闇路
ゆうとと
闇路
青年、
しかしその直後、昇は不意に思いとどまった。そうは言っても、一寸先は闇だ。この状況では一寸先も闇、とでも言うべきなのかもしれないが、ともかく自分はこの闇についてまだ何も知らない。ともすれば、近くに人がいるかもしれない。闇に心を委ねるのは、それがありえないことを確かめてからでも遅くはないだろう。そんなことを考えながら、昇は正面に向かって一歩を踏み出した。普段と変わらぬ歩幅、およそ二十三寸。一寸先の状況も分からぬ中で、彼らしからぬ思い切りの良い一歩だ。さらにそれだけでは飽き足らず、彼は二歩、三歩と歩みを進めてゆく。その度に、昇の中の高揚感はみるみる増していった。闇に身を任せるのを先延ばしにしたおかげで、歩みを進めるごとにその瞬間が少しずつ近づいてくる感覚を得たのだ。どこまで進めば、今まで抱えてきたこの重い荷物を放り出せるのだろう。いや、どこまで進んだところで放り出してやろうか。もう一歩、いや、もう一歩……彼は、歩き始める前よりもずいぶん口角が上がっていることに自分では気付かない。鼻先に人参をぶら下げられた馬のように、目の前の幸福に迫りながら、同時に自分でそれを遠ざけながら、昇はどんどん前進してゆく。さらにしばらく歩き続けて、いよいよその行為のやめ時が分からなくなってきたので、昇はとうとう足を止めた。ここまで誰にも会わなかったのだから、きっとこの闇には自分一人しかいないのだと思い、ついに自身に張りついていたものを一斉に闇の中に放った。心と身体がやたらと軽い。新しくなったこの身で、まず初めに何をしようか。歌ってやろうか。踊ってやろうか。それともとびきり大きな声で叫んでみせようか。
「やめときな」
「うわあああああッッ!!」
「……あーあ」
突然後ろから声をかけられ、昇は驚いて叫びながら、今しがた闇の中に放り出したものを慌てて拾い上げて身につけた。いつも通りの大人しい彼に戻ってから、声のした方へ振り返ると、自分より幾分か背の高い青年のような姿をしたものが昇の目に映った。青年ではなく、青年のような姿をしたもの。昇は咄嗟に、そして直感的にそう知覚した。音もなく近づいてきたことや、図ったかのようにぴったりと自分の邪魔をしたことから、どうにもただの人間のようには感じられなかったのである。声の主は呆れたように溜め息をつきながら、右手で自分の頭を軽く押さえた。
「そんなに驚くこたあねえだろ。おかげで……」
不自然にも、彼はそこで言葉を止めた。そして昇の方を向いたが、彼は昇のことを見てはいないようだ。昇はその微妙な視線の不一致に気付かないまま、しかし目の前の相手が言葉を止めたことには底知れぬ違和感を抱きながら、恐る恐る続く言葉を促した。
「……おかげで?」
「自己紹介はお預けだ」
青年は呟くようにそう言うと同時に大きく跳び上がり、昇を跳び越えて彼の背後へ移った。それにつられるように昇が顔を後ろに向け、そこで彼は初めて己の窮地に気が付いた。無数の不気味なものたちが、自分の方に近づいてきている。あるものは幽霊のように輪郭がうっすらとしているし、あるものは妖怪のようにおぞましい形をしていた。いずれにも共通しているのは、人間とは到底思えない姿をしていることと、明らかに意思を持って昇の方に近づいていることだ。足が竦む。身の毛がよだつ。背筋が凍る。血の気が引く。昇は先刻までの自分の行いをちょっとした冒険のように思っていたが、そんな考えは一瞬間で跡形もなく消し飛んだ。この闇の中には、たかが人間が本能を曝け出した程度では何にもならないような、常軌を逸したものがいくらでもいるのだ。昇はどうにか唾を飲み込み、さらに身体を強張らせた。
「そうだな、まあ俺のことはカイとでも呼んでくれ」
「え、まさか、君……!」
「じゃあ、そこ動かずに待ってろよ!」
