第10話 スピード・ボーイ・ランナウェイ

 ミツグは誰もいない校舎内を走っている。

 そしてその数メートル背後を悪霊獣がべっちゃべっちゃと汚い音を立てながら追いかけてくる。

 はじめは逃げやすい校庭で鬼ごっこを展開しようとミツグは思っていたのだが、逃げやすいというのは相手にとっても追いやすいのである。しかも向こうはジャンプして飛びかかって来るのでミツグは早々に校舎の中に逃げた。ある程度狭い方が図体のでかい悪霊獣の動きを封じやすそうだった。


 時間は、まだ三分しか経っていない。

 

 今のところ逃げていて分かってきたのは、相手は四足歩行で追い回してくる事。

 それから目は見えていないらしく、聴覚と嗅覚でこちらの位置を認識していることだった。曲がり角に出くわすたびに律儀に突進して壁にぶつかるのでそこで確証を得たといったところだ。どうやら顔に付いているメガホンみたいな形の物は目ではなく耳なのらしい。

 一階から二階へのぼり、廊下を走って渡り廊下へ。

 ゼンゼンマンのくれたチートアイテムの手袋のおかげで本来なら鍵のかかっている通路の扉も余裕で通る事が出来る。

 このまま上の階を目指せば屋上まですぐだが、約束の時間にはまだ早い。

 となると、いったん下へおりて渡り廊下を再び通ってスタート地点へぐるっと戻るルートを時間まで繰り返すのが得策なんだろうか。というか走っている最中にあれこれ考えてる余裕はない。

 背後でコボッと大きな音がした。

 何なのだろうと思い、ちらっと後方を見るとミツグは目を疑った。

 悪霊獣の後ろ足が巨大な車輪に変形したのである。

「何だそりゃ!!」

 悪霊獣が加速してミツグの背後に迫る。後方だけ車輪にしたところでそんなスピードが上がるのかという疑問がなくもないが、実際速くなっているのだから常識で考えても無駄なんだろう。

「やべっ」

 ギリギリのところで、下り階段の方へミツグは進行方向を曲げる。

 視覚のない悪霊獣はそのまま直進するので一時的に振り切れたかに見えたが、ミツグは階段を慌てておりようとしたせいで足を滑らせ、身体のバランスを大きく崩した。


 落ちる。


 というかここ、最初のゲームで転落死した場所ではないか。

 思い出した途端、ゼンゼンマンの馬鹿にしたような(というか馬鹿にしている)「だからキミは死んだんだよ」という声が聞こえたような気がした。

「ちくしょう」

 それが最期の言葉になるかと覚悟した途端、信じられない奇跡が起きた。

「だぁ!?」

 まるで身体が勝手に動いたかのようにミツグは受け身を取り、ダメージを最小限に押さえつけた。

 身体に痛みが走るが、致命傷にはなっていない。

「マジかよ……」

 だが、止まっている暇はない。落下音で悪霊獣に場所が瞬時にばれているに違いない。ミツグは即座に走り出す。

「うえっ!?」

 起き上がってから次の動作に移るまでの流れが妙にスムーズに動く事に驚く。

 もしやこれがゼンゼンマンの渡したチートアイテムの一つ、「アスリート並みのフィジカルを与える靴」の効果だろうか。

「アスリートの定義おかしすぎるだろ!」

 もはやここまで動きがいいとアスリートを通り越して超人である。


「どれだけ負けても最後の一回だけ勝てばいいんだよ。勝つべき戦いにさえ勝てればそれ以外はどうでもいいんだ」


 不意にゼンゼンマンの言葉が脳裏に浮かぶ。

 ものすごい癪に障るが、彼はこの作戦でミツグを死なせるつもりはないらしい。そのためのチートアイテムなのだろう。

 そもそもここまで来たら、ミツグにはゼンゼンマンの期待通りに動く以外の選択肢がない。すなわち走る。ただそれだけ。


 ……くそったれめ。




 一方その頃、屋上の床には巨大な魔法陣が描かれていた。

「でーきた」

 ゼンゼンマンは魔法陣の出来を見て満足げにうなずく。時計を見ると七分経っていた。

「おや、思ってたより早く終わったかー。いやーワタシって思ったより優秀だねえ」

 これなら十分も要らなかったかも、と笑いながらゼンゼンマンは服に付いた土埃をポンポンと払う。

「さて、あとは仕上げに備えて動きやすい恰好になっておくか」

 だぶだぶに下ぶくれの派手なピエロの衣装が脱ぎ捨てられ、次に二又に分かれた帽子、ピエロらしい丸い赤っ鼻、最後に白黒ツートンカラーの仮面が外される。

「これでよし。あ、武器もいるよね。忘れないように装備装備っと。なんかゲームの戦闘準備みたいだなー」

 誰もいないのにゼンゼンマンは一人でよく喋る。

「今夜は本当に明るい満月だなー。電灯がなくても作業できるのは大変ありがたい。これもワタシの日頃の行いがいいんだろうねえ」




 作戦開始から八分。いくらチートアイテムの力があっても、ほぼずっと全力疾走状態なのでミツグはかなりフラフラになっていた。

 悪霊獣の方も出現時ほどの体力はなく、もはや獲物であるミツグの魂に対する食欲と執着だけで動いている感じだったが、それでもミツグの方が限界に近いようだった。

 曲がり角になるたびにコースから逸れるのも聴覚と嗅覚がなれてきたのか、あまり振り切れなくなっている。数メートルの距離を保って逃げているはずが、今やちょっと手を伸ばせば届きそうなくらいにまで肉迫していた。

 このままでは間違いなくヤバい。捕まる=こちらの死である。

 何かいいアイデアは。ほんのちょっとだけでも奴から距離を離せる事が出来たら。

 全力で走っているので全身汗だくだった。せめて上着くらい脱ぎたいが、そんな暇は当然あるはずがなく、袖で汗を拭うのが限界だった。


 ん? あれ?


 首元の汗を拭うと、固い物に触れた。

 そういえば走る事に夢中で忘れていたが、ゼンゼンマンに魂の匂いを何十倍にも増幅させるという首輪を付けられていた。

 というかこれを着けてから追いかけ回されているのだから、外したら撒くことが出来るのでは?

 迷っている場合ではない。ミツグは手袋をした方の手で首輪に触れた。

 どんな鍵でも外す手袋である。思っていた通り首輪も例外ではなくあっさり外れた。

 そいつを確認するとミツグは首輪を悪霊獣の方に投げつける。

 悪霊獣の意識はすぐに首輪の方に向けられた。ミツグを放置して投げつけられた首輪を長い舌でベロベロと舐め始めた。まるで骨のおやつをしゃぶる犬である。

 こいつの知能が獣並みでよかった。息を整えながら胸をなで下ろすミツグ。

 ミツグにはさっぱり分からないガ、どうやら首輪にはすっかりミツグの魂の匂いが染みついており、その匂いが何十倍にもなっているのだから、悪霊獣はもうミツグ本体より首輪の方に夢中である。

 こうして危機を乗り越えたミツグだが、しばらくして己がとんでもないミスを犯した事に気がついた。

 ミツグの本来の役割は悪霊獣から逃げ切るのではなく、悪霊獣を適度に疲労させた上で屋上に誘導する事。

 そしてその悪霊獣は今やミツグの方には完全にスルーで首輪をベロベロしているし、これではどうやっても屋上に連れて行く事すら出来ない。

「やっちまった……」

 愚かなのは自分の方だった。

 ミツグはベロベロしている悪霊獣を呆然と見つめながら立ち尽くしていた。

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