誰が女神を毀したか?

島田(武)

前編

 アイドルとは偶像を意味する言葉であるという。その話を所属事務所の社長から聞いた時、俺は偶像への偏見を少しばかり捨てようと決めた。それまで俺にとっての偶像と言えば、人通り少ない通学路の途中にある古びた鳥居の両脇に居座る狛犬だとか、教科書にある異国の教会で微笑む聖母像だとか、確かにこの世に存在はしているものの決して俺の人生とは交わらない無機質な存在だった。ところが実際は俺をあの居心地の悪い場所から救い出す救世主を示す言葉と同義だった訳である。


 非合理で自己愛的な怠惰や偏見に浸り、嫉妬をまき散らしては同調、援護しないと異質な目を向ける同級生や、現実から目を背け、幸福なのだと豪語し問題など何も無いと盲信する家族も今は遠い。革新と個性で溢れる街並みは眠っていたアイデアを掻き立て、夢と希望と少しばかりの野心を胸に抱きながらも遊び心や余裕も忘れない、無駄なく合理的に時間を過ごす人々は皆輝いている。――などと。未熟で世間知らずで、自分が同級生や家族となんら変わらない存在だと認めらなかったあの頃は確かに、そう本気で信じていた。そしてどこかでは不可思議な力を持つ何かが救ってくれたのだと信じ、縋りたかったのだと思う。


「……で、社長の別荘を使うからね。くれぐれもトラブルは起こさないように。ちょっと、聞いてる? ハヤト?」


 急に現実に引き戻され、俺は「あ、はい」と何度注意されても直らぬ曖昧な返事を返した。


 顔を曇らせるのは銀縁眼鏡に厳しい眼差し、真っ赤なルージュが良く似合う三上マネージャー。乙女心は残るものの「最近、無理がきかなくなってきたわ」が口癖となりつつある三十代だ。一方、絵本の王子のような艶やかな金髪と不釣り合いな硬い声音で「ハヤトは寝不足なだけです」と茶化した男は俺の相方、静間陽。誰もが羨む整った顔には嘲笑も微笑もなく、両耳に並ぶピアスと百八十近い身長と相まって十九という年齢にそぐわぬ威圧感を感じさせている。俺ハヤトこと早戸颯太郎は「すみません」と、勝手に想像された言い訳を否定しないままに、何に対してかわからぬ謝罪で場を繋いだ。


 東京下町。左右対となる偶像が有名なA駅にほど近いビルの一室では、今日も俺を含めた温度差の激しい三人が顔を寄せあう。登記上、ここは前職で培った人脈と能力を駆使する豪腕社長で有名な、かの営業事務所プロダクションEWの本店所在地だ。俺たちのようなアイドルに始まり、俳優にお笑い芸人、声優、動画配信サイトを中心に活動するタレントやヴァーチャル活動配信者などなど。所属タレントの芸は多岐にわたり、個々人の活動分野も幅広い。社会貢献を根本理念に、従来の概念に囚われない自由な発想でグローバル展開を目指す芸能事務所である――と言えば聞こえが多少良くなるかもしれないが。要は大手グループ会長夫人が老後の楽しみにと実家と嫁ぎ先のコネを利用し、多少の職権乱用をも厭わずに、趣味同然に片手間運営している弱小芸能事務所であった。


「今回のルナとのコラボは貴方達が更に一歩進むチャンス、いわば正念場の一つ!」


 三上さんの荒い鼻息に呼応するように旧型の除湿機がうなりをあげる。どうか、この重たい空気とまとわりつくような梅雨の湿気を有能な彼が取り払ってくれますように。そう願いながら「はい」と俺だけが三上さんの激励に応えた。


「来月五日には貴方達【S.H.OOTER】のデビューシングルの先行配信が始まるわ。私は行けないけれど、しっかり宣伝、ヴァーチャルアイドルとの自覚を持って礼節をわきまえて過ごすのよ」


 三上さんの眼差しが一層鋭くなって、俺、そして隣の静間へと移っていく。全く心当たりもないのに生徒指導の教師に声をかけられた時の如く背筋を正す俺に対して、相方は軽く頷いたのみ。静間のアイドルへの熱意は乏しく、配信内容への興味も薄く。決まってしまった配信収録だけはきっちりこなすが、同業者への競争心や愛想は無いに等しい。彫像のような整った顔立ちに大きな変化が見られるのは配信中のみ。出会って半年、静間について俺が知る事は多くない。


「来週の水曜から二泊三日っすよね? コラボ生配信の中日だけ参加じゃ駄目なんですか?」

「こちらが合わす側なの。彼女たちの先週の新曲のDL数と再生回数、見込み売り上げも見たでしょう?」

「いやでも、わざわざ山の中まで行ってトランプするとか」


 それには俺も同意だ。ヴァーチャルアイドル同士とは言え、同じ現場でしか生配信を行えない企画や臨場感演出の為に同席して収録する事もあるだろう。だがそれならば日程調整をすれば良いだけだ。それにキャラを演ずる者同士がリアルでカードゲームを楽しむ簡易動画に――つまり中の人の容姿を一部とは言え映す行為に、広告効果は見込めるのだろうか。率直に言えば、わざわざ山奥で女の子三人とひとつ屋根の下、恋愛ドラマよろしく共に過ごさなくても――とインドア派の俺は思ってしまう。


「社長から貴方達への労いの意味もあるのよ。それに相手方のスケジュールもあってね。他にも諸々大人の事情も絡んで相手方とも話した結果、この形が一番お互い良いだろうという事になりました」


 どちらからともなく俺と静間は顔を見合わせ、すぐに各々なりの言葉で先を促す。阿吽の呼吸と言うべきか。歳が近いという点以外は互いに生まれも育ちも、人となりでさえよく知らない俺たちなのに、妙なところで息が合う。スケジュールや連絡先、自由時間の過ごし方などの必要事項を伝えられ、まるで遠足のようですねとの言葉を俺が何度も必死に飲み込んだ後に、いつもなら早々に立ち去る静間から提案がなされた。


「現地集合にしても良いですか? せめて最寄り駅で待ち合わせてタクシーとか」

「良いわよ? ただ、駅からはルナのマネージャー、森さんが車を手配してくれるわ。出発時間は早戸と合わせる事になるし、交通費は出すから心配しなくても」

「ちょっと用事が」


 静間の言葉に苦笑と哀愁が混じっていたのは気の所為だろうか。除湿機の唸り声に呼び寄せられたように、窓の外のくすんだ空に小さな稲光が走り、遠雷が続く。やがて零れ落ちた大粒の雫は双対の偶像が見守る街を濡らし始めた。




「は?」

 先週の荒天が信じられぬほど晴れ渡った空の下、人々のざわめきとアナウンスに混じって俺の間抜けな声が響く。まるで迷路のようなS駅のホームで突然肩を叩いてきたのは現地集合を申し出ていた静間だった。


「んな驚くなよ」

「だって、用事」

「なくなった。連絡遅れて悪かったな」


 差し出されたペットボトル入りの茶は詫び状代わりか。俺と同じように汗を滲ませている。別行動に特段なんの思い入れもなかった俺はこれ幸いと有難くペットボトルを受け取り、静間と電車へと乗り込んだ。シーズン合間の週の半ばとあって車内は空き席が目立っている。一方、季節的な取り決めの関係か人が少ない為なのか、心ばかりに付けられたエアコンの力は弱く、まとわりつくような暑さは拭いきれてない。


「良い休暇になりそうだ」

 仕事だろうが、との野暮な台詞は渡された茶と一緒に飲み込んだ。心なしか静間の機嫌は良く、シート席の座り心地も悪くない。俺は静間へ一言告げシートに凭れかかると、出発のアナウンスをバックミュージックに乏しい知識と想像力を駆使し始めた。行先はN県K駅。そこから更に乗り継いで、向かうは何処かで聞いた事のある機械製品名と同じ高原だ。思えばN県には幼い頃に一度だけ行った事がある。山と湖があって、時折霧が深くなる高原は摩訶不思議で、とても綺麗な場所だった――そんな小学生男児の感想程度のイメージは、膨らむ前に睡魔の誘惑を前にたち消えてしまった。