カイと名乗った青年は、目の前の魑魅魍魎の列に単身飛び込んでいった。武器らしいものを持っている様子もない。ただ、固く握った拳だけが闇の中に輝くようにはっきりと見えた。そして、カイは近くにいた幽霊を思い切り殴りつけた。身体が透けている幽霊を相手にしているにもかかわらず、振るった拳は当然のように当たり、大きく鈍い音を立てる。殴られた幽霊は吹っ飛ばされて百鬼夜行の列から外れ、遠い闇の中へと消えた。
「え……!?」
昇は目の前の信じがたい光景を見ながら呆然としていた。静かな夜空に派手な花火を打ち上げるように、カイは鈍い打撃音を辺りに響かせながら怪物たちを次々に殴り飛ばし、闇の静寂も化け物の行列も破壊してゆく。視界を埋め尽くさんばかりに集まっていた大量の物怪たちは、昇が瞬きをする度に数が減り、やがて彼らの集会はたった一人の手によって強制的に解散させられた。騒ぎが収まり、カイが気だるげに伸びをしながら歩いて戻ってきても、昇は目の前で起こったことを整理できずにいた。
「おーい、もう終わったぜ」
「……」
「大丈夫か?」
カイは昇の目の前で軽く手を振ってみせるが、昇は相変わらず固まったままだ。カイは放心状態の昇をどうしたものかと腕を組んで考え、一つの結論に至った。
「ま、しばらくこのままでもいいか」
カイはそう言って、その場で昇が落ち着くのを待った。しばらく経ってもう一度伸びをして、屈伸して、欠伸をして、辺りを歩き回って、それにも飽きて、もう寝ちまうかと呟いて仰向けに寝転んだ時、ようやく昇は落ち着いた。
「はっ……!」
「はっ、じゃねえよ。随分待たせやがって……」
「ご、ごめん」
昇はカイの隣に寄って座り、彼に目線の高さを近づけた。カイはそれを見て身体を起こすのをやめ、寝転んだまま話を続けた。
「それで……さっきも言ったが、俺はカイ。死神をやってる」
「死神……?」
思いがけない単語が耳に飛び込み、昇は咄嗟に聞き返す。それはカイにとっては予想通りの反応だったらしく、彼は間を置かずに答えた。
「ああ。お前が思ってるのとはちょっと違うかもしれねえけどな。俺は……まあ、簡単に言えば案内人だ。ここに迷い込んだ奴にはそれぞれ死神がつくんだよ」
「死神なのに、鎌は使わないんだね」
昇の返事を聞いて、カイは少し目を見開いた。今度は予想外の反応だったようだ。カイは身体を起こしながら、昇の方を向いた。
「……大抵、名前の次にはここがどこだか聞かれるんだがな」
「ああ、えっと……間が悪かったらごめん」
「んなこと気にするなよ。まあ鎌についてはまた気が向いたら話してやる」
カイはそう言って、自分たちが今いる場所についての説明を始めた。死神が案内役を務めていることから察しがつく通り、ここは生者のいない世界。それも、生と死の境目だという。昇はそれを聞いて、自分がここにいる理由について考えた。しかし、思い当たることが何もない。彼はそこで、自分が今朝目を覚ましてから先ほど闇の中で目を開けるまでの記憶を失っていることに初めて気がついた。朝、けたたましく鳴る目覚まし時計の音と、それが五分おきに繰り返し鳴るように設定した己に対して、怒りとまでは言えぬ火種のようなものを心に抱えつつ身体を起こしてから、静謐な闇の中で何にも妨げられることなくひとりでに目を開けるまでの間のことを何一つとして覚えていないのである。
「僕……どうしてここにいるのか分からない」
「そりゃそうだ。それを思い出すためにここにいるんだからよ」
「それは……自分の死因を探る、ってこと?」
察しが良いな、とカイは指を鳴らす。いつもなら何とも思わないような音が、この闇の中ではよく響く。中指が掌を叩く音が、昇にはやけに小気味よく聞こえた。
「生と死の境目から脱するためには、自分がどっちかだという証拠があれば良い。それには死因……いや、ここに来た経緯を思い出すのが手っ取り早い」
「それは、どうして?」
「それさえ思い出せば、生き延びるかこのまま死ぬかってことも判断できる。いずれにしてもここからおさらばできるってわけさ」
カイはそう言いながら、懐から何かを取り出した。常夜灯のようにぼんやりと光っていて、闇の中でもその形がよく見える。元は円形だったように見えるが、半分に欠けてしまっていた。
