第5話 【高校生の手当】

琴葉ことはさん、逃げないからそろそろ手を……」


 そう声を掛けられて、気づいたのか慌てて手を離し、顔をおおった。

 恥ずかしそうにしている様は、さっきまでの印象を一変させ、奥ゆかしさを持った少女の様相をしている。


 こっちが本当の琴葉さんでさっきまでのは譲れない何かあったのかな。


 暗がりの中で恥じらわれていると、何かいけない事をしている気がする。

 周りからみたら、さっきの大人と同じなのでは。


 それは勘弁して欲しい。


 そんな事は杞憂だったようで。

 

「あ、ごめんなさい。ずっと握ってしまって……」

「気にしてないから……嫌なわけでもないので……」


 というか女性に手を握られるのがこんなに恥ずかしいと思わなかった。

 心臓の音が聞こえててやばいな、手汗大丈夫か。


 そんな思いの中、歩いてもそれほど距離があるわけではないがこのまま黙って歩くのも気まずいので気になっていた事を口にした。


「あの、なんで俺と同じマンションに住んでるって知ってたの?」


 色々と聞きたい事はあるが、まずはこれだろう。

 学校が一緒と言ってもクラスが違い、面識めんしきも特にない相手の住所を知っているのは不思議でならない。

 何かやましい所を持って知られているとは思ってないが。


 ところが、琴葉ことはさんは不思議そうな顔をしながらも答えを返してくれた。


「覚えてませんか?以前、ゴミ置き場の上に鍵を落としてしまって拾ってくれた事を」

「あぁー……、ごめん、暗がりで誰か良く解らなかったんだ」

「あの時はありがとうございました。どうしようか途方とほうにくれてたんですよ」

「それなら良かった」

 

 本当に困っていたのか、人好きのする笑顔を向けられる。


 大それた事をしたわけではないのに凛とした姿勢をしきちんとお辞儀じぎをされ、恐縮きょうしゅくしてしまう。

 もちろんそう言われて嫌な気持ちにはならない。


 小さな幸せが舞い込んだように、胸に風が吹いたような気持ちにすらなった。

 それこそ丁寧にわざわざ言ってくれて、礼儀正しい人だと思う。

 

 琴葉さんもお礼が言えて、すっきりしたのか雰囲気を柔らかくしてくれた。

 余計な硬さが取れた頃、マンションに着くと。


「朝比奈さんの家は、どこですか?」

「いや、本当に大丈夫だから気にしないでいいよ」

「こちらが気にするんです。この前もお礼すら言わせてくれなかったんですから、せめて手当だけでもさせて下さい」

 

 そう言ってまっすぐこちらを見るひとみには、意志の強さを感じさせた。


 よく変わる表情だな。

 これだけ表情が変わるのに、どれも嫌味が無いのはまっすぐだからかな。

 そこに特別な感情を向けられた相手はさぞ幸せだろうに。


 勘違いしたくないから、ここで引いて欲しいんだけど。

 いや、勘違いしないけども。

 

 引いてくれなさそうだ。


 いくら考えても残念ながら、自分には彼女を翻意ほんいさせる言葉は見つからず、せめてもと時間を貰う事しか出来なかった。


「そこまで言うなら……、少し時間を空けて来て下さい、あそこです」

「あ、ごめんなさい。急に押しかけたら迷惑なのに……」

「迷惑というか、問題はそこではないけど……。それと救急セットも家にあるので大丈夫です」

「……それでは、後ほど伺いますね」 


 そう言って別れると自分も家へと向かって行った。

 家の中に入ると、溜息を一つ。

 はぁ。

 一人暮らしの男の家に、こんな夜更けに来るなんて間違っているだろうに。


 なんであそこまで意志が強いのか。

 何かあったらどうするんだと。

 何もしないけども。

 それでも。


 いっそ先に治療してしまうか。

 お礼もさせてくれないのかと責められそうな気がする。

 と愚痴を言ってても始まらない。


 来るならせめて少し片づけないと。


 人の足の踏み場も無いほど汚いわけではないが、それでも散らかりが無いわけではない。

 あれやこれやと急いで物をどかし寝室に放り込んでいく。


 ピンポーン

 どかしたものを寝室に放り込んでいるとチャイムが鳴った。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 愚痴っぽくなってしまっていたのを表情に出さないようにしながら招き入れた。