 朧気な記憶の波にもまれ、母の顔が真白き霧に歪んだ。地面がゆらゆらと揺れている。母の泣き声がどこかから聞こえていた。奇妙な焦燥感と罪悪感に抗うように、俺は霧の中をもがいている。生温い空気が喉の奥を詰まらせ、背筋に嫌な汗が伝う。笑えないのは何故かとの自問自答に、俺はただ抗いたいが為だけに自嘲する。そのまま、そのまま。霧の中で誰かの手が俺の手を引く。


「おい、着いたぞ」

「うっ……あ、ああ」

「あはは! 大丈夫かい? キミ」


 俺の顔を二人の男女が覗き込んでいた。吐いた言葉と同様に右側の男、静間の表情は淡々としている。対して左隣で少々大袈裟なくらいの満面の笑みを浮かべたのは、先程合流したルナのメンバーの一人、猪俣里奈さんだった。バックミラーは有料道路の白っぽいコンクリートと濃淡が美しい若草を映している。運転席からルナの森浩平マネージャーの苦笑が漏れて、俺はすっかり目が覚めてしまった。


「うなされてたよぉ。も少し寝てたら?」

 猪俣さんは艶やかなボブカットを揺らし、白い歯を見せながら豪快に笑う。至って平均的な身長と可愛らしい顔立ちの彼女だが、場を晴れ渡らせるような明るさと嫌味のない悠々としたオーバーアクションは、二十一という年齢にそぐわぬ安堵感を感じさせていた。


「大丈夫か?」

 意味深長な静間の耳打ちを機に俺はさりげなく右に寄り、身を縮める。反対側の猪俣さんは左右に首を曲げると「最近肩が凝るのよね」と一言漏らし、ペットボトル入りの麦茶を煽った。俺たち四人を乗せた車はK駅を出発し、爽やかな風を切りながら曲がりくねった山道をコマネズミのように登っていく。時折大きく左右に揺れるので、俺は隣の猪俣さんの体が触れまいか気が気でない。薄く開けた窓からの風は、俺の肌に世界の微細な変化を告げていた。重たい空気は既に無く、肌を涼やかに撫でていく風に混じるのは懐かしい木の香り。淡く重なり合う緑に反して、薄青の空から差す光は強い。左右の揺らめきが再び俺の睡魔を呼び寄せ始め、吹き込む風が肌寒さを感じるまでに至った頃、車は林の中に佇む別荘へと到着した。



「うわぁ。すご……外も中も豪華だねぇ」

 別荘のちょうど南側中央に位置する玄関をくぐって開口一番、猪俣さんから感嘆の声が漏れる。次いで俺や静間までもが、その広々とした空間を見回した。


 茶を主軸としたトーンを合わせた洋館風の建物は、内装も落ち着いた色合いに揃えられていた。吹き抜けの玄関ホールの床には決して派手でないアラベスク模様の分厚い絨毯が敷かれ、正面右手には海外文学の挿絵に描かれるような木製の階段が緩い弧を描いている。頭上には洒落たステンドグラスの電灯、中央には階段に合わせた重厚な古机と訪れた人々を出迎える淡い野の花々など、持ち主の趣味が伝わってくるような室内だ。


「あら、ちょうど良かった」

 突如振ってきた声に俺たちは左上を振り仰ぐ。階段を登った先、東側の廊下へと続く場所で、すらりと背の高い女性が立っていた。

「莉茉ー! ただいま! あ、違うかぁ」


 涼やかな印象の彼女は、傍で手を振る猪俣さんの言葉からもルナのメンバー、佐々木莉茉さんだろう。切りそろえられた前髪につり気味の切れ長の瞳、性格を表すかのように真っ直ぐで艶やかなセミロングの黒髪と、彼女の印象もヴァーチャル世界と大差ない。


 俺たちのようなヴァーチャル配信者の場合、キャラクターと現実に演じる人間は別人格であり、当然性格や容姿、生い立ちなどは現実と異なってくる事がほとんどだ。しかし見たところ、少なくともルナのメンバー二人の雰囲気はヴァーチャル世界と同様の印象を受ける。イメージカラーは黄色、天真爛漫、明るく元気な虎耳とボブカットが印象的な【リナ】を演じる猪俣さんに、イメージカラーがモノトーン、クール真面目系パンダ耳少女【リマ】を演じる佐々木さん。苗字がそのまま活動名となったものの、キャラの性格と実際の人物の性格が全く異なる俺たちと違い、彼女達の名前は一ひねりを加えて、性格などは比較的そのまま容姿や性格に反映されているのかもしれない。


「森さん、里奈も。そちらのお二人には初めましてね。ルナの佐々木莉茉よ。きちんとご挨拶したいのだけれど、ちょっとお昼の準備にバタバタしてて。申し訳ないけれども昼食の時にそこでまた」


 一気に告げると佐々木さんは「一時半には下げるから、部屋でのカップ麺が嫌なら時間は守ることね」と付け足して、足早にホールを横切り左奥の部屋へと去っていった。

 振り向き「カップ麺て?」と首を捻る猪俣さんに、森さんは眼鏡の奥の瞳を細め苦笑する。


「ええ。食事を用意してくれている方が来てくれる時間が決まってるんです。昼食は午前十二時、今は十一時半なのであと三十分ってところですね。夕食は午後六時。彼らには前後一時間だけ来て貰う予定です。朝は用意してある物を各自で温めて下さい」

「おおう。夕ご飯とか、随分早いんだねぇ。じゃあ途中でお腹が空いたら……」

「部屋にカップ麺が。単な流し台とIHコンロもありますから。もし持ち込みで調理したいなら明日……」


 善良な提案に猪俣さんが丁重に断りを入れた後、俺達は森さんに連れられて別荘内を案内された。


 別荘は二階建ての住居部と北東に位置するギャラリー室や物置部屋部分、両者を結ぶ廊下から成っている。二階建ての住居部の南側中央には先程俺達が入ってきた吹き抜けの玄関。一階部分は玄関を手前として、左奥から順に食堂、食堂の右角をL字型に囲むように調理場があり、休憩室と食料庫が続いている。また食堂の東側、丁度階段の裏側には玄関側を入口とした手洗いが二つ。今は手前と奥をそれぞれ男女で振り分けて使っているらしい。


「荷物も置けますし、奥へ行く前に二階へ行きましょうか」


 階段を上ると吹き抜けを見下ろす廊下へと出る。左へと曲がると角に手洗いが、更に右折し奥へと通ずる廊下を進むと手前から俺、静馬の部屋と続く。一方、東側のつくりもほぼ同様らしく、手洗い場に対応する位置に森さんの部屋と猪俣さんの部屋が、そのまま奥へと今は居ない小松梨沙さん、佐々木さんの部屋が割り当てられていた。


「部屋には鍵が付いていますから各自必ず施錠して下さいね。ここらでも不審者や窃盗犯は居ますし、何より皆さん穏やかに何事もないように過ごしたいですし。私も気をつけますが」


 森さんは笑顔を崩さず話していたが、言外には強い主張が込められているのだろう。実際、俺達が使用する西側と彼女達が使う東側との間に彼の部屋が置かれている点からも言わんとする事が見て取れた。俺も、そしておそらく静間も問題を起こす気など毛頭無いが、同業者間のトラブルが命取りになりかねないのもまた事実。その辺りマネージャーはどこも同じように神経を張り詰めさせ、小姑のように口酸っぱく注意しているのだろう。俺は遠く離れた三上さんを思い出しながら、絶対に鍵をかけ、不用意に外へ出ない事を胸の内で誓った。