「聞かれる前に答えてやる、こいつはお前の魂の欠片だ。倉井昇……文字通り、お前は半分死んでいる」
「半分……」
カイの説明を聞いて、昇は闇の中に迷い込んだ時から抱いていた奇妙な感覚に対して合点がいった。僕は半分死んでいる。生きながらにして死んでいる。だから、浮いているような感覚に付きまとわれているのだ。
「これでも残ってる方だぜ、初めから粉々の奴もいるからな。ともかく、もう半分の魂の欠片を集めれば記憶も戻る」
「……何だか、都合が良い話だね」
「考えてもみろ、ここに来る奴ら一人一人に丁寧に対応してたら俺らの方が死んじまうぜ。簡単な方がお前にとっても良いんだから、余計なことは考えるな」
「まあ、そうだけど……」
カイにそう言われ、昇はひとまず細かいことを気にしがちな性分だけは闇の中に捨て去ることにした。だから考えろ、考えるなと同時に言われたことについても考えないことにした。
カイの話は昇にとっては何もかも信じがたいものだったが、一度それを信じてみればこの闇の中での足掻き方がわかることもまた事実だった。もう半分の魂の欠片を探し、記憶を取り戻す。自分の姿さえろくに見えぬ中で、昇は自分の目的だけはっきりと捉えた。瞑想している時のような、不明瞭と明瞭の同居。昇にはそれがどうにも気持ち悪く感じたが、この感覚を振り払う術を彼は持ち合わせていない。
「それで、その魂の欠片の場所に当てはあるの?」
「これだけ欠片が残ってりゃあ、近づけば反応するだろうが……まずは話ができる奴に聞き込みでもして地道に探すしかねえな」
「そうか……」
「それと、時間は限られてるから気をつけろよ」
不意にカイが放った言葉を耳にした昇は、大きく息を吸って彼の目を見た。時間の概念さえなくても不思議ではないほど静寂な闇の中に、制限時間などという到底似つかわしくないものがあることを昇は知ってしまった。人間は往々にして、得た知に対して思考する。見える範囲が広くなるほど、多くを考えることを強いられるのだ。時間の猶予はどれくらいあるのか、正確に計られているのか、制限時間を過ぎたらどうなるのか、そもそもなぜそんなものがあるのか、動揺、疑問、恐怖、焦燥、苛立ち。濁流のような勢いで、思考や感情が昇の中を駆け巡る。
「そ、それって……」
「さっき見ただろ、あれも元々は人間だ。いつまでも魂の欠片が見つからず、諦めて死を受け入れもせずにいるとあんな風になっちまう」
カイは淡々とそう言った。その口ぶりから、自分が思っているよりは猶予がありそうだと昇は一安心した。しかし、この果てしなく続く闇の中から欠片を探さなければいけないのだから、到底油断はできない。昇は、それをよく理解していた。
「それと、さっきの奴らがお前を狙ったのは単に大声を出したからじゃなくて、お前がここに来たばっかだからだ。今のお前は生きてねえが、それでも生者に近くはある。気をつけろよ」
「……わかった」
昇は深く頷き、腰を上げて歩き出した。ようやく目が慣れたのか、さっきよりも少し先まで見えるようになっていた。この闇に身体が馴染むのは、昇にとって怖いことではあったが、探索においては好都合だ。初めより少しだけ大きな歩幅でしばらく進み、昇は自分と同じ人型をしたものの姿を見た。
「カイ、話しかけても大丈夫?」
「ああ、問題ねえはずだ」
カイがそう言った途端、昇は彼から魂の欠片を奪うようにして手に取り、駆け足で相手のもとに近づいた。自分と同じ、生者に近い存在が無事でいるのなら、その周囲にさっき襲いかかってきたような者たちはいないと昇は考えたのだ。脅威がないとわかっているところまで恐る恐る歩く必要はない。昇は、目の前の男に声をかけた。
「少し、いいですか?」
「ああ」
短く返事をする男に、昇は魂の欠片を見せながら問う。
「これに合いそうな魂の欠片を見ませんでしたか?」
「……いや、見てないな」