 琴葉さんは、そんな自分に構わず、さっそくといった感じで顔の様子を伺うようにのぞき込んでくる。


 仕方ないとは言え、やっぱり綺麗な顔を近づけすぎだから。


 琴葉さんの視線から逃げるように目を泳がせた。

 泳がせる途中で見えたその綺麗な瞳は吸い込まれそうに魅力的だった。

 

「やっぱりれてきてしまっていますね、氷嚢ひょうのう作って当てておきましょう」


 琴葉さんはそう言っているが、自分はそれどころじゃない。

 顔が近いせいでどうしてもよく見えてしまう。


 本当に綺麗きれいな顔だな、殴られなくて良かった。

 けどこの覗き込むような姿勢は非常によろしくない。

 どきどきして仕方ないんだけど。


 今触られたらきっと別の意味で熱を持ってしまうだろう。

 そんな自分の動揺どうようを知ってか知らずか、琴葉さんはテキパキと行動している。


「ここの物使ってしまいますけど、よろしいですよね?」


 あらかじめ用意してた事に気づいた琴葉さんに対し自分は頷く事しか出来なかった。

 せめて琴葉さんの手を煩わせる時間を短くしようと用意したのだから。


 いくら特別な感情がないからと言って、可愛らしい琴葉さんにお世話をされて緊張しないわけがない。

 クラスメイトに知られたら、明らかに拳の一発は覚悟しなければいけない。


 もちろん、見られる心配が無いので、起こりえない事とはいえ、それだけ羨望を集めるだろう。

 

 そんな葛藤をよそに琴葉さんは手際よく氷嚢ひょうのうを作り手渡してくる。


「腫れが引いたら端の切ってしまった所、消毒しておきましょう」


 自分は氷嚢の冷たさで鈍った顔で、頷いた。

 さっきまで熱を持った顔に気持ちよかった。

 それが決して殴られて腫れたからだけではない。

 いくら心配だからと言って、琴葉さんの距離感は自分をどきどきさせるのに十分な振る舞いだったのだから。


 そんな様子に気づく様子もなく琴葉さんは取り合えずの処置が出来て安心したのか少し落ち着いたようだ。


「ありがとう、そこのソファに座って、俺はこっちの椅子座るから」

「それでは失礼しますね」

「それにしても、災難だったね」

「凄く助かりました、本当に困ってしまって」

「変な人はどこにでもいるから、酔っ払いは特にね」

「私もちょっとだけお買い物に行こうと思って油断してしまったんだと思います」


 そう言って、困った顔で微笑み、話はお終いとばかりに消毒の用意をする。


みたらごめんなさい」


 氷嚢をどかしたのを確認し、消毒しようとしたのだろう。

 自然と逃げないように無事な方の顔に手を添えられてしまった。

 添えられた手の温かさが頬を伝い、触られている実感が増していく。


 噂になる程の美少女に手を添えられているというシチュエーションは、特別な感情を抱いていなくとも、平静では居られなかった。


 触られていたのは時間にしたら、数秒のことで決して長くは無いが自分の思考を止めるには十分だった。

 そして夢心地のような気持ちは、あっという間に現実に戻される。

 消毒という行為によって。


 沙月に触れられている部分は、しっとりと指の感触が気持ちよく熱を伝えてくる。

 反対にケガした部分にアルコール消毒され、僅かな傷みとスースーとした涼感を与えた。


 顔の左右で天国と地獄を味わうような奇妙な体験もすぐに終わり手が離れてく感覚は不思議な心地を与え若干の名残惜しさを覚えた。


「わざわざありがとう」

「いえ、やっぱり朝比奈あさひなさんは巻き込まれただけで私を助けてくださったので」


 本当に気にしなくていいんだけど。

 自分としてはあのまま何もしなくて、あとから何かあったと知る方が間違いなく嫌な気持ちになる。


 そうじゃなくても、放って置く後味の悪さに比べれば、なんて事はない。


 けれどもどうしても気になるようだ。

 それは琴葉さんからしたら仕方のないことなのだろう。

 