 俺たちはそのまま階下へと戻り、手洗いの右手から伸びる廊下へと進んでいく。玄関ホールの大時計は午前十一時五十分を差している。佐々木さんの様子からもそろそろ食堂へと向かった方が良いのではないか、滞在中にギャラリー室で過ごしたい気持ちになる状態も想像できないし――との提案はルナと俺たちグループとの人気の差を考えると言い出せない。


 一方、静間は普段の無表情のままではあるが、室内を見渡し続けている。特にギャラリー室へと続く廊下辺りからは、静間は時々足を止めていた。俺も廊下に入ってからは特に、ある種の独特の緊張感や高揚感を感じてはいる。しかしその原因は果たして壁紙や照明光、絨毯の色や柄がより一層抑えられ、外国文学に見る不可思議で仄暗い世界を感じたところにあるのか。窓がなくなり、趣のある油絵やアンティーク調の宝飾品が飾られたガラスケースまでもが並び始め、閉塞感を感じ始めたところにあるのか。所在は判然としなかった。


「すげぇな……」

「博物館を思い出すよ」


 皮肉を言ったつもりが、返ってきたのは至って真面目な面持ちと素直な頷き。俺が相方の新たな反応に面食らっている間に、森さんは重そうな木の扉を開けた。てっきり大きなギャラリー室へと続くかと思いきや、そこは相の間のような空間となっていた。正面奥と右手にはそれぞれ金のドアノブの付いた木の扉が。左側には遮光シートが貼られた窓、中央には廊下と同型の鍵付きガラスケースが置かれ、中には素人目に見てもゆうに七桁は超えるであろう大粒の宝石をあしらったアクセサリーが光っている。作品の劣化を防ぐ為か照明は展示された品の近くを除いて最小限の光量に抑えられており、俺達の事務所よりも明らかに性能の良い除湿機も設置されていた。


「右手が物置になっていて、災害時の水や予備の寝具などが入れられているそうです。まあ、崖崩れでも起きない限り入ることはないですが」

 森さんの説明に、珍しく静間が先を促す。

「奥がギャラリー室ですか? ここは自由に入っても?」

「はい。共同スペースは自由にお使い下さいと、御社の遠藤社長から言付かってはおりますが……」


「なにか、問題があるんですか?」

 今度は俺の方がつい口を出してしまった。森さんの顔に困ったような微笑が浮かんで、「私自身が臆病だからなのですが」との前置きと共に彼は僅かに身を震わせた。

「奥の部屋にはなんだか不気味な品もありますし、それを抜きにしても素晴らしい品ばかりですからね。定期的に社長もいらっしゃるそうなので厳重に管理はされているでしょうが、なにかの拍子で壊してしまったらと思うと。それに警備の人も居ないでしょう?」

「ああ、泥棒とか」


 俺の言葉に森さんは苦笑を滲ませ頷く。そのまま俺たちは右手の部屋とギャラリー室とを申し訳程度の短さで見て回った。森さんの言葉通り、右手の物置部屋には客用の寝具や加湿器、湯沸かしポット、使われていない小さめの家具など、雑多としたとしか言いようがないもので溢れていた。見た限り、ギャラリー室へ繋がる扉も梯子や踏み台を除けないと意味をなさない状態だ。そして奥のギャラリー室も同様に、ギャラリー室との名前以外で呼ぼうにも、語彙の少ない俺には特にちょうど良い名称が思い浮かばないような部屋であった。玄関ホール程ではないが天井はかなり高く、東西横長の部屋の壁沿いには廊下や相の間と同じように幾つものガラスケースと艶やかな衣装を纏うマネキン人形、湿度調整の為の除湿機が置かれている。当然エアコンも設置されており、窓も分厚い遮光カーテンのついた出窓が東側の端、物置部屋との出入口近くに一つだけと徹底されていた。


 唯一、予想外だったのは展示品の中に宝飾品でもなければ服飾品でもない真っ白な銅像があった事だ。窓の近く、小柄な大人程度の大きさはあろうそれは、どこかの女神か女性の偉人を模したもののようだった。一瞬、森さんの不気味なものがあるとの発言を思い出したが、個人的な感想としては不気味と言うよりも純粋故に近寄り難いとの印象に近い。薄暗い室内でぼんやりと浮かぶ白い肌は神々しく、唇の端に浮かぶ微笑と遠く天を仰ぐ姿は柔らかく穏やかに見えた。また不気味さを俺が感じなかったのは埃や台座の汚れがなく、一目でこまめに手入れがなされている様を感じ取れた為かもしれない。


 森さんの「莉茉さんが待ってるでしょうから」という言葉を合図に、俺たちはギャラリー室を後にした。ベタつくような湿気が一気に肺を満たし、靄がかかったように頭が重くなる。どうか俺の部屋の設備もあの部屋と同程度の性能でありますように、そう願わずにはいられなかった。



「おい……丈夫か?」

 こちらを案ずる静間の言葉に俺はやっとの事で頷きを返すと頭痛薬を口に放り込んだ。午後六時半、変わりやすい山の天気は坂道を転げ落ちるように悪化の一途を遂げている。遠雷が雲を照らす頻度も増え、続く音も徐々に大きくなっている。真っ暗な空から雨粒が零れ落ちてくるのも、そして俺が頭痛により般若のような顔で呻き始めるのも、間もないだろう。食堂にもまた、俺と似たような表情を浮かべる人間が幾人かいた。


「雷とかヤダもう」

 夕方頃撮影から戻ったルナのセンター、ピンク色と兎耳がチャームポイントである【リサ】こと小松梨沙さんが唇を尖らせ不貞腐れている。ルナの他メンバーと同じく、小松さんもまたキャラと本人とが似通っている印象だ。華奢で小柄な体躯に愛らしい仕草や顔立ち。さすがに桃色の綿菓子のようなツインテールでは無かったが、彼女の髪は細く長く、色味も明るいピンクベージュとキャライメージにかなり近い。年齢は俺達と差程変わらぬように見えるが、素で唇を尖らせてむくれても愛らしさが勝ってしまうような小悪魔的な魅力がある。


「そんな事言っても雨は止まないわよ」

 台所から人数分のカップとティーポットを持ってきた佐々木さんも、暗い空を映した窓を一瞥する。俺と同じく、佐々木さんも雨の影響を受けているのだろうか。昼間、俺たちや猪俣さん達とで食卓を囲んだ時よりも彼女の声音は鋭く、表情も少々険しいように見えた。

「皆、紅茶で良いかしら?」

 俺や静間、森さんの同意の声が続く中、猪俣さんと小松さんからは拒む旨の発言が零れる。


「ごめんねぇ、私はちょっと辞めとく」

「私も。この時間にカフェイン取ると眠れなくなるもん」

 青ざめた顔で笑おうと努める猪俣さんに、脱力し机に突っ伏す小松さん。佐々木さんの呆れたような溜め息に遠雷が続く。

「凄い雷、こわ。じゃ、みんなはごゆっくり。森ちゃん、あとは宜しくお願いします」

「私もすみません、お先に失礼しますねぇ」


 手を振りながら席を立つ小松さんに倣うように、猪俣さんも会釈し、覚束無い足取りで食堂を出ていく。


「折角、梨沙が食べたいって騒いでたケーキを切ったのに!」

「まあまあ莉茉さん。もし静間さんと早戸さんさえ良ければ、ケーキは明日にしませんか?」


 森さんの提案に俺も静間も異論はなかった。四人で紅茶を啜り、その間に調理を担当していた老年のご夫婦は別荘を去った。


 頭痛薬が少し効いてきた頃、俺は玄関ホールで時計の重苦しい鐘の音を聞いた。午後七時三十分。三十分毎にも時を告げ、俺の悶え苦しむ頭にまで時刻を響かせるなんて、律儀な時計だなと妙に感心するしかなかった。


「森さん、静間さん、早戸君、おやすみなさい。明日は良い配信をしましょうね」


 佐々木さんの涼やかな声に、俺は何かしら同意するような返事と会釈を返す。隣の静間は頷くのみ、森さんは自分だけは仕事が残っているとの旨を苦笑と共に漏らしていた気がする。その時の俺は正直なところ、抗い難い眠気という頭痛薬との取引の代償を払う事で手一杯だった。




