかってきた。生物として刻まれた恐怖による正常な反応だ。


「か、髪――、に、匂い! 匂いがどこはかとなく違うような!」


 極限状態に置かれた俺は反射的に答えた。確証のない言葉に身を委ねることしかできない状況に、胃の中の物が逆流してきそうだ。

 目の前の美しくもあり恐ろしい彼女は大きく頷いた。


「ああ、続けてこんなに嬉しいことが起こるだなんて。その通り。昨夜、母親が大事に使っているシャンプーを半プッシュほど拝借したんだ。母親にはバレなかったが、こうして私を好いてくれている男子に気づいてもらえるだなんて、なんという果報者なのだろう」


 女子の中でも髪が長い方だというのに、半プッシュでは効果がないだろうに。俺の犬並みの嗅覚を以てしても、こうして極限状態に追い詰められなければ気づかなかっただろう。お母様が気づかなかったのも無理はない。

 しかし、しかしだ。

 母親に隠れてこそこそとお高いケア商品を使うなんて女の子らしいではないか。彼女も人間なのだ。俺の姉もそんなことをしていた覚えがある。

 そういった一面もあって然るべきである。同じ種族だと思えば恐怖も和らいで、

 ――こない。

 先ほどから嬉しいと口にはしてくれているけど、そこに感情はほとんど含まれていない。ロボットとまで行かないとしても、やはり同じ人間とは思えない。何か――、何か他に人間らしいところを見出せれば向き合うこともできるはず!


「あの! 丹生さんは放課後も化学部として知識の幅を広げられていると、ぞ、存じ上げておりますがぁ! ご自宅では如何に過ごされているのでしょうかぁ!」


 目を合わせず彼女の頭の上を見ながら、女性と接することなく生きてきた陸軍兵士のように問いかけた。それに対し丹生さんは感情のない笑みを浮かべ、白衣のポケットに突っ込んでいた手をゆっくりと持ち上げた。


「私のプライベートが気になる、か。確かにあの体育館裏ではそこまで込み入った話はしなかったな」

「ひぃ⁉」


 彼女から発せられた体育館裏という単語に過呼吸を起こしそうになった。比叡先輩と話した時もそうであったが、あの聖地とこの丹生灯という女子が結びつくとトラウマを刺激されて正常な精神ではいられない感覚に陥る。

 そんな俺を見て楽しむかのように彼女は髪をかき上げる。ほのかに、本当にほのかに椿の香りがした。


「最近は歴史シミュレーションゲームに興じているよ。島津家がお気に入りだ」

「あっ、ぽいですね」

「ほう」

「ひぇ⁉ な、なんでもないです!」


 あまりにお似合いな大名家なのでついつい本音が出てしまった。意外と仲間を大事にしそうだし、とポジティブなところを挙げておく。

 それよりも本当に戦国ブームが来ているらしい。しかし、牛久さんは毛利家だったはず。地理的に中央進出を果たそうとする丹生さんによって蹂躙されてしまう。いや、意外と牛久さんものらりくらりとかわしそうな雰囲気がある。女の戦いはおそろしいのでそんな日がこないことを願おう。


「泰山こそ普段は何をしているんだ? 件のシャンプーを使った後に小学生の弟から『ねーちゃん何かいつもと違うね』と言われ、台所にいた母親からの追撃がこないかビクビクしていた時間に泰山がどうしていたのか非常に興味がある」


 おそらくまだ無邪気な年頃である弟のモノマネが挟まれた。体育館裏であんなことをされた過去が無ければ、そのエピソードも相まった可愛さに付き合ってくださいと告白していたかもしれない。いや、過去に関係なく東大寺さんというストッパーがなければしていただろう。会えなくても俺の過ちを防いでくれるなんて素晴らしい彼女だ。


「昨日は怪我して帰ったので、ご飯とか済ませてすぐに寝ました。いつもならゲームをやったりして遊ぶんですけど」

「怪我だと? どこだ? 見せてみろ」

「ひょ⁉」


 求めていた人間らしさを知ることができた拍子に迂闊なことを漏らしてしまった。このまま手術という名の人体実験が行われてしまう。


「あー、昨日の体育で足を捻挫したんですけど、もう赤くも腫れもないんですよ。シンパイイリマセンヨ」


 平静を装っていたが最後にカタコト外国人みたいになってしまった。しかし、丹生さんはそこにツッコミを入れることはなく残念そうに言う。


「そうか。切り傷等であれば血をもらいたかったのだがな」

「こわっ――、あっ、いえ! お力になれず申し訳ないです!」


 一体何に使うつもりなんだ。ルミノール反応できゃっきゃと遊ぶぐらいなら可愛いものだが、この先輩ならどこぞで入手したヘビの毒を使って涼しい顔のまま実験していそうである。そんなものを手に入れるネットワークがあるなら豚の血を仕入れてください。まあ、実際何に使うかはわからないし知りたくもないけど。


