第2話『ノミ予防と、猫を連れた旅人』


 学校が夏休みに入るのと時を同じくして、佐苗島さなえじまにも本格的な夏がやってくる。


 島猫たちもこの時期は強烈な日差しを避け、日中は陸に上げられた古い船の陰や軒の下で寝そべっていることが多い。


 そんな彼らに声をかけると、決まって「暑い」という言葉が返ってくるのだ。


 そりゃあ、季節に合わせて生え変わるとはいえ、全身毛に覆われているわけだし。暑いに決まっている。


「ほーい、水よー。たんと飲みなさい!」


 開店前のしまねこカフェで、扇風機の前でだらーんと寝そべっているココアにそう声をかけるも、彼はしっぽをぴょこんと動かしただけだった。


 ……どうやら、話す気力すらないよう。早くも夏バテかしら。


「起きなさーい! 今日はあんたにも、ノミ予防するんだからね! ここに来る子で予防してないの、あんただけよ!」


 スポットタイプの予防薬を手に、あたしは声を張り上げる。


 夏の島猫たちにとって、水分補給は何より大事だけど、それと同じくらい大事なのが、ノミ予防だ。


 家の中をノミだらけにするわけにはいかないし、お客さんにうつしてしまうなんてもってのほかだ。


 それでも、島には百匹ほどの猫がいるので、その全てにノミ対策をするのは難しい。


 加えて、予防薬には猫だけにわかる独特の匂いがあるのか、彼らは基本嫌がる。


 あたしも説得を試みるのだけど、昨日してもらったと誤魔化す子も出てくる始末。おじーちゃんと一緒にリストを作り、管理している状態だ。


 そんなことを考えていると、畳の上で伸び切っていたココアがごろりと寝返りを打ち、こちらに背中を向けた。


「……スキあり! うりゃ!」


「ひえぇぇ!?」


 それを見たあたしは、好機とばかりに彼の首筋に予防薬を打ち込んだ。


「ううっ……や、やられたぁぁ……がく」


 特に痛みもないはずなのに、ココアはわざとらしく体を震わせて脱力した。


 あんなリアクション、どこで覚えたのかしら。


「……ふう。今日も朝から暑いね」


 勝ち誇った顔で使用済みの薬をゴミ箱に捨てていると、麦わら帽子を被ったおじーちゃんがカフェに戻ってきた。


「また簡易宿泊所に行ってたの?」


「ああ、今日のお昼にはお客さんが来るからね。準備も最終段階だよ」


 そう言いながら足早に台所へ向かい、水屋からインスタントのコーヒーやパックご飯、レトルトカレーを引っ張り出しては、大きな紙袋に詰めていた。


 おじーちゃんが夏季限定で始めるという宿泊所は、カフェから少し離れた場所にある空き家の一戸貸しで、素泊まり限定だ。食事は自分たちで作るか、島にある飲食店を利用してもらう形になる。