 薄い靄が俺の周りを覆っている。真っ白な手に導かれ、俺は闇雲に走っていた。息は切れ、殴られたように頭は痛む。光が差す方向に向かっているはずなのに、いくら走っても霧が全て晴れる事はない。時々、切れ間から見えるのは鮮やかなネオンの光と黒々とした同形のビル群。全く知らない人達の、見慣れた有様が過ぎ去っていく。痛みのあまり目が回り、自分何を感じ、何を思っているのか次第にわからなくなってきた。唸るような音に混じって遠くから微かに何かを叩くような音がして、やがてそれは閃光を伴う轟音へと変わっていった。


「……ああ、くそ」

 激しい痛みと目眩によって目覚めの言葉は悪態となった。


 部屋の電気を付け、俺はふらつきながら入り口近くの流し台へと向かう。夕食後の薬が切れ始めたのだろう。皮肉にも痛みと反比例して眠気は薄らいでいた。こんな時は珈琲で追加の痛み止めを飲むに限る。あまり良くない飲み方なのかもしれないが、朦朧とした頭に冷静な判断を求めるという方が酷だろう、と俺は自分に言い訳した。コップに水を入れ、薬とインスタントコーヒーを用意した今、向かうはベッド脇のIHコンロのみ。まずは頭痛を処理しなければ、入浴や就寝の身支度も始まらない。しかし、その明快な短慮さは思わぬ所で徒と成った。


 何かに足を取られて、俺はコップを片手によろめいたのだ。いとも容易く中身は溢れ、右手はずぶ濡れに。同時に明らかに嫌な予感をさせる物音が聞こえ、唸りをあげていた除湿機がピタリと黙る。

「壊した……⁈ て、ないか? いや、そうでもないか?」


 俺はすぐさま転倒の原因となったコードを確認する。悲しいかな、俺は頭痛や躓いた自身への怒りよりも、備品を壊してしまったのではないかという恐怖が勝ってしまう小心者なのだ。

 足をかけたコードは除湿機のものではなく、足りない長さを補う黄ばんだ延長コードだった。プラグの先は曲がっており、コードは使い物にならない。但し幸運にも電源元や除湿機本体の破損は免れたようだった。


 俺は暫く迷った挙げ句、森さんへの報告や謝罪、弁償等の話は明日にする事とし、まずは隣の部屋の静間を頼る事にした。


 理由は三つ。一つは彼が稼働しないと俺の頭は一晩中拷問にあうだろうと容易に予想されるから。もう一つは一人で勝手に判断し行動すれば、あらぬ疑いをかけられる可能性があるから。誰かを巻き込んでおけば最悪、延長コードを探す最中に頭痛で倒れようとも気付いてくれるといった目算もあった。そして何より、単純に距離と性別等を含めた間柄、朧気に残る森さんの発言を考えた結果、静間がちょうど良いと思ったからだ。


 時間も午後十時少し前。静間も起きているだろう。案の定、部屋の扉をノックし声をかけると、奥から気乗りしない生返事と鍵を開ける音が聞こえた。

 静間は呆れの混じった不機嫌な面持ちで俺を出迎えたものの、謝罪を皮切りに俺が事情を話すと静間はあっさりと引き受けてくれた。


「延長コードなら、あの物置部屋にあったぞ。取ってくるか?」

「いや、流石に俺が……静間には知っておいて欲しかっただけだからさ」

「あー……でも、ふらついてコケたんだろ? あの階段で二の舞踏んだら、俺の方が責任感じる」


 気遣ってくれる静間を断る理由も無い。それに彼が言うには、俺の顔はミレーの部屋着姿のなんちゃらのように青白いそうだ。俺は静間の言葉に甘えて、コード探しを頼み、部屋で待機する事にした。そして十分か十五分経った頃だろうか。静間は顔を曇らせ、手ぶらで俺の元へと帰ってきた。


「どこにも無かった。あの部屋でちらっと見た気がしたんだが。あと……」

「あと?」


 普段ならばそこで俺が深く聞く事は無かっただろう。しかし残念ながら激しい頭痛で冷静さを欠く今の俺に気を回す余裕はなかった。そして、それは意外な言葉を静間から引き出す事になる。


「幽霊を見た……と思う」

「なんだそれ?」

「俺も疲れてんだな」


 静間はいつもの喜怒哀楽の乏しい顔で淡く笑う。その後、俺は静間と部屋を交換するという荒業を息も絶え絶えながらではあるが成し遂げ、ベッドへと倒れ込んだ。

 俺は静間の事をよく知らない。それだけじゃない。三上マネージャーの事も社長の事も、俺の家族の事さえも。だから『幽霊』との言葉を発する彼に違和感を持つのも傲慢というものだ。


 痛みと眠気により朧気になっていく意識の中で、俺は幼子に言い含めるように己の傲慢さと観察力の無さを滔々と説き始めた。『幽霊』との言葉がふわふわと宙に浮くのを無視しながら、俺は夢の中でもがいていた。

 



 高原の朝は早い。と言うよりは、頭痛と目眩と不慣れな寝床によるおかしな夢でよく眠れなかった俺は、不本意ながらも普段の起床時間よりもずっと早くから一日を始めるに至った。荒天による頭痛はもうすっかりないが、今度は寝不足で頭が重くなっているのだから人間の体とはうまくいかないものである。午前六時との時刻を確認し、暇を持て余した俺は鍵を開け、別荘内の散策を始めた。食堂やギャラリー室とやらを見に行っても良いし、運良く森さんに出会えるならば外での散歩を許して貰おうとの魂胆からである。


 しかし幸運とはそうそう廊下で出会えるものではない。俺が思い立ってから最初に出会ったのは目当ての森さんでも、ルナのメンバーでもなく、俺と同じく慣れない寝床により早起きしてしまい、散歩を決意した寝癖の残る静間だった。


「はよう、静間。幽霊で眠れなかったか?」

「冗談よせよ。お前と違って元から早起きなんだよ、俺は」


 憎まれ口を叩き合いつつも「こんなに早くに起きて頭痛は大丈夫か?」と俺を気遣う言葉が続く所は静間の長所だと思う。各々、眠れなかった事や今日の配信前に観光が出来ないものかとの他愛ない話を交わしながら、俺達は階段へと向かった。


「あれ? 誰のだろ?」

 ふと、玄関ホールに面する廊下に落ちていたそれに俺の視線は止められた。至って平凡な黒色のスマホ。カバーやスマホリングの類いさえもついていないそれは、持ち主の存在があまり感じられなかった。


「俺たちのじゃないって事は向こうのだな」

「うーん、じゃあどこか目立つところにでも」


 李下に冠を正さずではないが、公共施設や民間施設でないこの場で、万が一女性アイドルの私物を下手に触ったとなれば、誤解を招くことはうけあいだ。俺達は迷わずスマホを手洗い場入り口前、置物の横に置くと階下へと降りていった。


「まだ誰も起きてないんだな……」

「起きてても部屋にいるんじゃないか?」

 当たり前の事を呟く静間に俺は至極当然の返事をしてから、内心苦笑した。


 少なくとも相手方一行は観光に来た訳ではないのだから、たとえ一晩ですっかり体調を取り戻したとしても朝から別荘を散策だ、散歩だと浮かれはしゃぐ訳がない――と返そうとした俺ではあるが、つい先程まで万が一パジャマ姿の女子と出会ってしまったらどうすべきか、などと緊張していたのもまた、他ならぬ俺自身である。互いに寝不足な俺達は、あてもなく階下におり、ぼんやりとした頭のままにギャラリー室脇の物置部屋へと向かった。もう一度二人で探せば延長コードが見つかるかもしれないとの思いもあったし、静間の興味がギャラリー室にあるのではないかと言う俺なりの気遣いもあった。