 ん~……ん?あれ、そういえば。


「なんで名前知ってるの?」

「以前、ボルダリングジムに行った時に見かけて、スタッフの方が教えて下さったんです。鍵を拾ってくれた人だというのはすぐに解ったので」

「俺の個人情報はいったい……」


 ジムスタッフ、誰だ。

 あんまり言って欲しくないんだけど。

 言いふらすなよ。

 

 それでも空気を変える手助けにはなるかと思い、少しだけわざとらしく項垂れる自分を見て、琴葉さんは柔らかく微笑んだ。


 仕方ないとばかりに肩をすくめ力が抜けたからか、腹の虫が鳴ってしまった。

 琴葉さんはそれに対し顔をかしげながら聞いてきた。


「お腹空いてるんですか?」

「ジム行った日は、帰ってきてプロテイン飲むんだけど、まだだから」

「え、それだけで足りるんですか?」

「ちゃんと食べたい所だけど、この時間から用意をするのはさすがに面倒めんどうだから」


 琴葉さんはあごに手を当てながら、考えている。


 何を考えているのだろうと気にはなるがそんな恰好も絵になっているなと場違いな感想を抱いた。


「そうですか……、良かったらお弁当を作りましょうか?」

「え?」


 思いがけない提案に間の抜けた顔をしてしまう。

 そんな表情がおかしかったのかクスクスと笑われてしまった。

 

 どうしてそうなったのだろう。

 相変わらず考えている事が分からない。

 会って数時間で分かるはずもないけども。

 それにしても可愛らしく笑う人だな。


「実はお料理は好きなんですけど、私、量を食べられなくて作りすぎてしまうんです。そこで食べて頂ける方がいるとこちらも助かりますし……、いかがですか?」

「それは、こっちとしてはありがたいし助かるけど、本当に良いの?」

「かまいませんよ、ジムにはどの位行ってるんですか?」

「週に三回~五回、休日は朝から登ってて大丈夫だから、平日だけお願い出来ると助かるけど……」


 思わず聞かれるままに答えてしまう。

 しまった、正直に言いすぎた。

 傍から見たらどれだけジムに行ってるんだと思われても仕方ない。

 昔からの習慣だから、特に気にしないで言ってしまった。


 そう思ったが口をついた言葉を引っ込めることもできず。


「わかりました、ではジムに行く日は教えて下さい」


 そして意外なほどすんなりと受け入れられてしまった。


 せっかく言いだしてくれたんだしな。

 断るのも失礼だし、日にちにしても受け入れられてしまい。

 断る理由がなくなってしまった。


 せめてありがたくお相伴に預かろう。


あつかましいとは思うけど、助かるよ」

「はい、こちらも助かりますので」


 連絡先はこちらです、とばかりに携帯を差し出してくるので連絡先を登録した。


 こんな事を気軽にしてくると勘違いしそうになるな、そんな訳はないんだろうけど。本当に都合が良いだけであって、ちょうど良かったんだろう。

 さっき怖い思いもさせてしまった事だし、これで安心してくれれば良いんだけど。

  

 琴葉さんの柔らかな雰囲気に心地よさを感じていると時間がそれなりに経っていた。


「こんな時間までごめん、送るよ」

「こちらこそ、玄関までで大丈夫ですよ。先ほども言った通り同じマンションですので」


 玄関でくるりとこちらを振り向くとそれに合わせて髪の毛がふわりと広がる。

 まるでなにかのワンシーンのようだった。


「それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみ」


 そうして自分は琴葉さんが今までここに居たのが改めて現実だったのだと軽く上げた手を見返していた。

 未だに余韻よいんから覚めない中、プロテインを飲んでいつもの日課をこなそうと動き始めるも、そんな夢見心地気分は就寝するまで続き、なかなか寝れない夜を過ごす事となった。

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