男はまたしても簡潔に答えた。彼の態度はぶっきらぼうなものではなく、ただ自分の時間を無駄にしたくはないという理由で手短なやり取りを心がけているように見えた。ここにいる生者に近い者たちは、みんな彼と同じようなやり取りをしているのかもしれない。昇もまた、彼に礼だけ伝えて速やかにその場を離れようとした。
「ありがとうございます、他の方にも聞いてみます」
「……ああ。さっき、向こうで話ができる少年に会った。次は彼に聞いてみると良い」
そう言って、男は自身の後ろに向かって指をさした。
「お互い、戻れるといいな」
戻ると聞いて、昇は何も言えなかった。生を望む一方で、この闇が心地良いと思っている自分も確かに彼の中にはあった。昇の様子を見て、男は何も言わずに去っていった。
その後、昇は男が指していた方向に進み、やがて少年のような姿をしたものに出会った。
「あの……」
「どうかした?」
「これに合いそうな魂の欠片を探していて……」
少年は昇が差し出した魂の欠片をじっと見て、顎に手を当てて考え込むような姿勢を取った。数瞬の後、彼は首を横に振って答えた。
「見たことないな……」
「そうか……」
「それだけ大きければ、見つけたらすぐ分かりそうなものなんだけどね。誰かが間違えて持っているのかも」
「わかった、ありがとう」
昇が礼を言うと、少年は昇の目を見て問いかけた。
「魂の欠片を探してるってことは、君は生き延びたいの?」
「多分……そうだと思う」
少年の問いに、昇は明確に答えることができなかった。この闇から抜け出したいと思いながらも、いざそれを口にする時になって、ここで自分の答えをはっきりと出してしまって良いのだろうかという一抹の不安が脳裏をよぎったのだ。
「そっか。それじゃあ僕とは違うね」
「君は……そうなのか」
「うん。僕は、向こうに戻りたくないから」
少年はそう言うと、不意に踵を返して去っていった。
少年と別れ、昇は再び歩き出した。覚悟していたとはいえ、ひどく地道な作業だ。気晴らしにカイとも話したが、結局話題はほとんど魂の欠片に関することばかりになってしまった。闇にもすっかり慣れ、昇は大声で叫んでみたり、歌ってみたりして、好き勝手に振る舞ってやろうという気持ちをとうに失っていた。
「見つけた」
不意に後ろから声がして、昇は振り返った。カイの声ではないが、昇はその声に聞き覚えがあった。彼の目は自分が思い描いていた通りの姿を捉え、大きく開いた。
「光……?」
「探したよ、昇」
「何だ、お前の知り合いか?」
「光は……僕の彼女だ」
「まさか……」
「間違いねえ、あれはお前の欠片だ」
「何で、光が……?」
光は何も言わず、昇に欠片を手渡した。彼が欠片を組み合わせて元の形に戻した瞬間、頭の中に映像が流れ込む。建物の中で轟音が響き、高く炎が上がっている。視界が揺れているのが、衝撃によるものなのか、意識が遠のいているからなのか、あるいは陽炎のせいなのか、わからない。そこで、昇は光を守るように上に覆い被さって、彼女の手を強く握っていた。
「これは……!」
「思い出した? 私たちが、ここに来た理由……」
「僕たちは……爆発に巻き込まれたのか」
昇の中で欠けていた記憶が蘇る。自分たちを突如襲った理不尽な痛み。一瞬にして跡形もなく破壊された幸せな日々。一度蘇ったそれは、脳裏に強く焼きついた。
「そう……それで、私たちは突然こんなところに飛ばされた。逃げることも、抗うこともできずにね」
「でも、魂の欠片が集まったからもう戻れるよ」
昇がそう言うと、光は無言で首を横に振った。それは、彼女が昇とは違う考えを持っていることを意味していた。
「……私は、戻りたくない」
「それは、どうして?」
昇の問いかけに、光は微かに声を震わせながら答えた。
「……怖い。何もわからないのが怖いの。いつまで生きられるかもわからない、生き延びた後に私たちが無事なのかどうかもわからない。それに……今度は私たちのどちらかだけが死んでしまうかもしれない」
「光……」
彼女の言う通り、生とは実に不安定で、不確かなものだ。また不慮の事故で離れ離れになることを恐れながら生きるくらいならば、このまま二人で死の闇に沈んでしまいたい。そこに何もなかったとしても、安息だけは確かにある。それを光は望んでいるのだ。