「しかし静間が幽霊なんてな、森さんじゃあるまいし」

「幽霊の方が良い。不審者の方が厄介だ」

 それもそうかと一人納得して、俺と静間はひんやりとした朝の空気を纏う廊下を通り、件の物置部屋の扉を開けた。室内は暗く、俺は電気のスイッチを探る。パッとLED電球が付いた瞬間、室内を見た静間の表情が一変する。

「どうした? 静間」


 静間の視線が集まるその先を見て、俺からも同トーンの間抜けな声が出た。

「……あるじゃん」

「……あるな」


 互いから、なんの面白味も感じられない事実と感想が入り交じった言葉が続く。しかしそれ以外の適当な言葉は見当たらない。何故か。それは至って簡単だ。静間が俺のためにと昨晩、血眼になって探してくれたであろう延長コードが部屋の左側、ギャラリー室との境の扉近くに放り投げられてあったからだ。


「昨日探した時は本当になかったんだが……しかもなんだこれ?」


 静間は首を傾げながら件のコードをつまみ上げる。全長一・五メートル程のそれは三個口の極々一般的な白色のタップ付延長コードであり、コードやタップ口付近の色合いからもかなり新しいように見えた。しかしコードには明らかにぞんざいに扱ったであろう不自然な折り癖や傷がついており、特にタップ口の近くは顕著であった。加えて反対側のプラグ付近は固結びにされ、拳が通る程度の小さな輪まで出来ている。


「何かの罠みたいだな」

「子供の? 調理に来てくれてる人のお孫さんがカウボーイごっこでもして、こっそり朝返しにきた、とかしか考えられないけど。まさか」


 あまりにも非現実的だと俺は肩をすくめたが、静間は納得がいかないのかコードを押し付けると首を振った。


「子供じゃないにしても、昨日と違うのはお前だって見てわかるだろ」

「まあ……そりゃ、そうかも?」


 静間に促されなければ気にも留めなかっただろうが、確かに物置部屋の様相は昨日案内された時とは多少異なっている。例えばギャラリー室へと続く扉の手前にあった梯子の位置が窓側に寄っている事や、加湿器の箱が僅かに曲がっている事など。但しそれらは極僅かな相違点であり、俺が延長コードを探そうと思わなければ全く気付かなかっただろうなものだ。


 静間は辺りを歩きながらギャラリー室への扉へと手をかけた。昨晩と違い、扉の進行を妨げるものは既になく、それは静間の動きに従って音もなく手前に開いた。


「そうだ。ほら、この扉なんかも……ッ⁈ 梨紗! おい、大丈夫か?」

 瞬間、静間は勢いよくギャラリー室へと飛び込んだ。俺は突然の台詞と行動に見解をつける間は無く、反射的に静間の後を追う。そして飛び込んだ先、予想だにしなかった光景に俺は言葉を失った。


 静間のすぐ傍で真っ白な顔をした女性が倒れている。窓へと向けられた足は緩く曲がり、両手は緩く握られ華奢な肢体に寄り添っている。記憶にある生き生きとした瞳は硬く閉じられ、愛らしかった唇は引き結ばれていた。彫像のような白磁の肌は東側の窓から差し込む淡い光と物置部屋からの照明光に照らされ、薄暗い室内に浮かんでいるようにも見える。綺麗に染められたピンクがかったベージュ色の髪と隣の女神像の台座を、赤黒い血飛沫が歪で邪悪なドットを打っていた。


「……小松、さん……」


 ようやく零れ出た言葉は意味も面白味もない、事実でさえ満足に表さぬ言葉だった。



 あれから俺はすぐに救急車と警察へ携帯で電話し、静間は小松さんの脈を調べ、既に俺たちには何も打つ手が無い事を確かめてから二人でその場を離れた。彼女の冷たく強ばった腕からも、俺たちのような素人でも救命措置を行うべきだとの段階は、残念ながら過ぎ去っていると判断せざるを得なかったからだ。何かしらの小松さんの事情と不運が重なった末の事故、或いは――その可能性を考えるだけで体が震えた。


 俺たちはそのまま森さんの部屋へ。森さんにギャラリー室の女神像の近くで小松さんが頭から血を流して倒れている旨や救急と警察へと連絡した事を相談し、追って猪俣さん、佐々木さんへも同じ内容を簡潔に伝えた。一同は身を寄せ合うように食堂へと集まり、現在は救急と警察の到着を待っている状況だ。


 俺は動揺と異様な興奮と恐怖とに耐えきれず、内に渦巻く混乱を紛らわすようにそっと皆の様子を盗み見た。隣の静間は呆然と床に視線を落とし、いつになく表情の乏しい顔を土気色にさせている。具合が悪くとも笑顔を作っていた猪俣さんは食卓に突っ伏し嗚咽を漏らしている。猪俣さんの背を撫でる佐々木さんの顔も白く、猪俣さんに声をかける事で平静を保っているように見えた。他方、森さんの顔色もかなり悪いが、こちらは仕事の調整と相手先への謝罪に追われ、それどころではないようだ。俺も三上マネージャーに連絡しなければと思いつつも、何をどう伝えれば良いか、混乱する頭では見当も付かなかった。


「どうしてだよ……」

 押し黙っていた静間から呻くような呟きが漏れる。その言葉と先程の台詞の違和感に俺はとある想像をし、すぐにそれを否定した。彼はあの時小松さんを名前で呼んだ。衝撃と動揺による咄嗟の一言。しかしだからこその言葉だったのではないか。俺は静間の事をよく知らない、その事実は何も変わっていないはずなのに。彼女の死を見てしまった今、俺の心の中にはどろどろとした得体の知れぬ不安が蟠り、この別荘での様々な違和感と繋がっては決して望まぬ真実が目の前に晒されてしまわないだろうかとの恐怖まで抱き始めている。俺が抱く恐怖の最大の敵はおそらく未知や無知である。しかし守られるべき範囲は各々にあり、たとえそれらを何の障害もなく得てしても全てが解決する訳では無い事も俺は良く知っていた。


「静間、お前……」

 言いかけ、こちらへと向けられた静間の顔を見て俺は辞めた。踏み込めない、と悟る。静間はあの時の母と同じ表情をしていた。俺は続きを催促しない静間に甘えて俯くと、整理しきれぬ気持ちを誤魔化すために先程の小松さんを思い出した。


 東側の窓から燦々と差し込む光たち、窓下に置かれた曲がった踏み台、踏み台へと足を向け倒れているワンピース姿の小松さん、閉じられた瞼と引き結ばれた唇、真っ白な顔と同じ色の女神像、後頭部から流れる鮮血が創り出した凄惨な斑模様。それから紛失事件に伴う物置部屋の変化、幽霊等々。


「梨紗、梨紗ぁ……ごめん、ごめんなさい。私のせいなの、私の……」

「里奈? 大丈夫よ。里奈のせいなんかじゃ絶対にない。不運が重なったの、大丈夫だから」


 泣き崩れる猪俣さんに佐々木さんは励ましの言葉を繰り返す。相手先への連絡がひと段落したのか、森さんも猪俣さんの隣へと座ると佐々木さんの言葉に次ぐ。

「そうです。小松さんは多分事故ですよ。早戸さん達のお話では踏み台があったそうですし、足を滑らせた時に打ちどころが悪かったんでしょう」

「そうよ、里奈。大丈夫。警察が来ればすぐに里奈のせいじゃない事がわかるわ」

「違う……私が……私が……」


 それきり、猪俣さんは再び嗚咽をあげ泣き始めてしまう。昨晩の荒天の影響で崖崩れや障害物による通行止めが相次いだ結果、警察が別荘へと到着したのは昼前だった。




 最寄りのN県警K署から来た刑事の中に懐かしい顔を見つけた時は、思わず驚愕の声が漏れた。

「颯太郎! ……お前、なんだ、なんでだ?」

「千里叔父さん……!」


 凜々しい眉に角張った顎。一見しても四方八方からじっくり見ても近付き難い容姿だが、笑うと人の良さが滲み出てしまう千里叔父さんとは凡そ三年ぶりの再会だ。彼が他県で警察関係の職に就いている事は知っていたが、家を出てからは一度も会っていなかった。偶然の再会が仕事絡みとはなんとも皮肉なものである。しかしあのような事件があった後、身も知らぬ厳つい刑事達の中に見知った厳つい叔父さんが居た事に意外にも俺は安堵していた。


