一章
第1話 【高校生の日常】
朝に学校に行き、数少ないクラスの友人達となんでもない話をし、昼食後の血糖値の上がった頭で午後の授業を受ける。
時には放課後一緒に遊びに出かける事もあり、概ね順調な高校生活だと言えるだろう。
友人達と揶揄い、揶揄われながら毎日を過ごす。
心に抱えた棘を隠しながら。
決して彼らのせいではない。それでもふとした時に昔の情景を思い出してしまう。
そしてそれはどこか一歩踏み出すのを躊躇ってしまう。
そんな傷。
彼らがそれに気づいているかは判らない。
そんな自分と仲良くしてくれていることに有難く思いながら、心の底から笑ってはいなかった。
きっと自分は彼らとそれ以上の関係を築くことはないのだろう。
昔、手のひらから零れ落ちてしまった物をまた作ることはしたくなかった。
堅牢に見えた城が実は軽い砂ででき、吹けば飛んで消えてしまうような、喪失感を味わいたいと思えなかった。
それでも日々は過ぎていく。
こっちの感情なんてお構いなしに。
せめて
それともそんな間もなく環境が変わった事の荒療治の方が効果的だからか無情にも時間は過ぎて行った。
そんな毎日の帰路での事だった。
昔からの習慣を終わらせ、その内容を反芻し、あれが駄目だったこれが駄目だった。
こうすれば良かったのではないかと考えを巡らせながら帰る。
いつもの帰り道にはすでに夜の
何か落とし物でもしようものなら、探すのは困難だと予想されるような暗闇。
どんどんと夜が長くなっていくなかで、世間でも明かりが灯るのも早くなっていく中、普段なら人影はない。
そんないつもと同じはずのマンション前。
月明かりに照らされた小さな少女の人影が見えた。
淡い月明かりは小柄な少女という事しか解らなかったが、その少女は上を見上げ、おろおろとしていた。
背丈は自分の肩くらいまでだろうか、こっちに気づいた様子はなく、ただ上を見ている。
このまま無視して家に入る事は簡単だ。
その選択をしたって、誰に咎められることも無い。
誰も見てないし、誰に言われるわけでもない。
それでも明らかに困った様子の少女を放って置くのも忍びない。
秋口とは言え肌寒くなってきた中でいつまでも立ち竦ませているというのも後味が悪かった。
そんな気持ち悪さを、嫌だな、とだけ思った。
せめて不審者と間違われないといいな、そう思い声を掛けた。
「どうかしたの?」
若干の緊張を交えながら、声を発し、きちんと口が動いた。
変に噛んだりしてはそれこそ変質者みたいだ。
それでも背後から急に声を掛けたのには変わりない。
少女はびっくりしたようにこちらを振り返ると、腰まで届きそうな長い髪がふわっと広がった。
なびいた髪の毛が月の光を吸ってキラキラと淡く白く輝いている。
そんな様子にある種幻想的な思いを抱かせながら、少女は小さく聞こえる声でつぶやいた。
「いえ、その……、この上に鍵を落としてしまいまして……」
そう言って指し示されたのは、ゴミ置き場として設置されている小屋だ。
そこまで大きくはないが、共用の物として置かれている以上、それなりの高さがある。
通常なら、落とす事はないだろうが上の階の廊下から落としてしまうとなれば話は別だ。
自分も落としてしまいそうになった事があるから、もしかしたら同じ失敗をしてしまったのかもしれない。
上に乗ってしまったからと取りに行こうにも、この少女では登る事は困難だろう。
管理人に相談しようにも、この時間だとすでにいない。
よりにもよって鍵だ。
このまま放置してしまって、誰かが拾ってしまったら事だ。
さらにスペアが無ければ家に入る事もできない。
思わず正直に言ってしまったからか、状況を把握した少女は警戒を露わにし腕で体を抱くようにして一歩下がった。
こんな暗がりの中に、男が迫っているのだ。
警戒されて当然だろう。
あくまでも他意は無い。
そこに感情もない。
少女に興味はないと。