「……たまにあるんだよな、こういうこと」
昇の隣でカイが呟く。いつの間にか、彼の片手には大きな鎌が握られていた。昇はそれを見て驚き、慌てて鎌を握るカイの手を押さえた。
「ちょっと待って!」
「まだ使わねえよ。お前があいつの望みを受け入れるならまとめて送ってやるってだけだ」
「それは……できない」
昇は俯きながら、光の望みを拒んだ。ともに死を迎えるのが光の望みならば、それを受け入れることも昇にとって苦ではなかった。事実、彼は自身の生に対してほとんど執着していなかったのである。しかしそれとは別に、彼は譲れない望みを心の内に秘めていた。
「……昇は、命に執着するような人じゃない。でも……そう言うと思った」
「じゃあ、それぞれ別の道を歩むのか?」
カイが問いかけると、昇と光はほとんど同時に首を横に振った。だろうな、とカイは呟きながら、鎌を振るって昇の首元まで迫っていた別の鎌を弾いた。キン、と鋭く冷たい音が辺りに響く。
「うわっ!?」
「ったく……随分仕事熱心なんだな、お前は」
カイが声をかけた先には、女性のような姿をしたものがいた。大鎌を持つカイとは違い、草刈り鎌と同じくらいの大きさの鎌を二本持っている。見たところカイと同年代のようだが、実際の年齢はわからない。彼女は一度構えを解き、カイの言葉に答えた。
「もちろんよ。光は必死になってその子の欠片まで探したんだから、私も手を抜くわけにはいかないわ」
「……昇、悪いが俺にあの熱意は期待しないでくれよ」
昇は状況を呑み込めず困惑したが、ひとまずカイの言葉に頷いた。昇は目の前にいる相手が自分を狙う死神だと察しながらも、不思議と恐怖で固まってはいなかった。
「説明は後だ、一旦肩に掴まれ!」
「逃がさないわ!」
カイは昇を担ぐようにして駆け出し、その場を離れる。どちらの死神も視界がはっきりしているらしく、途中で何かにぶつかることもなく闇の中を移動していた。昇は強風を正面から受け、声を出すこともできないまま光たちが見えなくなるほど遠くまで連れられた。
「さて、ここまで来れば説明する時間ぐらいはあるだろ」
「さっきのは……カイと同じ、死神?」
昇が改めて問うと、カイは頷いて答えた。
「ああ。あの人間……光だったか、そいつの死神だろうな。お前らが別々の道を歩むことを拒んだ時点で対立が決定的なものになったから、襲ってきたんだ」
「それじゃあ、僕はどうすれば?」
「まあ焦るなよ、お前は気負わず構えてればいい」
カイは昇の肩を軽く叩きながらそう言って、説明を続けた。生と死の境目で意見の対立が起こった時には、両者についている死神同士が戦って決着をつける。死神に実力差はなく、互いの人間の意志の強さが勝負を大きく左右する。そして、殺し合いではなく自分の死神の鎌の刃が相手の人間に触れた方の勝ちだという。昇はそれを聞いて青ざめた。
「それって……負けたら死ぬってこと!?」
「普通はその場で意識が戻るのを待って解散するんだが、今回は二人とも魂の欠片を揃えてる。そしてあいつが死を望んでいるなら、俺たちが負ける場合は事実上そうなるだろうな」
カイの正直な答えを受け、昇は固唾を呑んだ。それは死に対する恐怖というよりは、鎌を受けることに対する恐れが理由だった。カイはそれを察し、気楽な様子で笑いながら昇を励ました。
「心配すんなって。痛みはねえし、何より勝つのは俺たちだ」
「それはそれで、嫌だけど……」
「……そうだな。ま、あれこれと考えるのは勝ってからだ。まずは仕切り直しといこうぜ!」
カイはそう言って、有無を言わせず昇を担いで逃げてきた方向に走り出した。間もなくして、彼らは再び光たちと対峙した。昇を下ろすカイに、死神は声をかける。
「もう逃げるのはやめたの?」
「初めから逃げちゃいねえさ、説明のために席を外してただけだ」
「……そう。それじゃあ最後に名乗っておくわ。私はキョウ。光の案内を務める死神よ」