「ふふっ、廊下で立ち話も悪くはないがもっとふさわしい場所がある。ついて来い」


 白衣を翻して背を向けると、すぐそこの理科準備室の扉に手が掛けられた。今、俺は怪物のテリトリーに引きずり込まれようとしている。


「俺! ちょっと用事があって……。三年生の東大寺さんの所に行く用事が……」

「東大寺?」

「ひゎ⁉」


 彼女の中にある何かに触れてしまったらしく、ワントーン低い声を出されて俺の心臓は止まった……、と思ってしまうほど体が飛び跳ねた。

 開かれそうになっていた魔界の扉から手を離し、丹生さんが再び俺と向き合う。


「東大寺と会ったことがあるのか?」

「あります、よ。俺の、か、カノジョッス」


 今までの会話から俺が丹生さんに好意を持っていると思われている様子なので、彼女がいる宣言をするのが非常に躊躇われた。しかしながら曲げることは許されない真実なので、漆黒の海に身を投げるつもりで言い切ってやった。


「ほう、快挙だな。もう何度も遊んでいるのかね?」


 だが、丹生さんの反応はあっさりとしたものである。俺のことなんかより東大寺さんの方が興味を惹く対象のようだ。


「いえ、二日前に告白したらOKをもらったんですけど、それから会えていなくて」

「その告白した彼女が東大寺だという確証はあるのか?」

「か、確証……。出会い頭の告白でしたので……」

「聞き慣れない言葉だ」


 そう迫られると、あの女子が東大寺蓮華であると結びつけるものは太くない気がしてきた。そもそも、名前を教えてくれたのは新発田なのだ。顔が良い女子リストを作るための世話になっているが、ハッキリと信用して良いものなのかと今更ながら考えさせられた。


「お尻ぐらいまで長さがあるロングストレートの髪で、八十デニールのタイツを履いた美人な女子とお付き合いすることになったんですけど……。あと声も良いです」

「ふむ、それは東大寺だな。私の認識と一致する」

「本当ですか! 良かったあ」


 同級生である丹生さんのお墨付きを頂けた。疑ってすまなかったな新発田。


「しかし、会えていないと言ったな。何故会わないんだ?」

「もちろん会おうとしてるんですけど、すれ違いとか間が悪かったりで。十日以内、もう二日経ったんですけど、今月の二十八日までにもう一度会えなかったら別れるって言われているんですよ。ゴールデンウィークにも入るので早めに会って遊ぶ約束とかしたいんですよね」


 東大寺さんの話になり、俺は先ほどまでとは打って変わって流暢に喋り出した。丹生さんの興味が俺に向いていないというのも大きい。


「彼氏という存在でもそうなのだな……。しかしそうなると東大寺の目的は一体なんだ……」

「あのう」


 宙を見つめながらぶつぶつと呟いていらっしゃる。俺の彼女はこのマッドサイエンティストの頭を悩ませるほどの何かを持っているのだろうか。ミステリアスな人だけれども。


「そうだ、連絡先は知っているのか?」

「残念ながら……」

「なるほどな」


 納得されてしまった。予想通りの答えだったということだろう。


「あの、東大寺さんとはお友達なんですか?」


 もしや研究対象にでもされているんじゃないかと冷や冷やする。彼氏として守らなければならない――、と固唾を飲んだのだけれど、


「私の一方通行だが、そういう表現もできるかもしれないな。一時期は実験そっちのけで想い続けたものだ」


 まさかそちら方面の方ですか⁉


 ――俺の脳内。丹生灯×東大寺蓮華。


「どうしたの、丹生。こんな朝早くから理科準備室に呼び出して。私、部室でゆっくりしたいのだけど」

「……日頃、私が東大寺のことを想っていることは気づいているか?」

「それは、まあ……」

「ふふっ、それはなんとも恥ずかしいな。しかし、気づいて欲しいという私の乙女心は満たされた。ほら、座ってくれ。アルコールランプで湯を沸かした。インスタントで悪いが、コーヒーを振舞うよ。生憎ミルクは切らしていてね。砂糖はいくつ必要だ?」

「……ブラックで結構よ」

「ああ、東大寺らしいね。しかし、美味しい砂糖があるんだ。今日のところは私色のコーヒーを賞味してはくれないか?」

「丹生がそう言うなら……」

「素直で可愛いよ。ほら、このガラス棒を使ってしっかり混ぜてくれ。ああ、さすが才女だね。手際が良い」

「それで、私をここに呼んだ目的は?」

「目的がないと呼んではいけないのかい。まあ、ただこうして話がしたかっただけだよ」

「それなら教室でだって……」

「残念ながら、これを想像している泰山は私たち二人が同じクラスなのかどうかわからない。それに、普段は離れた所で生活している女子同士が人気のない場所で密会している方が興奮するので、別々のクラスであるという設定で話を進めよう。と、結論付けたらしい」