 最初に話を聞いた時は不安だったけど、食事を提供しないのなら、あたしたちの負担も少なくて済む。


「それでね、小夜に一つお願いがあるんだけど、聞いてくれるかい?」


 もう一つ大きな袋を手にしながら、おじーちゃんが申し訳なさそうに言う。今日は特に予定もないので、あたしは頷いた。


「宿泊所のお客さんが11時の船でやってくるんだ。迎えに行ってくれるかい?」


「それは構わないけど……なんて人?」


「男の人なんだけど……ああ、あのボードを持っていけば、向こうから気づいてくれるよ」


 おじーちゃんはそう言って、和室の奥を指し示す。そこにはダンボールを加工して作られたボードが置かれていた。


 初めてのお客さんだからか、ずいぶん気合が入ってるわね……なんて考えつつ、あたしはそのボードを手に取ったのだった。


  ◇


 そして11時前。あたしは麦わら帽子を被り、ボードを手に港にやってきていた。


 この時間帯から本土へ行くという島民はいないのか、港は静かなものだった。


「サヨが港で人を待つなんて珍しいネ」


「ネネさん、実はサヨは彼氏ができたというもっぱらの噂で」


「残念ながら違うわよー。お客さんを待ってるの。てゆーか、その噂の出どころはどこよ」


 いつの間にか近くにやってきたネネとミミと話をしながら、発着場から少し離れた建物の陰で船を待つ。


 しばらくすると見慣れた縞模様の船が港に入ってきて、結構な数のお客さんが降りてきた。


 あたしは猫たちと別れ、ボードを掲げながらその人の流れへと近づいていく。


青柳圭介あおやぎ けいすけさん、ようこそ佐苗島へ』


 そう書かれた手作りのボードは文字をカラーペンで縁取りされていて、とにかく目立つ。


 そりゃあ、目立ってもらわないと当人が気づかないのだけど、そのせいであたしは注目の的だった。


「……サヨさん、目立ってるよ」


 そんなあたしを、港のお出迎え猫であるゴマさんが遠巻きに見ていた。


 そんなこと、言われなくてもわかってるわよ。さすがに恥ずかしくなってきたから、青柳さんとやら、早く降りてきて。


「……あ、もしかして、君が月島さんのお孫さんかい?」


 やがて人もまばらになってきた頃、一人の男性があたしに声をかけてきた。


 見た目は20代後半といった感じで、首から下げたゴツいカメラが一番に目についた。


 大きなリュックとキャリーバッグを持っていて、青色のワイシャツから覗く肌は夏だというのにほとんど日焼けしておらず、短い黒髪を隠すように黒い帽子を被り、色の薄いメガネをかけている。


「そうですー。月島小夜です。青柳さんですよね? ようこそ、佐苗島へ」


 当然初対面だったけど、カフェや島猫ツアーで鍛えた接客スキルをフルに使って対応する。第一印象は悪くないはずだ。


「お孫さんがいるとは聞いていたけど、こんな可愛らしいお嬢さんだったとはね」


「あはは、ありがとうございますー」


「……まさか、そいつが彼氏?」


「わぁお、サヨってば、年上好きなのネ」


 そんなあたしをよそに、ミミとネネが背後で何か言っていた。


 あんたたち、いい加減うるさいわよー? いくらなんでも歳上すぎでしょ。


 心の中でそう思いつつも、もちろん声には出せない。一瞬だけ振り返って、笑顔で睨みつけておく。


「……お生憎様。ケイスケには心に決めた人がいるの」


 ……その時、聞いたことのない猫の声がした。


 一瞬不思議に思うも、それが青柳さんの持つキャリーバッグから発せられたものだとすぐに気がついた。


「あのー、これってもしかして、猫用のキャリーバッグですか?」


「ああ、一見わかりにくいけど、そうなんだ。ほら。ミナも挨拶して」


 彼はそう言うと、バッグの入口を少しだけ開く。


 するとそこから、一匹の三毛猫が顔を覗かせた。


「すぐにわかっちゃうなんて、さすが月島さんのお孫さんだね」


 ……ええまぁ、がっつり声が聞こえちゃったんで。


 そんな台詞をなんとか飲み込んだ矢先、あたしの背後にいた島猫たちが青柳さんの猫を見にやってきた。


「おお、新入りさん?」


「仲良くしようネ」


 彼らは口々にそう言うも、キャリーバッグの中の猫は全身の毛を逆立てた。


 言葉にはしないけど、お前たちと馴れ合うつもりはない……と、態度で示しているようだった。


「はは、まだ慣れてないし、しょうがないか。それじゃ、月島さんのところに案内してもらえるかい?」


「はい。祖父は簡易宿泊所のほうにいると思うので、ご案内します! 猫ちゃんの入ったキャリーバッグ、お持ちしてもいいですか?」


 あたしは満面の笑みを浮かべて青柳さんからキャリーバッグを受け取り、島の中ほどにある宿泊施設に向けて歩き出したのだった。

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