羊と竜骨

猫セミ

第1話「零課」

「とりあえずそこに座ってもらっていいかな」


 机の向こう側、窓を背にして座るその人──松島月子まつしまつきこは静かにそう言った。初瀬渚はつせなぎさはその言葉に素直に従い椅子に体重を預けた。目の前に座る松島は骨折でもしたのか、左腕が包帯で巻かれ三角巾で吊られている。初瀬にはこの人に軽く見覚えがある程度で、話すのは今日が初めてだった。松島は少し申し訳なさそうに目を伏せて口を開く。


「急な呼び出しで困惑してると思うんだけど、今日から貴方は零課で働くことになったんだ。よろしくね」

「えっ、はっ……?」


 松島の思わぬ発言に初瀬は瞬きを繰り返した。


「あ、やっぱ聞いてないんだ……やってくれたな、兄さんめ……」


 初瀬の反応を見た松島は肩を落としながら小さくそう呟いた。彼女の言う『兄さん』には心当たりがあったが、それよりも初瀬には自分が異動になったということが重要だ。


「つまり異動ってことなんだけども」

「ちょ、ちょっと待ってください! なんでそんなっ……!」


 机を軽く叩き、初瀬はがばりと立ち上がった。松島は申し訳なさそうな顔をして話を続ける。


「本来だったら事前に連絡が行ってるはずなんだけど。君は優秀な人材だから、意趣返しに連絡しなかったんだろうね……。全く、困った困った」

「え、えぇ……」


 上の人の争いに巻き込まれたのだろうか。それとも、自分が役立たずだと判断されてあんな僻地零課に飛ばされるのだろうか。どちらにせよそう考えると腹の底で苛立ちが騒ぎ始めた。嫌な記憶が続々と蘇ってくる。己の頭の回転の速さを憎みながら、初瀬は重々しく松島に質問をする。


「これは左遷ってことですか」


 初瀬の質問の意図を汲み取ったのか、松島は少し笑ってからゆるゆると首を横に振った。


「違う違う。まぁ何? 今回は私が貴方を引き抜いたんだよ。そのせいで一課のあの人の機嫌を損ねたみたいだけど。貴方の評判はよく知ってる」

「評判、ですか……」

「あ、私としては同じ肩身が狭いものとして嬉しいって話だからね。本当のところならあのまま一課の──いや、口が滑るところだった。とにかく、本当は貴方を引き抜く予定はなかったんだ。ただ急に人手が必要になって」


 そう言って松島は左手を持ち上げた。


「異動とは言ったけど、期間限定、年内だけでもいいからウチを手伝ってほしいんだ。僻地って言われてるくらいには万年人不足だからさ! ね!」

「え……いや……」


 拝んでくる松島を前に初瀬はうろたえた。松島こと零課の事情もよく分かったし、自分が役立たずだと切られたというわけでもなさそうだった。それでも初瀬としては頷くことができずにいた。


 一課の男どもの顔がチラつく。歳下の女に手柄を奪われるのが気に食わないのか、いつもいつも足を引っ張られる。零課を手伝っている間、事件が起きたとしても初瀬は関わることができないだろう。『やっぱりお前がいない方がスムーズだった』と言われるに違いない。それがたまらなく悔しい。それにもう一つ、初瀬には頷けない理由があった。


「すみません、事情は分かるんですが無理です──わたし、魔術のことを何も知りません。そんな人間が手伝いなんてできるとは思えませんから。それに……一課で仕事を続けたいですし」

「なるほどねー……まぁ聞いてはいたよ」


 当然だ、と言わんばかりに彼女は頷いた。それに対し初瀬は怪訝な顔を向ける。


「別に優秀な人材は他に居るからね。わざわざ君に頼む義理もない」


 顎に手を持って行きながら松島はそう付け加えた。


(随分な態度だな)


 そんな彼女の言動に初瀬は軽く苛立ちを覚える。それが伝わったのかは分からないが、松島は余裕綽々として言葉を紡ぐ。


「ただ、というかだからこそ、貴方に頼んだことに意味があるわけで。ゼロが厄介者の集まりかつ厄介者を相手する課、ということは知っているでしょう? 厄介者を相手するにはそれなりの実力が要る」

「……何が言いたいんですか」


 嫌な予感に初瀬は警戒する。秘密が頭を過る。


「貴方が秘密裏に、街に出没している化けスペクターを処理していることは知っているんだ。だからそう、ここまで言えば、分かるんじゃない?」

「!」


 彼女の言葉に初瀬は息を飲む。


 どこから漏れ出た? 誰が告げた? 誰に見られた!?


 不規則に同じ思考が湧いては消える。追求しようと口を開いた初瀬を、松島は手で制してこう付け加えた。


「別に脅そうっていうつもりじゃないんだ。ただ実力があるから頼む。それだけ。『普通の』警察官をゼロ送りにはできないからね。さて」


 話を仕切り直すと同時に松島は座り直す。


「最近の状況もあって、戦闘が可能な人員が不足している。そこで私は貴方をここへ呼んだ。この街の治安維持にはそれなりの実力と経験がいる。そしてそれを育てていく余裕もない。貴方が魔術師嫌いなことは知っているし、理解もできる。それでも今回声をかけたのは、どうしても君の力が必要だから。助けてほしいの。市民を守るためにも」