「親戚か?」

「ああ。俺の母さんの弟。優しくて信頼出来る人だよ。声があれだけど」

「城井千里です。殿様の住む城に井戸の井、千の里で千里。颯太郎がお世話になってます」

 よくある「うちの息子が」「いえいえこちらこそ」と同じ調子で叔父さんと静間は挨拶を交わすと、千里叔父さんは城井警部補へと戻っていった。


 現場はすぐに封鎖され、万が一の時に自身の潔白を証明する為にもと説得された末に、俺たちの外出も禁じられた。間もなく、警察関係者によって小松さんが亡くなった事も明らかになった。これから捜査や解剖結果で変わる可能性はあるものの、俺たちが見た現場の様子や捜査員から漏れ聞こえる抑揚のない事務的な声から、頭部損傷による事故死の可能性は濃厚であろうと俺は思った。


 俺たちは警察の指示に従って食堂で朝食だったものをひとまず取ると、森さん、静間、佐々木さん、俺、猪俣さんの順に警察の取調べを受ける事となった。順番はおそらく年齢や体調を考慮したものだったように思える。取調べを受ける人間は食堂へ。残りは玄関ホールに集まってソファなどにもたれていた。猪俣さんだけはあまりにも体調が悪い為、女性刑事に連れ添われ、自室へ戻り休んでいた。時刻は既に午後二時を回っている。森さんが取調べを受けている間に、三上さんから生配信の中止を発表したとの連絡が入った。


「なんか、呆気ないもんだな……」

 ポツリと静間が苦笑を零す。俺は未だ拭えぬ違和感をさっさと片付けてしまいたい気持ちに駆られて、静間へと目配せすると手洗いへと視線を向けた。阿吽の呼吸がなんとやら、とあの街で感じたように、別荘でも俺の意図を静間は組んでくれたようだ。俺は人生で初めて他人と連れ立って手洗いへ行った。


「なぁ、お前と小松さんって知り合いだったのか?」

 手洗い場へ続く廊下で、俺は単刀直入に静間へと問う。静間は抗う事なく頷くと、初めて泣きそうな顔をした。


「三上さんも知ってる。元々この生配信もその関係であがった話なんだ。でも喧嘩して、俺が悪いんだ。忙しくて……つい、梨紗の大事なものを尊重する余裕がなくなって感情的に……」

「もしかして話し合おうと思って昨日の朝、あ、うん、一昨日の夜か……その」

 言い淀む俺に静間は察し、悲しげに笑う。


「いや。月曜日に会えたからそこで話し合った。俺は仲直りしたつもりでいた。お前への連絡は直近だし、変にメッセージ送って混乱させてもなと思ったから。……良い休暇になりそうだなんてさ。はは、謝って、仲直りしたって俺のした事がなくなったり、梨紗の傷が癒える訳じゃないのに」

 静間の言に胸が痛む一方で、俺はとある疑問に眉を顰める。


「静間、小松さんは転んでの事故じゃないのか?」

 口を突いて出た言葉に静間は緩く首を振ると、床を見つめながら声を落とした。

「遺書じゃないかって警察の人が言ってたのを偶然聞いたんだ。城井さんからも話があるんじゃないか。なんせ、俺達が拾ったあのスマホに……」

 静間の顔に再びあの今にも泣き出しそうな表情が浮かぶ。


「でも、あの場にはそんな……?」

「俺も最初はそう思ったけど、遺書の話聞いて冷静に思い出してみれば踏み台もあったしなと思い直した。わざと自分から落ちたのか、色々準備をしてる間に踏み外したのか……。梨紗はああ見えてしっかり者で、かなり無理をする癖に平気だって笑うような奴だったから。一人でやってみせるって」


 静間の言葉は、しっかり者で責任感がある女性だった、とも取れる。しかし静間の贔屓目を抜きにしても、そんな人間があえて取引先の会社社長の別荘で、関係者を巻き込み、四、五十センチ程度の低い踏み台を使って自殺を図るだろうか。そこまで考えて俺はすぐに否定した。追い詰められ、死を決意した人間に冷静さや在り来りな類型を当て嵌める事は出来ない。亡くなった小松さんを思えば、それ以上の推論は無意味な気がした。


「静間さん、城井警部補さんが探してたわよ」

 佐々木さんの呼び声に静間はまたあの無表情へと戻ると、食堂へと踵を返す。小松さんと静間との関係が明らかになった事により、少しは拭われたかと思えた俺の違和感や疑問は、静間からの遺書の発見という情報により益々深まってしまった。


「早戸君? ちょっといい? 少し教えて欲しい事があるの」

 通り過ぎる静間を一瞥し、入れ替わるように隣へと立った佐々木さんから囁くような声が聞こえた。俺は了承の意を込めて、彼女に倣い壁の絵を見つめる。少女があどけなく微笑む絵画が今はただ、物寂しく皮肉に見えてならなかった。


「昨晩、早戸君は静間さんと一緒にいたのかしら?」


 どのような意味での問いなのか計り兼ねる俺に、佐々木さんは厳しい表情を崩さない。俺は頭痛で十時前まで寝てしまった事、つまずき除湿機に繋いでいたコードを壊してしまった事、休んでいた静間をコード探しに巻き込んだ事などを簡単に話し、彼女の様子を伺う事にした。佐々木さんは時折、時刻の確認をしては眉を顰め、何事かを考えるように顎に手を当てては、どこか遠くを睨んでいた。


「……そう。ありがとう。ところであの男、静間さん、梨紗と付き合ってたんじゃないかしら? なのに、こんな時まで知らないフリして。貴方も気をつけた方が良いわよ」


 最後に忠告めいた言葉を残して去ろうとする佐々木さんに、今度は俺が彼女へと質問を投げる。


「待って下さい。俺も聞きたい事が」

「何?」

「佐々木さんは昨晩、どんな風に過ごしてたんですか? 俺ばっかり答えるのはフェアじゃないでしょう?」

 肩を竦める俺に佐々木さんは嘲笑めいた笑みを浮かべた。

「ずっと部屋に居たわ。雷が苦手なのよ。シャワー室もついてるし、出る必要もないでしょ? だからアリバイはなしってところかしら、探偵君」


 わざとおどけたフリをして動向を探ったつもりが、すっかり見抜かれていたようだ。彼女の反応からも、場合によっては好奇心を前面に押し出した方が良い事を悟って「じゃあ、特に他に何か気付いた事とかは?」と俺は続ける。


「ないわね。とにかくひどい天気だったし。明日の事もあるから早目に布団に入ったの。九時過ぎだったかしら? 確かな時間まではちょっと」

「じゃあ、小松さんのスマホについては聞いてますか? 廊下に落ちていた……」

「ええ? 警察の人が梨紗のスマホを持ってたわね。あの子らしいわ。仕事に使う大事な物なのに落として、足まで滑らせて転ぶなんて」

 佐々木さんは苦笑する。その笑みは言葉通りの呆れよりも、悲しみや何かに対しての憤りや悔しさが滲んでいた。



 佐々木さんと玄関ホールに戻るとポツンと取り残されていた森さんと目が合った。佐々木さんは少し猪俣さんの様子を見てくると告げて二階へ、残された俺はそのまま森さんへと話しかける。