行きがけの駄賃だと言う声音で言った。
上を探すくらい容易いのだから。
「わかった、ちょっと待ってて」
「え?」
叫ばれてはかなわないとすぐに行動に移した。
さっきまでやっていたことに比べれば、なんてことはない。
気になってしまったからにはこのまま途方に暮れたようにされているよりも、鍵を取ってあげた方が自分の目覚めも良いというもの。
すぐ見つかれば。
少女が誰かも判別できないほどの暗がりで、頼りない月明かりのみではすぐ見つからないかもしれない。
それはその時だ。
返事を待たずに荷物を降ろすと、軽く回りを見渡した。
手ごろな場所に手を掛け、一息に体を上にあげてゴミ置き場の上に登る。
すぐに鍵が見つかり安堵した。
幸いと言って良いのか、キーケースなどには入っておらず、むき出しのまま。
月明かりを反射した鍵は、その存在を主張する様に光っていた。
下りるとあっけにとられたようにしている少女に「ん」と言って鍵を押し付け、自分の荷物を持って、マンションの中へ入って行った。
その時、初めて正面から少女の顔を見たが、よく解らなかった。
見たことあるような、無いような。
差し当たって、話をした事があるような顔では無かった気がする。
それでもなぜかどこかで見た事があるような気がする。
考えても仕方ないと特に気にしなかった。
自分は今の環境を変えたいと思っていなかったから。
しかしながらこれが運命を変える出会いになるとは露とも思わなかった。
朝、決まった朝食を食べるようにルーティンを作り、一人学校に向かう準備をする。
『いってきます』も『いってらっしゃい』も言わなくなり、久しい気がする。
その事にもすっかり慣れ、感慨もなく出かける。
出かける先は勿論、学校。学生として授業を受ける。
そんな日常を繰り返し、ちょっと気だるげに教室に入ったのは、
今年から一人暮らしを始めている。
最初の頃は、食事を作れば周りは焼け焦げ、中は生っぽい肉の塊を作り顔を顰める。
炊飯でさえも水の分量を間違え、べちゃべちゃと口をへの字にしたくなるような物を作っていた。
初めの頃は口にすることが出来るものを作れればマシだった。
本当に。
最近になって、ようやくまともに口に出来るものが作れるようになった。
他にも手を抜き、洗濯物を貯めれば入れすぎてエラーが出て、これはなんだと調べてスムーズに出来ない。
天気を確認せず、外に干しっぱなしにすれば、帰ってきた頃には雨でずぶぬれになっていて、膝をつくことも。
一時期、足の踏み場も無い程のゴミを貯めてしまい、夏に様子を見に来た母さんにはこっぴどく怒られた。
それ以来、なんとか少し散らかるくらいで納めるようにした。
そんな、様々な事を様々な形で失敗し、ようやく日々の暮らしに慣れてきた頃、季節は紅葉が色づき始めていた。
手入れを特にせず、無作法にも後ろで結べそうな位に伸びている髪の毛を
教室の端、窓際にあり自分の席は外を見ればちょうど校舎裏が見える。
よくそこは告白のスポットとして使われており、もう何度も現場を見ている。
他に場所は無いのかと聞いてみたが、これでも他の場所も諸々使われているらしかった。
どれだけの告白イベントが行われているのかと。
覗く趣味は無いが、教室に座ってやる視線なんて、教室の中か外だ。
そうすれば、自然と視線は下を向き、人が歩いている姿なんて眼に止まる。
行儀悪く頬杖を付き、感慨もなく視線を動かしてしまう。
「おはよう」
「おはよー」
そんな席に近づくなり挨拶を交わしたのは、
数少ない友達であり、学校では良くつるんでいる。
自分には到底無理な程に明るく、いわゆる陽キャという人物だろう。
ただ勢いで物事を進めようとする事があり、それが玉にキズだ。
こう見えてちゃんと考えてると主張するが、最後まで考えられている事は
「なー、
ふと示された方。
正確に言えば窓から見下ろす形で告白スポットとなっている校舎裏。
