さいごの仕事

香坂 壱霧

一、殺意と逃亡

 上司は、口うるさい男だった。

 手際が悪い、その色はイマイチ、センスがない、などとヤスシの背後から、いちいち嫌味な言葉を投げつけてくる。温厚なヤスシは、上司に言い返せない。

 ヤスシは、チラシやポスターなどをつくるデザインの仕事をしている。ヤスシのデザインは、クライアントにはウケていた。だが、上司は『彼らは素人だから、デザイナーがつくるものはよく見えてるんだ。調子に乗るなよ』と言い放つ。ヤスシの自信作を、ことごとく全否定するほどに、その上司に嫌われているのだ。

 そして今日も納期が迫るなか、ヤスシは上司の嫌味を聞き流せないくらい追い込まれていた。

 あと少しで終わりそうなのに、捗らずに煮詰まっていたのだ。

 ヤスシは煮詰まった頭をクリアにするため、作業を止めてデータをバックアップすることにした。バックアップの待ち時間で、イチからラフを描いてみたり、クライアントの要望を考えてみたりする。

 上司はそれを見て「納期は明日だと言うのに、のんきなものだな」と、舌打ちしながら呟いた。そしてラフを背後から眺めながら、「その程度しか思いつかないのか、この仕事向いてないんじゃないのか」と、あくびをしながら言い放つ。

 その態度に、ヤスシは頭に血が上った。バックアップ中のノートパソコンを手に取り、上司の頭を何度も何度も殴った。ノートパソコンの角は、上司の頭をえぐっている。えぐれた傷口から血を流しながら、上司は倒れた。頭を押さえていた手の指先がしばらく震えていたが、やがて動かなくなる。

「やっちまった」

 倒れた上司を見て、ヤスシは携帯を取る。救急車を呼ぼうと震える指先で番号を押そうとするが、頭から流れ出る血の量を見てやめた。


 ヤスシは、凶器のノートパソコンのデータを確認した。バックアップは終了しているようだった。残りの作業は、煮詰まっていたのが嘘のように捗る。全ての作業が終わり、データをサーバーにアップしたあと、ノートパソコンについた血を拭き取った。

 全て拭き取れそうもないと気付いたところで、「これは、隠しようがないだろうな」と、冷静に呟いた。ヤスシは、今まで言われてきた言葉を思い出す。心臓をぞうきんのように絞られているような痛みで苦しくなっていた。 

 ヤスシは考える。これで、この苦しみから解放されるのか、と。

 それからヤスシは、会社の戸締りをしながら考える。


(自首したほうが良いんだろう。でもどうせ罪に問われ、裁かれる。お先真っ暗じゃないか。これで人生に諦めがついた。俺には、家族はいないし、頼る友人もいない。)


 ヤスシは一度アパートに戻り、シャワーを浴びた。上司の返り血を浴びた服を袋に詰め、数日分の着替えや寝袋を登山用のリュックに詰め込む。

 荷物で膨れ上がったリュックを見ながら、再び考える。

(状況を思い返しても、明らかに正当防衛に相当しない。罪を認めて自首すれば、多少罪は軽くなるかもしれないが、減刑などどうでもよかった。日頃の積み重ねが爆発した。殺意は確かにあった。良心など、いまさらどこにもない。)

 良心という言葉を思いついたとき、ヤスシは学生時代に住んでいた町を思い出した。

 山に囲まれたのどかな町だった。通学するには不便だったが、家賃が安いという理由でその町を選んだ。

 自転車で一時間かけて大学に通っていた。

 自転車がパンクして困っていたとき、その地域の駐在所の警察官が助けてくれたのを思い出す。

 あれから十年は経っている。もうあの警官はいないかもしれない。しかし、あの人にもう一度会いたい。あの人に全てを話しに行こう。あの町に行けば会える気がする。


 ヤスシは、駅に向かう。

 途中でコンビニに寄り、モバイルバッテリーと弁当とお茶を買った。

 始発の電車に乗った。

 電車の中であの町の駐在所に電話をかける。あの警察官の声は今でも覚えている。

 駐在所に電話をかけると女性が出た。駐在所の警察官がパトロールなどで不在の時は、その妻が電話をとることがある。

 警察官は、高崎という名前だった。高崎の妻のこともよく覚えている。作りすぎたというおかずを、ヤスシのアパートにもってきてくれたことが何度かあった。高崎夫婦は、ヤスシだけでなく地域の一人暮らしの老人やヤスシのように身寄りのない人などにも声をかけていた。