光の傍についている死神はカイの言葉を冷たくあしらい、瞳に静かな敵意をたたえながら名乗った。光は一歩前に出て、昇に問いかける。
「昇……昇はどうして生き延びたいの?」
「それは……」
言いかけたところで、昇は言葉に詰まった。事実、昇の望みは彼の胸中に存在こそしたが、彼はそれを言葉として形にできてはいなかった。望みが叶った時のことを想像した光景が点々とあるばかりで、それらを結びつけて確固たる形に落とし込めていなかったのだ。
「言ってくれなきゃ、分かんないよ……!」
昇が闇の中で何とか捉えた光の目は、微かに潤んでいた。彼女も、まだ完全には覚悟ができていないのだろう。何も言えない昇を庇うように前に出ながら、カイが声を上げた。
「……悪いが、ここは先に決着をつけようぜ。全てが決まってから、気が済むまで聞けばいい」
光はゆっくりと頷き、キョウの後ろに退がった。死神たちは数秒睨み合った後、鎌を握り直して同時に構え、少しずつ距離を詰めてゆく。初めは死神たちの力の源である人間が思いを強めることに専念できるように、相手の死神を牽制するのが重要だ。死神たちは、それを心得ていた。
昇はカイとキョウが戦っている間に、自分が抱えている望みについて必死に考えを巡らせた。彼の頭の中に浮かんでいる光景は、あまりにも一貫性に欠けている。
気だるげな朝食。静かな雨。穏やかな波。激しい口論。涙に沈む夜。優しい歌声。虚ろな休日。温かい手。
共通点どころか、掴みどころさえない。ただ、生の世界でなければこの望みを果たせないという確信だけが、ぽつりと佇むようにそこにある。自分は、一体何を望んでいるのか。死神たちの動きに目を配りながら、昇はその問いに向き合う。
一方、光もまた胸中の暗雲を払おうと必死だった。自分が勝てば、昇を殺すことになる。それは、ともすれば昇が感じている重圧よりも遥かに大きいのかもしれない。葛藤を続けながらも、彼女はキョウに望みを託した。
カイは両手で握った大鎌を振るい、キョウに斬りかかる。キョウが二本の鎌を重ねるように振るって攻撃を弾くと、大鎌は地面にぶつかって鈍い音を立てた。キョウの両手に痺れるような感覚が走り、地面は大きく割れていた。
「なんて威力……!」
「ははっ、結構いい感じじゃねえか!」
カイは鎌を引っ張り上げ、一度退いた。キョウはカイにぴったりと張りつくように、彼が退いた分の間合いを詰めながら反撃する。二本の鎌が舞い、幾度となくカイの残像を斬る。カイは後ろに跳んで大きく下がり、大鎌を横一文字に振るった。攻撃に専念していたキョウは回避を諦め、再び両手の鎌で攻撃を弾き、微かに軌道を逸らして直撃を避けた。衝撃でキョウの右手から鎌が滑り落ちる。
「く……!」
キョウは咄嗟に落ちた鎌を昇に向かって蹴飛ばした。カイは追撃をやめ、昇のもとに駆けつけて手を伸ばし、手の平で鎌の刃を受けた。
「カイ!」
「気にするな、そこから離れて集中しろ!」
カイの言う通りに昇は走ってその場を離れた。カイに攻撃を当てたキョウは鎌を拾い、昇を狙ってさらに距離を詰める。カイはどうにか昇を庇おうとするが、間合いを詰められたことで手数の差が不利に働き、少しずつ押され始めた。一寸、また一寸とキョウの鎌が昇に迫る。逆境の中で昇は突如退がるのをやめ、その場に立ち止まった。
「昇……?」
「カイ、ありがとう。もう……逃げないよ」
「逃げないっつったってお前……!」
戦えるわけでもねえのに、そう言う寸前にカイは口を噤んだ。キョウは何も言わず、昇めがけて駆け出す。鎌の刃が昇の胴に吸い寄せられるように迫る。昇は左右から襲いかかる刃を前にして、なおも動かなかった。直後、彼は一切姿勢を変えないまま大きく後ろに引き下がった。その不可解な挙動に、キョウは驚いて目を見開いた。
「な……!?」
見れば、昇の背中をカイが掴んで引いていた。キョウの視線が昇に集まった一瞬の隙に、彼らは退避と反撃の備えを済ませたのだ。
「カイ、僕が見ている方を狙ってくれ!」
