第17話「私は魔法少女にはなりません」

 研也はコンパクトから手を放して言った。


「現実味がない話かどうかはおいといて、私には今の状態が十分身の丈に合っています。父であり、会社員であり......その役目で精一杯です」


 店員は驚きもせずにじっと研也を見ていた。最初から想像していた答えだったのかもしれない。


 だが、研也も折れる気はない。心の底では、魔法少女の存在も怪しく感じている。いくら動画を見せられても、やはり信用ができない。昨日のことだって、夢だったのだろう。それに話を合わせてくれるメルヘンな店員も居たものだ。

 そして、自分が今しなければならないのは、早く家に帰って子供たちに「ただいま」と言うことだ。父親として、二人に心配はかけていられない。


「わかりました」


 店員が頷いた。


「お客様の気持ちを尊重します。無理にお願いしているわけではないのです。ですが」


 店員はコンパクトを押し戻した。


「これは、お客様が持っていてくださいますか」

「え?」


 研也は戸惑ってコンパクトを見る。


「魔法少女にならなくても、これを持っていていただきたいのです。タダでお譲りします。これは、私個人としてのお願いです」


 店員の顔はどこか必死で、手にも力が籠っていた。


「そんな。私はこれが欲しいわけでもなくて」

「どうか、お願いします。一生開かなくても、これはお客様が持っていることに価値がある代物なのです」


 もはや意味が分からなかった。開かなくても変身はできるものなのだろうか。研也は訝しく思いながらコンパクトを受け取る。ここでいつまでも渋っていては、本当に帰るのが遅くなってしまう。


「......わかりました」

「ありがとうございます」


 鞄にコンパクトをしまう研也に、店員はホッとした表情でそう言った。


 *****


「本日はお忙しいところありがとうございました」


 店員に店の外まで見送られ、研也はその店を後にした。帰り道を急ぎながら、スマホを開くと、真琴からメッセージが何件か来ていた。夕食に関することだ。今日の夕食は肉じゃがらしい。研也の心が躍る。


 バス停にちょうどバスが停まっていた。彼はそれに乗り込む。

 スマホを鞄にしまうときに、鞄の中にあるピンク色と目が合った。


 魔法少女。


 この歳になって、若い頃には難なくできたことも難しいと感じるようになる場面が多くなってきたのは、気のせいだろうか。そういえば昨日変身した時、妙に体が軽かったような。立太が部屋に来るまでの間に素早くベッドに移動できたことは、今考えたら凄いことだ。運動神経は悪い方ではないと考えているが、体が最近思うように動かない。


 魔法少女になったら、そういった悩みも改善されるのか。


 それならば、たしかになりたい人が多いのも納得だ。若い体というのは魅力が詰まっている。だが、その魅力が我が子の愛おしさに勝てるものだろうか。魔法少女になった人生は、今のような平凡で、平穏な人生より面白いかもしれない。


 それでも、研也は満足していた。現状が一番良いのだ。


 このまま、魔法少女とは無縁に生きていく。コンパクトを見ることもないまま。


 周りの景色が、都会から住宅地に変わり始めた。そろそろ降りなければならない。

 娘が作る肉じゃがの甘みを想像して、研也は壁にある降車ボタンに手を伸ばした。


 *****


「はあ、はあ......!」


 暗い道を、少女は走っていた。二つ結びにしたミルクチョコレート色の髪が激しく揺れている。


「戦わないといけないのに......戦わないと......」


 その少女の顔には焦りの表情が浮かんでいた。もつれそうになる足を何とか前に進ませ、腕には大事そうにテディベアを抱えている。


 白いバルーン袖の、赤茶色のワンピースは、少女の動きを鈍らせる。


 そんな彼女の背中に、黒い霧の手が迫っていた。


 少女は悲鳴を上げて走る足を速める。そして、自分が今走っている場所を頭の中で思い描いた。


「此処、何処......? ガーデンだから分からないよ......」


 少女の上には赤黒い空が広がっている。周りには家々が建ち並んでいる。少女の知らない場所だった。


 少女はテディベアを抱きしめる。涙を浮かべて彼女は足を緩めた。振り返ろうとしたらしい。


「!」


 彼女の顔に黒い霧が飛んできた。鞭で殴られたような鋭い痛みと衝撃が彼女に襲い掛かる。少女はアスファルトの上に倒れた。


「うう」


 少女の目から大粒の涙が溢れてくる。


「僕、どうして魔法少女に......」


 黒い霧が中央に集まり、人の形を作る。それは少女に向かって歩み始めた。


 かつてない恐怖心に少女は絶望を感じた。


 *****


 研也はバスを降りた。ここから家までは10分ほどだ。スマホを開こうとすると、突然肌に触れる空気が重く湿ったものになった感覚を覚えた。


 驚いて顔を上げると、空の色に違和感があった。


 夕暮れにしては赤黒い色の空が広がっているのだ。そもそも、この時間帯に太陽が出ていることがおかしい。


「なんだ......?」


 周りを見回して、彼はさらに驚いた。いつの間にか景色が変わっているのだ。ここのバス停は何度も降りているバス停だが、周りの景色が書き換えられたように異なっている。いつも降りて正面に見える赤い家の屋根が、今日は黄緑だ。降りるバス停を間違えたのかと、バス停の標識を確認する。


卯之木岬うのきみさき......?」


 それは、隣町の名前だ。研也が乗っていたバス停は、神平かみだいら市の市営のバスで、隣町に行くには他のバスに乗り換える必要があった。今乗って来たバスを乗り間違えたとしても、降りる直前まではバス停の看板をきちんと確かめていたのだ。


「どういうことだ?」


 降りたバス停が違う。いや、バス停どころか、なんだか強い違和感がある。感じたこともないようなおどろおどろしい空気感。肌にねばつくような、気味の悪い感覚だ。


 とにかく、乗るバスを間違ったとしたらどうにか帰る方法を探らなくては。真琴も立太も本当に心配しているだろう。


 そう思ってスマホを開こうとしたその時だった。


 突然、後ろから強い衝撃を食らって研也は地面の上に転がった。何度か回転し、縁石にぶつかってその場に留まる。


「......あ」


 何が起こったのか分からなかったが、顔を上げて研也は弱弱しい声を漏らした。


 黒い霧。タコの足のようににょろにょろと空を動き回っている、奇妙な霧だ。研也はふとその光景を見て思い出した。


 先ほど、コンパクトを返すためにミラクルに寄った時に、店員に見せてもらった動画の中にあった光景と一致しているのである。赤黒い空を背景にした、黒い霧。自我を持ったようなその霧が襲い掛かるのは、車や人。そして、それが魔法少女によって倒されると、バスのロータリーが、商店街に変わってしまったのだ。


 見知っていた風景が、違う景色に変わる。


 研也の頭の中で、自分の今の状況がそれに当たるのではないか、という考えがあぶり出しのようにじわじわと浮かび上がって来た。


 そして、それを見るまで信じないと考えていた自分は、なんて愚かなのだろうと思った。


 存在したのだ、何もかも。


 今転んだことで、背中や腹に感じる鈍い痛みが、この状況が夢ではないことを着々と彼の頭に分からせていく。


 赤黒い空も、霧状の化け物も存在した。

 ならば、もう認めないわけにはいかない。


 魔法少女の存在を。

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