 女性の声は忘れもしない高崎の妻の声だった。

 ヤスシは、「こんばんは、酒井です。お久しぶりです」と言いながら、上司を殺してしまった自身の罪を思い出した。

『ヤスシくん?』

 高崎の妻は、元気? と声をかけてきた。

 自分を覚えていてくれた事がわかると、ヤスシは電話を切った。

 いずれ、高崎夫婦に自身の犯罪は知られるだろう。


 ──自首するなら、高崎さんのところで。


 あの町までは遠い。特急を乗り継げば明日には着く。しかし、ヤスシは特急を乗り継ぐほどの金を持っていなかった。

 ヤスシは手持ちの金であの町まで行くにはどうすればいいかを考えた。電車をいくつか乗り継いでたどり着いた町で、スマホの電源を切った。

 深夜の犯行から半日以上経っている。事件が報道され始めると、高崎夫婦の元にたどり着くまでに足取りが明らかになるのまずい。

 自首するつもりなのにこの行動は矛盾しているなと思い、ヤスシは苦笑いを浮かべる。

 この町からはバスを乗り継いで、あとは歩いていくしかない。

 コンビニで買った弁当を食べてバスに乗り込む。

 バスの中の電光掲示板が、ヤスシの起こした事件を知らせていた。

 電光掲示板は、新聞記事の見出ししか表示されない。やがて容疑者であるヤスシの名前が全国的に知れ渡る。

 バスを乗り継いでいくのも限界がある。ヤスシはバスから降りた。歩いて行くには遠すぎるが、どうしても高崎夫婦に会いたいと思った。


 人を一人殺した罪は、重い。

 どう裁かれようと受け入れるつもりはある。それなら今すぐにでも自首するべきだとヤスシの良心が問いかけてくる。

 葛藤しながら、ヤスシは歩き続けた。

 空は薄暗くなり、行き交う車のライトが眩しい。

 山をひとつ越えればあの町に近づく。

 歩き続けたヤスシの疲労はピークに達していた。ヤスシはリュックに入れていた寝袋を取り出し、登山道の途中のベンチの脇で朝まで眠ることにした。


 夢の中で上司が嫌味を言う。他の社員からはヒトゴロシと指を刺され、ヤスシは夢のなかで他の社員にも殴りかかり殺した。


 飛び起きたヤスシは、自身の夢を思い出し嘔吐した。

 辺りはまだ暗い。冷たい空気と木々のざわめきがヤスシの気持ちをより暗くさせた。

 ──ここで死んでしまおうか。

 ふと、そんな気持ちが沸き起こる。

 ──登山道の途中で見つけた崖から身投げしようか。

 寝袋をリュックにしまい、崖を見下ろす。暗くて下がどうなっているかはわからない。

 ──ここで終わりにしてしまおうか。

 ふいに『元気?』という高崎の妻の声がよぎる。

 高崎の元には手配書がまわっている頃だ。ヤスシの声を聞いた高崎の妻は、何を思っているだろう。


 空が明るくなり始める。

 身投げはやめよう。とにかく高崎の元に行こう。

 ヤスシは歩き始めた。


 懐かしいあの町のはずれにたどり着いたのは、事件から五十時間後のことだった。

 駐在所の近くで、ヤスシは深呼吸する。駐在所の前には車が停まっていた。

 高崎の元に自分を探しに来た刑事がいるのかもしれない。高崎にすべてを話せないなら、ここまで来た意味がない。

 ヤスシは、駐在所の裏口にまわる。


 駐在所の裏側にある台所からカレーのにおいがした。

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