昇が叫ぶと、カイは握っていた鎌を両手で掴んで大きく上に放り投げる。昇はそれと同時に手を組み、カイはそれに足をかけて跳び上がった。そして、カイは昇の視線の先めがけて鎌を蹴飛ばした。回転しながら飛ぶ鎌を追いかけて、キョウは光のもとへ走る。追いつかないと悟り、鎌を投げて大鎌に当てたが軌道を逸らしきれず、煌めく刃が光の頬を掠めた。
「あ……」
「光……!」
光は眠るようにその場に倒れ込んだ。キョウはそれを見て、黙って鎌を懐にしまい込んで姿を消した。彼女も、決着がついたと認めたようだ。
「……終わった、のか」
「……」
昇は光のそばに歩み寄った。カイが言うには、気を失っているような状態らしい。
「……終わってねえよ、大事なのはこっからだ」
「え?」
昇が振り返ると同時に、カイは拾い上げた自分の大鎌を昇の手に握らせた。柄を通して、不思議な熱が伝わってくる。手元に走る脈動のような感覚が、鎌から伝わるものなのか、自分のものなのか、はっきりとわからない。
「これは……?」
「お前、こいつと一緒に生の世界に戻るんだろ?」
カイは、いつになく真剣な表情をしている。彼は昇の手元でぎらりと輝く鎌のように、鋭い眼差しを昇に向けていた。
「だったら、お前が自分の手で光の魂を刈り取って連れて行け」
「……!」
「……光は、生を望むお前から生を奪おうとしていた。人間の世界だったら、間違いなく大罪だ。だが……お前が今やろうとしていることも、同じだ」
カイの言葉を聞いて、昇は息を呑んで背筋を伸ばした。死を望むものから死を奪う。方向が違うだけで、昇は光と同じ類の利己心を持っているのだ。
「お前に……生を押し付ける覚悟はあるか?」
自らの望みの正体に気付いた昇は、すぐに返事ができなかった。カイはそんな彼を通して何か別のものを見るように、昇を見つめていた。
「覚悟ができたら鎌を振るえ。やっぱり光の考えに従いたいと思ったら自分の首に鎌を当てろ。それもまた良い。どっちも選べねえなら……鎌をその場に置け」
「……今の光に、声は聞こえる?」
「さあな、少なくとも返事はできねえぜ」
昇はそれを聞いて、腰を下ろして光の顔をじっと見た。そして、彼女に向かって語りかけた。
「……聞こえないかもしれないけれど、先に僕の望みを話しておくよ」
「……」
カイの言う通り、光の返事はない。昇は目を閉じて、大きく息を吸った。鎌を握る力が、少し強くなる。昇はゆっくりと目を開け、自らの望みを口にした。
「僕は君と、変わっていきたい」
死の世界には、安息がある。二人だけの時間が、ずっと続いてゆく。それは、とても甘美で魅力的だ。だが、そこには変化がない。闇に包まれた世界では、色鮮やかな落合光と接することはできないのだ。
「望みを叶えた後のことを考えた時、僕の中に浮かんできた光景は、バラバラだった。自分が何を望んでいるのか、全くわからなかった」
「……」
「でも……やっとわかったよ。僕は、全部を望んでいたんだ」
「……」
光は、まだ目覚めない。昇は自分の声以外何も聞こえないことに虚しさを覚えながらも、話を続ける。
「気だるげな朝食。静かな雨。穏やかな波。激しい口論。涙に沈む夜。優しい歌声。虚ろな休日。温かい手……全部、君と一緒に味わいたい。君と、変わっていきたい。そんなわがままが……僕の望みの正体だ」
昇は立ち上がり、鎌を振り上げた。光は眉ひとつ動かすことなく、横たわったままだ。その様子は、何かを待っているようにも見えた。
「生の世界は、不確かだ。でも、それでも……僕は、そんな世界を君と一緒に生きたい」
力を込め、昇は鎌を振り下ろす。刃は光の身体に触れるとすぐに動きが止まり、光の身体の中から白く輝くものが浮かび上がる。きっと、これが魂なのだろう。昇は鎌を置いてそれを手で受け止め、こぼれ落ちないように胸に寄せて抱えた。それを見て、カイが歩み寄りながら鎌を拾い上げた。
「カイ……」
「よくやった。今度こそ、これで終わりだ」
カイがそう言うと同時に、闇の中に一本の光る道が現れた。それは、視界の果てまでまっすぐに伸びている。
「この道を辿れば戻れる。ここを出るまで、絶対に振り返るなよ……なんてな」
