剣と迷宮と薔薇色の人生!〜かつて世界を救った剣豪は生まれ変わって今度こそ恋愛したい〜

星喰うみうし

プロローグ



「おお、よしよし。いい子ね、いい子」



 春の日差しが窓際に差し込んでいる。

 穏やかな風がカーテンを揺らして、足元に落ちた影がゆらゆらと踊る。


 それに驚いたのか、まだ幼い赤子が大きな声で泣いていた。

 空の色を写した様な透き通るブルーの髪。

 大きな瞳からポロポロと涙を溢しながら、ぷくぷくのほっぺを興奮で真っ赤にしている。


「大丈夫よ。あなたのママはどこにも行かないわ」


 まだ年若い母親は、幼い我が子を大切に抱きしめて、背中をとんとんと優しく叩いた。


「安心して。何も怖いことなんてないよ。何があっても、絶対にママが守ってあげるからね」

 

 抱きしめていると、赤ちゃんの高い体温が移ったみたいに心がぽかぽか温かくなってくる。


 ——この子のためならどんな事でもできそうな気がする。


 母である女性は嘘偽りなくそう思った。

 それから、いつも妻である私のために無茶ばかりをする夫の事を言えないなぁと一人で苦笑した。

 

 穏やかで、愛おしい時間だった。

 永遠に続けばいいなと思うほどに。


 いつしか、赤子はすぅすぅと寝息を立てて眠っていた。

 そっとベビーベッドに寝かせてから、母親も安楽椅子に腰掛けて少しばかりの午睡を取りはじめた。



………………

…………

……



 キチキチ、と小さな音がした。

 安楽椅子の足元に一匹の黒い蜘蛛が這っている。


 それは、見る人が見れば目を剥くほどの光景であった。

 小指の先程の大きさもないその小さな虫は、他方で『極小の地獄』とまで呼ばれる恐ろしい毒蟲である。

 

 最上級迷宮ダンジョンの深層にしか棲息していないはずのこの虫の名前は「深淵蜘蛛アビス・スパイダー」という。

 その性質は——「暗殺者」。

 歴史の裏舞台で何度も利用され、王侯貴族や名だたる英雄もこの虫の一噛みによって命を散らしてきた。


 その牙が持つ異能スキルは、ありとあらゆる生命を一撃で死に至らしめる絶死の刃だ。


 【防御無視】、

 【防衛魔術貫通】、

 【毒無効無視】、

 幻想毒、概念毒、崩壊毒などからなる、究極の【複合劇毒コンポジット・ヴェノム


 そして、【】。


 安楽椅子で眠る赤子の母親は、高名な迷宮探索者ダンジョン・シーカーにして世界有数の治癒術者ヒーラーであった。既に迷宮探索者は引退したが、世間では『白聖女セイント』の名で呼ばれていた頃もある。


 常の備えとして、家の周囲に張り巡らされた何重もの防衛結界は、しかして微細な生命力と魔力しか持たないこの毒蟲を感知することはできなかった。——だからこそ、英雄を殺す牙たり得るのだが。


 何者かが絶対の殺意を抱いて放った刺客は、ターゲットである母親の首筋に向かって、スルスルと安楽椅子を登っていく。


 『白聖女セイント』と呼ばれた女の死。

 誰かが望んだ通りのシナリオ通りに事が進んでいた。



 



「————【虚空抜刀ヴォイド・セイバー】」


 突如空間が割れて、不可視の剣閃が飛翔した。


 黒い毒蜘蛛は、自らの身に何が起こったか理解するよりも早く、全身をバラバラに切断されて絶命した。


 母親の首筋に止まっていたにも関わらず、彼女の薄い皮膚も、髪の毛一本も切断されてはいなかった。


 ベビーベッドの上の、赤子の目が開いている。


 生まれてからまだ一年も経っていない赤子とは思えない程に、鋭い視線。


 手は真っ直ぐに敵対者へと伸ばされていた。

 ……


(ふいー。おちおち昼寝もできんわい)


 毒蜘蛛の絶命を確認し、他の蜘蛛がいないことを確信したのち、赤子はやっと残心を解いた。

 まだ赤子の体は自在に動かすことができず、最近になって漸く掴まり立ちができるようになったばかりであった。


 だが、剣ならばどこまでも自在だ。

 それが、『剣豪ラゴウ』の生まれ変わりであるならば。

 

(やっぱりワシ、ちゃんと剣豪じゃなぁ)


 久しぶりに剣を振った感触に満足して、まだ一歳にも満たない赤子はもう一度昼寝をはじめた。この身体はとにかく眠くなるのだ。


 すぐに部屋には、母親と赤子の寝息が響くばかりとなった。


……………

…………

……


 

「おおーい、帰ったぞー。……ってヤベ、寝てた……?」


 大柄な男性がドカドカと帰宅して、常日頃妻に怒られている事を思い出した。


 そこにぷりぷり怒った妻がいないことを祈りながら、そぉーっと子供部屋の扉を開ける。


「……なぁんだ。二人とも寝ちゃってたのか」


 男性は、妻と我が子がすやすやと寝息を立てている光景を愛おしげに眺めた。

 眠る我が子の髪を優しく優しく撫でて、この子は将来どんな子供になるのだろう、と思いを馳せた。


 俺と同じく剣士になるだろうか。

 それか、母に似て治癒術が得意になるかな。

 迷宮探索者ダンジョン・シーカーになりたいって言いだしたら、危ないからって反対したくなるだろうなぁ。……俺の親父も、そんな気持ちだったんだろうか。


「まぁ、何になったっていい。元気で、笑っててくれりゃあそれで」


 何事もない午後の一日。

 奇跡みたいに穏やかで優しい一時ひととき


 父親である男性は、こんな日がずっと続けばいいなと心からそう思った。

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