「お疲れ様です」

「ははは、やれやれだ。刑事さんも仕事だから事件か事故か断定できない限りは万が一を考えるんだろう。アリバイなんて初めて聞かれたよ」

「そんな事を聞かれるんですか! 森さんはどんな風に話しました? 時刻とか……」

「そりゃあ疑われても困るからね。正直に話したよ。昨日は九時半から、って言っても社長の都合で四十分頃からだったかな。一時間弱リモートで打ち合わせして、途中ドアをノックする音があったから三回位は席を立った。でも何度見に行っても誰もいないし、不気味な話だよ。リモートは十一時前には終わって、それも調べればわかるはず。ただ僕のアリバイはそれだけ。死亡推定時刻とやらを調べたら全くの無意味になるかもね。小説やドラマでもなし、実際はそんなもんだよ」


 余程千里叔父さんの取調べは執拗だったのだろう。森さんはため息を挟みながら、他にも小松さんの最近の様子やトラブル有無に始まり、交友関係、小松さんがギャラリー室へと向かった理由の心当たり等、千里叔父さんに何を尋ねられ、それらに対してどう答えたかを事細かに話してくれた。


「しかし残念だよ。僕も彼女の話を少しでも聞いてあげればこんな事には」

「じゃあやっぱり小松さんはご自身で……?」

「いや、頭を打って死んだんだろう? 普通に事故なんじゃないの。ただ僕は警察の人が遺書がどうたらって話をしていたから、梨紗が悩んでいて、その辺りが事故に関係しているのかもと思っただけ。死のうとして色々模索してる中で、とかね。まあ真相はあっちで調べてくれる。それよりこの後どうするかだよ」


 森さんは大きなため息を零すとがっくりと肩を落とした。小松さんの死も大事だが、マネージャーの彼にとってはルナの存続や今後のスケジュール管理、週刊誌への対応等も直近の重要課題となってくる。多忙時の三上さんに重なる森さんの姿は、使い古した布巾やくたびれ定型を失った制服のシャツを思い起こさせた。


「あの、うまく言えないですけれど……小松さんのご冥福をお祈りしてます。ルナの皆さんの実力ならきっと」

「ありがとう。はぁ、ややこしい事にならないと良いね。事件か事故か、どちらにしろ不気味な別荘で稼ぎ頭のリサが不審死。週刊誌が好きそうなネタだよ」


 森さんは千里叔父さんからの質問攻めにより溜まってしまった鬱憤を吐き出した事に満足したのか、そこで話を切ると脱力したようにソファへと身を沈めた。ホールの時計が午後三時半の時を告げる。俺は胸の奥底でうごめく蟠りを放置できないという至極個人的な理由の為だけに、佐々木さんに声をかけるついでに猪俣さんの様子を見に行く事にした。



 部屋に入ると三人の女性の視線が一気に俺へと集まった。俺は曖昧に苦笑いして入り口の警察官の女性に会釈すると、佐々木さんに用件を告げ、真っ青な顔の猪俣さんへと歩み寄る。


 得体の知れぬ幽霊、不思議なコードの一件、スマホに書かれたであろう遺書、不審なノック、小松さんを取り巻く状況。そして静間、佐々木さん、森さんの中にある認識の違いやそれぞれの想い。もやもやとした不可思議なそれらは俺の心の中で彷徨い続けている。森さんの言う通り、事故か事件かの判断は警察に任せておけば何れ解決するだろう。俺がここで繋がりそうで繋がらぬバラバラのそれらを集めて、こねくり回した所で一体何になるのだろうとも思う。だから俺の一連の行動は一般人で小生意気な若人の俺が納得する答えを見つけ、己の不安を拭いたいという欲を満たす為だけの、自分勝手な好奇心を埋める為だけの行為である。


 ただ、そんな自己満足と欲求不満解消を原動力とする俺でも、色濃い憔悴を浮かべる猪俣さんへ無神経な問を質すのには躊躇いがあった。


「猪俣さん、単刀直入にお伺いします。ですがこれは俺個人の問題を解決する為だけなので、嫌なら嫌と」

 俺が言い終わる前に猪俣さんは首を横に振った。泣き腫らし赤くなった目が俺を真っ直ぐに見つめる。


「私のせいなの。昨日の夜、梨紗から電話があって『許せない』って、あの子の叫び声が聞こえてすぐに切れちゃたの。ううん、梨紗は辛くて泣いてたんだよ」

「ま、待って下さい。それは何時頃です? 本当に梨紗さんが?」


 俺の問いに彼女は大きく頷く。

「間違いない。あの声は梨紗だった。それに後で確認したけれど、ちゃんと梨紗の仕事用のスマホからだった。午後九時五十八分。……私、忘れられない、あれが、梨紗の最後の言葉だったんだ……」

 猪俣さんの唇が震えて、大きな瞳から涙が溢れる。朗らかな笑顔を浮かべていた顔が、今は土砂降りの雨に踏みつけられた畦道のようにぐしゃぐしゃになっていた。


「突然切れちゃうし、あの梨紗が泣きながらこんな時間に電話してくるなんて何かの間違いだろうって。変なノックもその後暫くあったけど、どうせ雷の音だよって、都合の良い言い訳をつけて寝たんだ。この間から梨紗が元気ないのは知ってたのに。梨紗の叫びを聞いたのに、助けられたのに、私は……梨紗を……」


 顔を覆う猪俣さんの背を撫でた俺が、要らぬ接触だと気付いた瞬間、彼女は口を押え立ち上がった。驚く俺を置き、ふらつきながらも小さい背中は手洗いへと駆け込む。俺は初めての事に狼狽え、結局はその場にあった水を戻ってきた彼女へと差し出す事しか出来なかった。

「ありがとう。ちゃんと向き合って、しっかりしないといけないのにね」

 真っ青な顔に笑顔を浮かべる彼女に、情けなくも俺は謝罪も感謝も伝えられず、曖昧な会釈だけを返す。もし鏡を見れば、表情を取り繕えずに罪悪感と悲愴をまざまざと顔に表した不器用な青年が映っていたかもしれないが、生憎俺は鏡を見る習慣がなかった。部屋を出て、俺は佐々木さんが食堂から出てくるのを確認し、千里叔父さんへと会いに行った。




 見知った叔父からの取調べは予想よりもずっと簡単に済んだ。実際、静間と二人で除湿機を再び稼働させるために奮闘した午後十時少し前からの三十分程度を除いて、昨晩の俺のアリバイはないに等しい。多くの時間は酷い頭痛に悩まされるか、一時の快楽を与える痛み止めによって寝ていたかのどちらかで、小松さんとの関係についても昨日が初対面としか答えようがなく、ぎくしゃくとした雰囲気を多少和ます程度の毒にも薬にもならないであろう証言となった。


 ところでテレビドラマでは大抵刑事は二人組である。また今回のように身内が関係者にいる場合は他の担当者が対応しそうなものだが、過疎化の進む地域柄人手不足なのか、既に事故死とほぼ断定して捜査を進めているのか、良くも悪くも俺に話を聞いたのは千里叔父さん一人であった。


「叔父さん、何れわかる事だから関係者である俺に聞かせて欲しいんですけれど」

「なんだ、改まって」

 明らかに顔を顰め、身構える叔父さんを無視して俺は続ける。

「現場の様子、教えて下さい。気になる事があるんですけど、話を聞いてから叔父さんに話すか決めるべきだと思って」

「その判断は……はあ、わかったよ。その代わり俺もお前の気になる事とやらが知りたい。教えろ。単純に俺個人が知りたいだけだから、それで良いだろう?」


 ”薄っぺらい見栄の為に”を建前に情報を聞き出そうとした俺は、何枚も上手な叔父さんにあっさりと、しかも真意は見透かしていると宣言するような手で返されてしまう。俺は悔し紛れに「交渉成立だ」と笑って先を促した。


「解剖前なんで大雑把にしか言えんが、午後八時過ぎから午前二時前。現状では小松梨紗が何らかの事情から自死を考えていた事は事実だが、直接の死因とは因果関係が認められない、って感じだ」