今まさに、小柄な女子に告白した男子が玉砕した後のようだった。
女子が何度も頭を下げ、男子の前から去ろうとしている。
告白された女子を観察すれば、今一番話題になっている少女。
この前の文化祭でミスコンをやったらしい
そこで最初の自己紹介にだけ登場して自己アピールもせずに他のステージにも登場しなかった美少女がいたと噂になっていた。
最後のステージまで出ていれば、まず間違いなく一位を取っていただろうと言われている。
その後、登場して来なかった事で周囲をおおいに落胆させた様子は凄かったの一言に尽きた。
それ以来、あの様に告白しては玉砕させている姿をよく見かける。
そんな様子を見て思う事は、双方ともに大変そうだな、という事だけだった。
どっちの立場にしても真剣であればあるほど、気持ちが消耗してしまうだろう。
その気持ちが消耗してしまうのは厄介だと身に染みていた。
「青春してるよなー、良いよなー」
「大変そうだけどな」
「あんまり興味なさそうだなー」
「実際ないな」
「ふーん、彼女欲しいと思わないのか?」
「ないな」
「えー、なんでだよ」
「期待したくないだろ」
ずっと続くと思ってたものも無くなるんだから。
「それ可能性のある人が言う事だろー」
「そりゃそうだ」
「あれー、まさか可能性あると?」
「これまでもないし、これからもないだろ」
「わたしというものがありながら!?」
「話聞いてたか?」
「寂しかったなら言ってくれれば、よよよ」
「……」
「放置はすんなよー」
「余りにも気持ち悪くて気絶してた」
「そっかー、もう授業終わったぞ」
「俺はまだ授業残ってるから病院行ってきた方がいいぞ」
「そうだなー、優陽に勧められたってことで代返よろしく」
「俺は困らないぞ?」
「ちくしょうめっ」
そう言って海は席に戻って行った。
告白されていた少女の名前はたしか他のクラスにいる
遠目に見ても姿勢が正しく小柄な少女は、周りと雰囲気が違うという印象は持っていた。
例えば今みたように告白したとして、どうしたいと言うのだろうか。
もちろん、あーしたいこーしたいと言うのは判る。
それでも、特に知りもしない女子とどうのと言われても、まるで想像もできない。
ましてや、向こうもこっちを知らないのだ。
さすがに機会も予定もへったくれもないだろう。
遠目にしか見た事はないが、仮にもしそんな未来があるとしたら学校で騒がれて仕方ない上に、不釣り合いだなんだという文句もついて回るのは目に見えている。
別に自ら目立ちたいとは思っているわけではない。
だから、敢えてその道を行こうとは到底思えない。
ましてやそんな自分を想像する事もできなかった。
そんな彼女が自分と特に縁があるわけはなく、その予定もない事に興味を抱けと言われても無理な話だ。
それよりも自分には、やりたい事がある。
それが目的でこの高校へ入学したのだから。
放課後、一旦自宅へ戻りあらかじめ用意してある荷物を持って目的の場所へ向かう。
自転車を漕いで数分、到着するといつもと同じように挨拶し中に入っていく。
一階と二階いっぱいの壁に様々な形状や色の突起物を付けられた施設。
いわゆるボルダリングジムだ。
そのホールド(突起物)を登る競技に自分は打ち込んでいた。
決められたホールドで作られた課題を自分の身一つで登るボルダリングは、自分の趣味のようなものだ。
むしろ趣味で済めば良い方かもしれない。
もはや生活の一部と言っても過言ではない。
ハマっている、ハマっていないという括りにできるかすらわからない。
クライミングをするのが普通だと感じるくらいには、日常に溶け込んでいた。
そんなクライミングだが、このジムには有名なコーチが所属しており、月に一回のレッスンをお願いしている。
今日はそのコーチやレッスン生と一緒にボルダーをやる日だ。
クライミングをやっていて、当然のようにもっと登りたい、もっと強くなりたい。と思い両親に頭を下げて一人暮らしを始めた。
