第十章 ③

 南山の問いに西野は両膝に肘をつき、ひたいにすりあわせるように手を合わせて目をつむる。


 数秒の沈黙の後、親指を内側に巻き込むようにして合わせた手の中にひと息吐くと、西野は答える。


「桜病とは本来、北川の妻が患ったが毒となり引き起こされる病です。


 昔から植物が多く根付き、共に生きてきた日本人には花粉に耐性があり、直接はかかりません。


 しかし、北川の妻はそうではなかった。


 北川が調べたところによると、北川の妻の母方の祖は、英国北部の草木も生えない極寒ごっかんの地にあったようです。


 そんな土地柄もあってか、その血は植物の花粉に対する耐性が少なかった」


 最初に異変を起こしたのは、北川の義母。


「植物学者でもあった北川の義父は、日本に来日した際、日本古来の桜花おうかの美しさに魅入られ、自宅の庭に、たくさんの桜の木を植えていたそうです。


 来日して初めての春が訪れ、満開の桜の下で花見をしようとした最中、義母は突然倒れた。


 肢体に浮かび上がる花びらのような斑点に、気管支の不調。


 医者さえ原因が分からぬ病に、義母は段々と身体を弱らせ、翌年、桜の散る頃に亡くなった。


 数年後には、北川の妻も桜の花咲く頃に倒れた」


 その時点ではその病が何かさえ分かっていなかった。


「北川は妻の原因不明の病の正体を探るため、世界各国の文献を読み漁る中で、当時英国で発表されていた花粉が身体に与える影響について記した論文に目を付けたようです。


 妻の家系を調べる中で、花粉が妻の体に害を与えているのではないかと疑った。


 加えて、妻の実家に大量に植えられていたという桜の木、妻や義母が倒れた状況を考察し、植物の中でも“桜の花粉”が妻の体に対して毒になっているのではないかという推察をしたのです。


 そして、毒であれば同じく、毒素から抗体を作り治療する血清療法が応用できるかもしれないと考えた。


 そのために南山研究室の馬を借り受け、桜病に対する抗体をもつ抗毒素血清を作ろうとしていたのです」


 西野から聞かされた真実に南山は己の罪を悟る。


「しかし、それを私たちが奪ってしまった。


 そのせいで北川は研究を続けることが出来なくなり、血清は確保出来ず、北川の妻は亡くなってしまった。


 さらにその妻が残した幼い娘にさえ、桜病の症状が出始めた。体中に紅い斑点が現れたのです。


 北川は妻を殺した病に娘も罹ってしまったのではないかと焦った。


 ところが、娘の病は妻の桜病と違い、それでひどく弱る様子も斑点以外に症状が出るわけでもなかった」


 だが、まもなくして今度は北川の身体に異変が起こった。


「北川の身体に斑点と、気管支に関わる症状が出始めたのです。


 妻の看病をしていた時には出なかった桜病の症状が娘の看病をしていたために出たのです。


 そしてそれは娘の症状と違い、酷く己の身体を蝕むものだった。


 北川はそこから再び一つの推察をしました。


 桜の花粉に由来する桜病は幼児期に罹るものと、成人期に罹るものがあるのではないかと」


 幼児期は当人に大した症状は出ないが、他者に病をうつす可能性がある。


 花粉に耐性がある日本人にも同様。


 成人期は誰かに病をうつすことはないが、症状が重篤化じゅうとくかし、やがて死に至る。


 また、幼児期の桜病を人から人(成人)にうつせば、成人期の桜病と同様、重篤化する。


「そして、北川はこの結果を基に、桜病の娘の血を使って恐ろしい感染症を作り出しました。


 人から人へとうつり、桜が散る頃にその命を攫っていく死病、私たちが『桜病』と呼び、私たちの愛した人たちを奪った病を」


 南山は信じられない顔で西野の顔を見る。


 その顔には、驚き、怒り、悲しみ、一言で言い表せない複雑な感情が入り乱れていた。


「それはほんとうなのか」


「はい。北川の日記、研究室に残された書類にすべての計画が記されていました。


 北川は娘から採った血を改良。破傷風に効く予防薬だと偽り、知り合いの薬売りに法外な値で売っていたようです」


 身近にあり死ぬ病と言われていた破傷風の薬は、誰もがのどから手が出るほど欲しがった。


「北川自身、帝国大学で研究していたという実績もあるため、薬に対する信ぴょう性も多少なりともあったのでしょう。


 だから薬売りも買った。


 そして、そんな値段の薬を買ってもうけを出すためには、仕入れ値以上の価格で売らないといけません。


 おのずと売る相手は相応そうおうの金を持っている上流階級の人間になる」


 西野の言葉はそこで止まる。


 いや実際は続いていたのかも知れない。


 しかし、南山はそれより早く西野が言わんとしていることを理解した。


 頭に一つのおぞましい仮説が立てられる。


 桜病が最初に確認された患者は華族の人間だった。


 それを発端にして桜病は貴族階級を中心に広まった。


 桜病は深刻な病であったが、接触感染だったため、関わりの薄い大衆にまでは拡がらなかった。


 ほとんど富裕層ふゆうそうにのみに蔓延まんえんしたといってもいい。


 それはまるで狙ったかのように。


 南山の顔からその推論すいろんを察した西野は肯定するように頷く。


「そうです。北川は私たちが行ったことを知っていて復讐したのです」


 それは北川の研究を犠牲にして作られた血清のもう一つの真実。


 当時、金を持った多くの貴族が南山研究室に研究費の支援を行っていた。


 対価は研究で得られた破傷風の抗毒素血清。


 そう。


 あの折、北川から奪った馬で作られた血清を得たのは南山たちだけではではない。


 残りの多くは出資していた上流階級の人間達に渡されたのだ。


「北川は薬売りに予防薬と偽った病原菌を売る際、一定数を特定の貴族に売ることを指示していました。


 それは、あの時作られた血清を受け取った出資者しゅっししゃ


 売る際も秘密裏にと言われていたようです。


 その時点で、薬が正規品でないのは明白。


 それでも彼らは買った。


 しかし、逆を言えばそれは試されていたのです。


 怪しい薬を欲せず、北川の研究を犠牲ぎせいにして作られた血清で我慢をしておけば、華族達は桜病に罹ることはなかった。


 欲をかいたばかりに自ら首を絞めることになったのです」


 西野は縛り出すような声で話を続ける。


「北川の日記には娘の血を使うことに苦悩しながらも、妻を奪われた憎しみで心が蝕まれていく自身の心情がせつせつとつづってありました」


 日記帳にはところどころ血が付いていた。


「彼は娘からもらってしまった桜病に罹り、血を吐きながらも計画を進めていました。


 そうして、桜の花が散り終わった頃、復讐をやり遂げ、壮絶に死んだ。


 私はそこでやっと自らが行ってしまった過ちの大きさに気づきました。


 結局、私たちが強引に奪った北川の研究は北川の妻の命、回りまわって私たちの妻の命を奪っていったのですから」

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