「それは? スマホから遺書が見つかったんじゃないの?」


「森も静間もだが、ここにいる男らは耳が早いな。メモは見つかった。何かしら悩んで思い詰めていたようで、最後に『運命を弄んだ女神が許せない、汚してやる。死んでやる』と。最終更新時間は昨日の午後十時十分、死ぬ直前のものと考えてもおかしくはない。あと履歴から猪俣への午後九時五十八分にほんの数秒通話した事と佐々木から午後十時五分に不在着信があった事もわかった。だが、現場の様子からは自死とは考えにくい、と判断するしかなかった」

 微妙な言いようと苦い表情は叔父さんの本意が見込みと伴っていないような印象を受ける。


「どんな様子だったの?」

「窓際に踏み台があっただろう。当初はそこからの足を滑らして、って推測はし辛かった。わざわざ夜中に踏み台出して登る理由がないからな。だが、被害者の右手から兎の尾を模したキーホルダーが見つかった。それから窓のカーテンレールからも同じキーホルダーから抜けたであろうフェイクファーも」

「え、それって?」

「被害者がデビューした時に初めて出たグッズ、らしい。余程大事な物だったのかな。それを誰かに隠されでもしたんだろ。もしかしたら何処にあるのかも仄めかされたのかもしれん。背が低かった彼女は踏み台を使って取ろうとしたが、手が届いた瞬間足を踏み外し、頭を打ってしまった。カーテンレールには傷と毛が残り、彼女の手にはキーホルダーが残った……と見るしかない」


 信じられない。本当にそんな子供じみた悪戯がきっかけで小松さんは一生を終えてしまったのだろうか。あの静間が見た幽霊も、不思議なノック音も、叫び声のような電話も、スマホに残された遺書も全て何の関係もないのだろうか。


「さあ、お前の情報を寄越せ。約束だぞ」


 俺は昨晩の雷による頭痛と除湿機の件に始まり、幽霊目撃の件や物置部屋の異変を話した。ついでに既に聞いているであろう森さん話やこれから話されるであろう猪俣さんの電話の件、彼女が罪悪感に悩まされて身体にまで影響が出ている事までも。


「ああ、猪俣さんの体は大丈夫だ。多分」

「猪俣さんの体、は? 体以外の他に、それとも誰かが、何かあったの?」

 歯切れの悪い叔父さんに俺は突っ込む。さっと視線を逸らされて俺は確信する。

「佐々木さんや森さん、静間にも何か問題が?」

「ああーまあ、その、あれだ。芸能人も色々な。関われば恋愛とか経営とか横領とか、方向性のアレっつーかプライド的なぶつかり合いとかな。いや、だが、動機と機会の一致が伴わない事もな……はい、終わり。この話は終わり!」

 叔父さんの様子から、あったのだ。少なくとも複数人に動機らしきものや何かしらの細工をする機会はあった。


「最後に教えて下さい。他の人の証言の裏は取れたんですか?」


 俺の問いに叔父さんは渋々頷く。そして丁寧にも静間が見ていたテレビがネット配信のない地方テレビであった事や内容が一致した事、森さんのリモートの話は社長からの提案であり、彼が数回席を立ったのには間違いない事、最初に奇妙な物音を聞いたのも社長自身だった事なども付け足してくれた。俺は猪俣さんの話を含めて、各々の人物から聞いた話に大きな偽りはないと判断した。


「ところで颯太郎、最近姉さんの職場にイケメンで顔が良いデキる男風の……」

「……ああ、そう。へぇ。良かったよ。やっと苗字が変わるんだ?」


 曖昧で重複の多い話でさえ俺の心は揺れる。必死に動揺を隠して強がると、叔父さんは濡れ犬のようにしょんぼりと肩を落とし「いや、あのそんな風な噂を聞いたような聞かないような」と自身の食言をやんわりと認めた。萎れる叔父さんを放っておく訳にもいかず、俺は「わかったよ」と負けず劣らず受け取りようが多彩な応えを示す。


 俺たちは撮影等全てのスケジュールを取り止め、予定通り明日昼までは別荘内へと留まる事になった。ここ一帯の局所的悪天の影響による通行止めが叔父さんの強い薦めの一助になった事は言うまでもない。


 そして俺は夕食を終えても、ずっと小松梨紗という人間と、その周りの人々各々の意識の違いを考えていた。許せない、伝え聞いた言葉であるのに妙にしっくりとくるような、リアルな感覚に背筋が冷たくなる。女神の近くで息絶えた彼女は何に対して怒り死んでいったのだろう。


 ふと、部屋へと戻る俺を抑揚の少ない声が引き止めた。


「おい、大丈夫か?」

「いや、あんまり。なんか俺さ、よくわからなくて」

 言葉少なに「それは?」と先を促す静間に、俺の唇は馬鹿正直に心情を吐き出した。


「この別荘に来てから一見、合ってるように見えてたものが急にバラバラでちぐはぐに感じ始めて、何かが見えそうなのが気になって。でも俺は知らないから仕方ないんだよなって納得してもいて。なのに、すごくモヤモヤもしてんだ。いつも俺は無力で間違えて、でも何度だって俺と誰かをどうにかしたいって気付くと傲慢になってる」


 言葉に表してから最悪の愚痴だと知る。厄介で、醜悪で横暴。そしておそらく静間が一番困る愚痴。結局俺は過去と今とを重ねて、どうにもならない事に悩んで暴れているだけだ。闇を探って導き出した真実に俺の信じる道理があるとは限らない。かと言って、他に答えや理由を見出しても内に残るのは虚無であり、だからこそ触れない事にも正しさがあると知った筈なのだ。それなのに、まだ俺は諦めきれずにいる。


 首を傾げられ往なされるだろうか、根拠の無い慰めを向けられるだろうか。しかし静間はどちらでもなかった。


「……別に良くないか。俺もお前も人間で、感情はいつだって自分が理性的だと信じてる時だってつきまとうもんじゃねぇの? あとお前、考え過ぎ。わかんねぇ事も人も居るし。現実は運とか縁とかが重なって、考え方も価値観も少しずつ違って、少しだけ同じな人間が集まった、たったそれだけの場所だろ。俺たちは神じゃねぇ。他人も自分も物事も、全部は知らなくて出来ないのが当たり前。そん中で知りたいとかどうにかしたいとか思いもする。あと、今の言葉でお前をおしたからには相応の責任も持つ」


「……お前は理解不能だって、怒りも笑いもしないんだな」

「は? 何か面白要素あったか? とにかく、俺はお前の気弱い癖にお節介で、ごちゃごちゃ考えて答え出して、失敗してもなんとか前向いて挑んでいく所良いと思うし、少しなら付き合うって、そのな」


 褒められ慰められているのか、貶され笑われているのか。その答えは俺から零れた笑みに出ていた。


「そう言えばあいつも言ってたな。『怖いのも悲しいのも嬉しいのも楽しいのも全部私の特権で、環境も出会いも変化もどう受け取るかは私次第。みんな祝福なんだ』って」


 静間の顔にふっと浮かんだ笑みに瞳を奪われる。悲愴とも安堵とも回顧とも題名が付けられるようなそれは『死』という一点のみで過去の誰かのそれと重なる。


 スマホの遺書、幽霊、不気味な部屋、延長コード、謎の電話、ノック音、キーホルダー、曲がったカーテンレール、踏み台、罪悪感、認識の違い、禍々しい斑模様に真っ白な女神像。そして瞳を閉じ眠るように死んだ小松さん。俺の中でバラバラだったそれらが一点のそれで繋がって、推測に推測を重ねたそれを顕していく。


「静間、ちょっと聞きたい事があるんだけど。小松さんとはスマホでもやり取りをしてたんだよな?」

「ああ」

「じゃあ」

「ちょっと待て。長くなるなら後でで良いか? この後ちょっと色々……」


 口籠もる静間に妙な胸のざわめきを感じて問い正すと、とある人物に呼び出されていると相方は簡単に口を割った。俺は好機と受け取り相方に同行と幾つかの要望を申し出る。真剣な瞳と快諾に大きく頷いて、俺たちは時間を合わせ目的の場所へと向かった。

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