一階で簡単なストレッチをし、ウォーミングアップをしてレッスンの時間に備えて課題をいくつか登っているとスタッフの人が忙しなく靴を準備していた。
少し前に世界的な種目になった事もあって、最近は新規の人が増えているらしい。
テレビでも選手が取り上げられてる事もあるし、本当に有名になったな。
多分、手前は新規の人が使うだろうから、奥に移動しよう。
そう思い移動がてら、新規の人達を
そこには今日、窓から眺めていた人物とそのクラスメイトと思わしき女子がグループで居たのだ。
グループの中でも一際目を引かれ、そこだけ違う景色を見ているような錯覚に陥ってしまった。
噂の少女である
髪の毛は腰まで届きそうなほど長く、綺麗な栗色をしている。
その髪の毛は陽の光が当たっている関係か毛先などが白く、幻想的な雰囲気を受けた。
顔立ちにいたっては整った綺麗な目鼻立ちをしていてとても印象に残る。
噂通りだ。
白い肌にはシミひとつ見当たらずすべすべとしていてクスミもない。
ぱっちりとして澄んでいて吸い込まれそうな瞳は物珍しそうに、興味深そうに辺りを見回している。
今は制服ではなく動き易そうな恰好をしている為か、学校で見るよりも可愛らしく目が離せなくなってしまった。
いわゆる美少女って感じか、告白される事が多いのも
思わずじっと見てしまい相手もこっちを向いた。
突然の事に目が合ってしまい瞳を大きくした表情が見て取れた。
トクンと一つ、不意に心臓が高鳴る。
まずいと思い二階へ上がる事を決めた。
いくら知名度が上がったとは言えクライミングはまだまだマイナーなスポーツであり、やっているとなると色々質問される事が多々ある。
学校とジムとを繋げたくない自分はクライミングをやっていることを余り知られたいと思っていなかった。
髪型も学校では何もせず、特に
自分もこれで本当にバレないとは思っていない。
それでも何もしないよりはましだろう。
どちらかと言えば、結びたくてこの髪型をしているのだが。
そんな事よりも今は、ここを離れよう。
逃げるようにして二階へ向かった。
二階で登っているといよいよスクールの時間になってしまった。
集合はいつも一階なので憂鬱な気持ちを抱えて移動する。
もう帰ってると良いけど。
まだ居た。
なるべく顔を合わせないようにし、コーチと挨拶をした。
幸いにも少女がこっちを向いてる気配はない。
このまま壁の前に行ければなんとかバレずに済みそうだ。
少女から背を向け、壁の前でスクール生と並ぶ。
毎度の事ながら嫌な思い出がフラッシュバックする。
これだけは慣れる事ができない。
スクールの始めに顰めっ面をしてしまい、心の凝りがうずいてしまう。
「朝比奈っていつもエンジン掛かるの遅いよな」
そう言われるが、放っておいて欲しい。
どうしても心の棘が付き纏いなかなか集中する事が出来ないのだから。
しかも合わせて今は、少女が見ていて笑っている。
誰かと話しているのか、はたまた今の自分の失敗を見て笑っているのか。
気づいているのかどうか。
背中越しに聞こえる声が気になって仕方ない。
特別気になる相手ではない。
それでもあれだけ可愛らしい少女に見られて気にならないほど無関心ではいられなかった。
結局その日は一日中、雑念が邪魔をし上手く集中できず、あまりしない失敗をしながら、その日のレッスンを終えた。
家に帰るとプロテインを作り、胃の中に流し込んで夕食を終わらせる。
髪型違うし解らないよな。
大丈夫だよな。
じっと見てしまって不快に思われてないよな。
気持ち悪がられたらどうしようか。
そんな思考がずっとループしていて、結局クリアしたい課題を落とせずに一日が終わってしまった。
いつもの日課をこなし、翌日に一抹の不安を残しながら就寝した。
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