 松島の凛とした声を聞いた初瀬は、ドアの方へと踵を返した。


「じゃあ、年内だけ手伝わせてもらいます。それ以上は無理です」

「それは浦郷君がメールで送ってくれてるはず。助かるよ。君みたいな優秀な人が手伝ってくれるのはありがたいことこの上ないからね」


 嫌味ではない、素直な誉め言葉に悪い気はしなかった。そのまま上着を直し、廊下へ出る。


「あ、そうだ。ちょっと待って。これだけ言わせて」

「なんですか?」

「さっそくなんだけど、住宅街でスペクターが出たっていう通報があったみたいだから言ってちょうだい。場所はさっき来たメールを転送したから」

「え、今からですか」

「君なら大丈夫だよ。あぁ、あと武器の携行は許可されているから、それは適宜用意して行ってね。丸腰で行かないで」


 とんでもない無茶ぶりだ、と初瀬は眉をひそめた。これで初瀬がここでいう『武器』に当たる物を持っていなかったらどうするつもりだったのだろうか。そんな疑問はさておき、と初瀬は廊下に飛び出した。




 現場は松江城の向こうにある住宅街の一角だった。年季の入った二階建てのアパートの前に、ちょっとした人だかりができかかっている。


(少し遅かったか……!)


 そんな状態に舌打ちをしながら初瀬は人の間を縫ってその先を目指す。野次馬たちはある一定のラインからアパートへは近づいていないようだった。それに少しほっとしつつ、初瀬は歩を進める。


 進んでいった先には明らかに様子のおかしい角部屋があった。ドアが開けっぱなしになっている。いくら治安がいいとはいえ、そんなことをする人はまずいない。山間部ならまだしも、ここは市街地──街のど真ん中だ。そこを確認するべく初瀬は階段を上がっていく。


 息を切らせながら部屋の前にたどり着いた初瀬は、息を潜めて聞き耳を立てる。何が起きたのか分かっていない今は、とにかく慎重に動かなければいけない。巻き込まれた人がいる可能性もある、そこまでゆっくりしていられるわけでもないが──。


「あの」


 不意に横から人の声がした。初瀬は警戒心をむき出しにしたまま思い切り振り返った。振り返ったその先には、ちょうど初瀬と同じくらいの背丈をした青年が立っていた。彼はひどく驚いたらしく、橙の目を丸くしてそこに突っ立っている。銀色の髪が風に揺れた。


「あ、すみません……」


 敵意のない──少し間の抜けたその姿に、初瀬は思わず謝罪を口にする。彼は瞬きを繰り返した後に、小さく「こちらこそすみません……」と謝った。


「何か、あったんですか」

「まぁ、ちょっと。危ないのであっちの方まで行ってくれませんか」


 初瀬が野次馬の方を指さしてそう言ったその時だった。中からがたり、と物音がした。一気に緊張が張り詰める。直後、玄関から何か、黒いものが染み出してきた。じわりじわりと粘性を持った黒いそれが玄関前に広がっていく。初瀬は思わず後ずさりした。それはぐぐっと力強く立ち上がる。風に乗って、生臭い嫌なにおいがした。己の背丈を超えるその大きさに初瀬は息を飲んだ。


『丸腰で行かないで』


 ここでやっと松島の言葉の本当の意味を理解した。やはり『化け物』とはこれのことなのだろう。それは直感で理解した。


「だ、れか……」


 ドアの内から助けを求める声がした。


「ちょっと、なんでまだこっちにいるんですか! 危ないから早く下がって──!」


 助けを求める声の主も気になるが、まずはこの横にいる男もどうにか安全な状態にしなければいけない。初瀬は仕方なくその人の肩を掴んで離れさせようとする。


「え、ちょ、いや、僕は──」

「ここの家の人ですか、それでも今は、ていうか! 危ないの見たら分かりますよね!」

「あ、後ろ……」

「!」


 なおも食い下がる青年が初瀬の後ろを指さしてそう呟いた。


 立ち上がった化け物が二人に向かって鋭く伸ばした触肢を突きだしていた。初瀬はすぐに青年を庇うためにその背を押し、前に出ようとした。が、青年はその腕をすり抜けて逆に初瀬と化け物の間に割って入った。


 「何を」と静止の言葉を言いかけた口は、半開きのまま止まる。青年の周囲の温度が急激に上がった。ぶわり、と熱風が冷たい空気を塗り替えていく。初瀬はすぐに青年の正体が分かった。


(魔術師──)


 化け物と二人の前を一瞬にして炎が駆けた。触肢は炎のせいか、炭化したように硬くなって鉄の外廊下に音を立てて落ちていく。からんからんと転がっていくそれを蹴りながら青年は初瀬の方へ振り返った。


「大丈夫ですかっ」

「……いや、大丈夫」


 初瀬は首を振り二、三回胸を叩いてから化け物の方を見た。化け物は怯んだのか、恐れをなしたのか逃げるようにして雨どいの中へと入っていく。


「! 逃がすか……!」


 青年はそれをよしとしないのか、追いかけるようにして階段へと駆けて行こうとする。


「ちょ、ちょっと待って!」

「うわっ」


 その藍色のコートを初瀬は掴んで止める。青年は変な声を上げて立ち止まる。


「な、何ですか……?」

「あの人を運ぶのを手伝って……!」


 初瀬の視線の先には、何かから逃れるようにして部屋から這い出てきた人がいた。血にまみれ、息も絶え絶えのその姿を初瀬は無視できなかった。青年もそれに気が付いたのか、息を飲んだ。少し迷った様子を見せ、階下を覗き込んだのちに青年は初瀬と共にその人の元へと駆けた。

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