「冬薫君らしいわね。それでこそ私の彼氏なんだけど」

「その彼氏……、東大寺が男と付き合っているという話なんだが……」

「ええ、それが?」

「何故、私じゃないんだ」

「えっ……、何を言っているの……?」

「先ほど言ったじゃないか。私が東大寺を、いや蓮華を好きだって知っていたんだろう。それなのにあんな非の打ち所のないイケメンである泰山の彼女になるだなんて! 泰山でなければ暗殺と悟られぬよう処理する方法がいくらでもあったというのに……!」

「丹生……。でも、私たち女の子同士だし……。あと、冬薫君は誠実でイケメンで万能超人であるのは事実よ……」

「灯と呼んでくれないか」

「……灯」

「聞いてくれ、蓮華。私は世界の正しさを日々追い求めている。体育館裏で泰山に測定器を持たせてからスタンガンを当てて電流における人間の抵抗値を実測したのもそのためだ」

「でも、冬薫君はそれがトラウマに……」

「彼が優れた人物だとわかっていたから実行したまでだ。そんな特別な男と付き合って……、祝福したい反面、悔しくて仕方がないんだ」

「聞いて、灯! ――うっ!」

「薬が効いてきたようだな。無理に動いて怪我をされたら私は悲しみでおかしくなってしまうだろう。おとなしくしていてくれ」

「に、う……!」

「灯と呼んでくれと言っただろ。わかってくれ、蓮華。泰山から奪うためにはこうするしかなかった。いや、完全に奪うのは無理だろう。しかし、一時で良い。蓮華が一時でも私のものになるのなら……」

「や、やめて、正気になって、灯……!」

「狂わせたのは蓮華だろ? なあ、その長い髪を触らせてはくれないだろうか」

「んっ……!」

「やはり絹のような手触りだ。あとで使っているシャンプーを教えてくれ。私も蓮華と同じ髪を手に入れたい」

「お、教えるから……、撫でないで……!」

「ああ、薬の効果で敏感になっているんだね。安心してくれ。もちろん、優しくするから……」

「あ、かり……」


 ――自主規制。


「泰山、何やら愉快な妄想に耽っていないか?」

「健全な男子高校生として当然です! 間に挟まりたいなんて言う野郎は俺がぶっ飛ばしてやります!」

「それは良いことだ。実験体は正常であるからこそ価値がある」

「えっ?」

「まあそれはどうでも良い」


 告白した時に俺も同意していたようなものだが、反故にしたい事実を口にされた気がする。もう自分の体から焦げた臭いがするのは嫌だ。


「いい機会なので調査を再開するとしよう。協力してくれ」

「い、い、い、嫌だと言ったら、どうなりますか?」


 その言葉を安請け合いして非道な目にあった過去がある。同じ轍は踏まないよう、かつ丹生さんを刺激しないよう細心の注意を払う。


「ふむ、言葉が曖昧だったな。泰山が東大寺に会えるように協力してやろう。そして、会えたら彼女を私の所に連れてきてくれ」

「協力してもらえるのはありがたいですけど、そんなに大層なことでも……」


 大勢の生徒たちと同様に学校へ来ているんだ。呼び出すなりこちらから出向けば事済む話である。それを丹生さんはツチノコでも捕獲するように言うので、俺は違和感を覚えた。


「まだ事の本質を見抜けていないのか。泰山には是非とも化学部に入部してもらいたいんだ。私を失望させないでくれ」

「…………」


 YESともNOとも言えない。正解は沈黙だ。


「我が部には後継者がいなくてね。定期テストで理系科目すべてを九十点以上という入部条件を見直すべきか」

「そんな狭き門なんですか⁉」

「部に在籍し続けるにも同様の条件だ。一度でも、一点でも下回れば強制退部となっている」

「どこぞの高IQ団体よりきつそうですね」

「なあに、年会費は取らない。むしろ全校生徒が収めた学費を部費という形で横領することだってできる」

「…………」


 うん、聞かなかったことにしよう。告発したところで俺にはデメリットしかない。


「詳しいやり方については追い追いするとしてだ」


 犯罪者の片棒を担がされようとしている⁉


「東大寺に話を戻そう。私は彼女を知っているが――、知らないんだ」

「……どういうことですか?」


 ドラマとかでよくある台詞の、表面的なところしか知らない、という意味だろうか。

 などと予想しながら訊ねたのだが、簡単に、それでいて明後日の方向から裏切られる。


「言葉にするのは非常に難しい。それでもあえて端的に述べるのならば、〝彼女は確かに存在しているが、誰もその存在を確定させることができていない〟」

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