「……カイ、ありがとう」
「気にするなよ、これが仕事だ。またすぐこっちには来てくれるなよ」
カイは笑いながら、昇に向かって手を振った。昇はひどく軽くて、何よりも重いものを抱えながら、光る道を辿って歩き始めた。
光の魂を抱えながら生の世界へ走ってゆく昇を見送った後、カイは身体を地面に投げ出すようにして倒れ込み、わざとらしく大きな声を出した。
「あーあ、また新人を逃しちまった」
「……そんなに残念?」
キョウは再び姿を現してカイの隣に座り、鎌の手入れをしながら彼に声をかけた。
「そりゃそうだ、歓迎会とでも称して久々にパーッとやりたかったのによ」
「彼は特にそういうのが好きではなさそうだけど」
「わかってねえなあ、世の中には口実ってもんがあんだよ。生の世界でも死の世界でも、ここでもな」
光の道が薄れ、消えてゆくのを見て、カイは昇がここを去ったことを察した。そして、ゆっくりと大きく息をついた。
カイは、今度はキョウだけに聞こえるように小さな声で呟いた。
「……眩しいねえ」
「……彼が?」
「ああ。眩しくて、俺が吸血鬼だったら灰にでもなっちまいそうだ」
カイが笑みを浮かべながらそう言ったのを聞いて、キョウは呆れたように溜め息をついて立ち上がった。
「そろそろ行くわよ」
「そう焦るなよ、労働時間が増えるだけなんだから」
カイはそう言って、ゆっくりと身体を起こした。
「……あいつらは、生を選んでも死を選んでも幸せになれただろうな」
「……そうかもしれないわね」
キョウが再び腰を下ろしたのを見て、カイは少し昔の話をしたいと思った。光り輝く道を見たことで、カイにとってはすっかり日常となっていた闇が一瞬だけ非日常に変わって彼の心の中に入り込み、そこに秘めていたものを引きずり出したのだ。
「俺は……死神になる前、昇と全く同じ状況に置かれたんだ。生と死の境目を彷徨った末に、死を選ぼうとした彼女の反対を押し切って、二人で生きようとした」
「……そう」
キョウはカイの方を向かずに話を聞くことにした。自分から踏み込むことはせず、彼の言葉を待つ。
「……死神に鎌を渡された時、ふと自分の行いが幼く、醜く見えちまった」
「……」
「さっきも似たようなことを言ったが、死を望んでる奴に生を与えることは、そいつから死を取り上げるのと同じだ。殺人と逆方向なだけで、本質はそれと同じなんじゃねえか……そう思っちまったんだ」
カイは俯き、表情を隠して話を続けた。
「……俺は、選べなかった。死を奪う勇気も、生を捨てる勇気もなかった。それで、俺は鎌を置いた。死神になるとも知らずにな」
「……」
キョウは、黙ってカイの話を聞いた。彼女も何かを隠すように俯いて、カイの声だけを聞いていた。
「だから、昇が眩しいんだ。自分で答えを出して、それを正解にするために力を尽くす……そんな強さを持った、あの人間が」
「……」
「……今考えてみれば、それが人間の本質ってやつなのかもしれねえな。それをなくした俺が死神になったのも、納得がいく」
「……その恋人とは、会えたの?」
キョウは既に答えを知りながら、カイに問いかけた。懐にしまった鎌が震えて、かたかたと音を立てる。
「いいや、生きてるのか死んでるのかも分からねえ。それに、もし会えたとしても……なんて言ったらいいかも分かんねえや」
「……」
カイは顔を上げ、らしくねえなと呟きながら、作ったような笑顔を見せた。
「これで終わりだ。付き合わせちまって悪かったな」
「……悪くないよ」
キョウは顔を上げて、カイを真っ直ぐ見ながらこぼすようにそう言った。
「……?」
「私は今、幸せだから……君は悪くないよ」
「……!」
カイはキョウの言葉を聞き、目を見開く。キョウは微笑みながら、カイの手を引いて立ち上がった。
「そろそろ行くわよ」
「……ああ、そうだな」
立ち上がった死神たちは鎌を置き、暗い道を歩いて闇の中に消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます