第九章 ⑦(※大人表現ご注意ください)


 千鶴はいつもより丹念たんねんに入浴を済ませた後、桐秋の寝室へと向かう。


 着ているのは、白い襦袢じゅばんに薄い桜色の羽織。千鶴なりの花嫁衣裳のつもりだ。


 短い廊下を緊張しながら進み、桐秋の部屋の前で一つ息を吐いて静かに扉を開ける。

 

 行灯あんどんの薄灯りの向こうには最愛さいあいの人が待っていた。


 部屋に入る前はこれを結婚初夜と考えるならば、夜の挨拶が必要だろうか、などと考えていた。


 三つ指をつき、夫となる桐秋に未来永劫みらいえいごうの愛を誓う。


 しかし、桐秋と視線がまじわった瞬間、そんなことは必要ないのだと知る。


 今は言葉ではない、ただただ千鶴の存在が求められている。


 熱をもった漆黒しっこくの瞳に吸い込まれるように、千鶴は桐秋の胸に飛び込んだ。


 桐秋は大きな懐に千鶴を包み込むように受け入れる。


 しばし抱き合いながら、互いの熱を分かち合う。


――やがて桐秋と千鶴は自然に見つめ合う。


 顔と顔の距離がゆっくりと近づき、・・・本当の意味でやっとふれあった。


 一回目はそっとふれるだけ、二回目は角度を変えて、三回目は、桐秋が千鶴をからめとって。


 千鶴の息が荒くなっていることに気付き、桐秋がゆっくりと唇を離すと、千鶴は頬を染め、瞳を潤ませてこちらを見ていた。


 夢現ゆめうつつの中にいるような千鶴の悩まし気な表情に、桐秋が欲を刺激され、再び唇を合わせようとすると、千鶴は拗ねたように唇をすぼめる。


「慣れていらっしゃるのですね」


 濡れた上目使いの瞳で桐秋を睨む愛おしい女。


 その愛らしい表情と嫉妬に、桐秋は顔が緩む。


 しかし、それをぐっと堪え、誠実に、それでいて正直に告げる。


「一夜限りの不誠実な真似がなかったとは言わない。


 それに幼い頃、花の妖精に出会って芽生えた淡い想いが恋というなら、あれが私の初恋だろう。


 だが、この焦がれるような、いつまでも燃え盛っているような激しく狂おしい想いを抱いたのは、君が初めてだ」


 桐秋はこれではダメか、と妖艶ようえんでいて、どこか子犬のような寂しげな瞳で千鶴を見つめてくる。


 千鶴は桐秋の情熱的な言葉を嬉しく思う一方で、あざとい瞳にほだされたことが悔しく、赤らめた顔で頬を膨らます真似をする。


 本当は怒ってなどいない。


 千鶴はそんな桐秋も含め、愛しいのだ。


 桐秋もそれをきっと分かっている。


 千鶴の怒った真似も続かず、いっときすると二人は顔を見合わせ笑い合う。


 ひとしきり笑うと千鶴は、ころりと表情を変え、すこし切なそうに桐秋に問いかける。


 それは愛する男に愛されて開花した、清廉でいて妖艶な、夜桜のような女の表情。


「桜は好きですか」


 桐秋は寸暇の迷いすら見せず、千鶴の頬を優しく撫でながら、


「好きだ」


 と柔らかに笑み、告げる。


 この夜、千鶴から放たれる言葉に対し、桐秋から否定の言葉は出ないだろう。


 答えを聞いた千鶴は、その大きな手に頬をり寄せながら、桐秋が見てきた中でいっとうの、極上の笑みを浮かべる。


――どんな見事な桜さえ叶わない、爛漫らんまんに咲き誇る美しい笑み。


 それに引き付けられるようにして、桐秋は再び千鶴の濡れた桜色の唇を貪る。


 千鶴も必死にすがり付くが、息を吸うのが精一杯で、はふはふと口先を動かしながら懸命けんめいに新しい空気を求める。


 そんな初々ういういしさに、桐秋はより慎重に丁寧に千鶴の体を暴いていく。


 瞼、頬、首筋、千鶴の身体が、桐秋の大きな手で柔らかに撫でられ、その後をしっとりとした口づけがなぞるように落ちていく。


 肌が見えているところはあますところなく。


 しかし、それが手の指にうつったとき、桐秋は顔をしかめた。


「これはどうした」


 桐秋に持たれた千鶴の薬指からは、ぷつりと血が滲みだしていた。千鶴は気まずそうに告げる。


「入浴の際、木桶きおけのささくれに手を差してしまいました。


 破片はへん自体は取り除いたのですが、血まで出ていたとは気づきませんでした。


 よほど慌てていたのですね」


 そう笑う千鶴に桐秋は仏頂面で告げる。


「以前もいったと思うが、君は自分のことに無頓着むとんちょくすぎる」


そんな桐秋の優しいお小言に千鶴は笑い、


「ただのささくれですよ」

と言う。


 桐秋はそれでもだ、と血を吸い取るように舐めて譲らない。


 ほんとうにつばをつけて治るような傷だ。


 実際に今それをされているが。


「どんなに些細な傷であろうが、愛する女が傷ついていいと男は、・・私は思わない」


 そう言い直された桐秋の言葉に、千鶴は泣きそうな表情で微笑み、抱き着いた。



 桐秋の唇での愛撫は上から下にゆっくりと降りていき、足の先端にもおよぶ。


「君の小さな可愛らしい桜貝さくらがいのような足の爪が好きだ」


 そう桐秋に言われ、ゆっくりと一本、一本、足の指をなぞられる。

 

 千鶴の体は桐秋にふれられるたび、甘いしびれが走る。


 いつだったか、足袋の上からふれられた時と同じ痺れ。


 こうして直にふれて愛されている今なら、千鶴にもあれが、桐秋にふれられるが故の喜びからくる感覚なのだと分かる。


 桐秋は千鶴にふれることで蓄積ちくせきされる自身の体温に堪えられず、上半身をあらわにする。


 ぼんやりと薄灯りに白い体が浮かび上がり、そこに現れる無数の色づいた斑点。


 桐秋の愛撫に、熱に浮かされていたようになっていた千鶴だったが、桐秋の体を見た瞬間、ぼやけていた視界が鮮明になり、それに焦点が合ったかのようにくぎ付けとなる。


 すると気付いた時には、蜜を求める蝶のように体が桐秋の肌に引き寄せられ、花びらの一つに口づけていた。


 ゆっくりと唇を押しつけて離す。


 それが終わったら、一つ、さらにもう一つと浮かび上がるまだらの数だけ口づけていく。


 これは桐秋という木から現れた甘い樹液。


 桜の木が全体に満ちる紅の樹液を、花の色としてほんの少し外に漏らすように、桐秋の中をくまなく流れている血液が、薄紅の紋様として桐秋の肌に無数に現れている。


 千鶴はそれがひどく愛おしかった。


 丁寧に、漏らさぬように千鶴は唇を押し当てていく。


 その行為に桐秋の理性は崩れ去る。


 気付けば千鶴の視界は反転していて、背中が柔らかいものに押し付けられていた。


 桐秋が荒々しい口づけと共に、千鶴に体重を預けてくる。


 千鶴の襦袢の紐がしゅるりと解かれる。それが夜の始まり。


 千鶴は桐秋の愛撫あいぶによって、優しく、激しく紅潮させられる。


 許しを請うようでいて、すべてを暴くような、桐秋の慈しみに満ちながらも狂おしい愛を、千鶴は大きな背中に手を回し、受け入れる。


 桐秋も最後の灯を千鶴に捧げた。


 この特別な夜は、桐秋と千鶴にとって最愛の夜であり、最後の夜だった。





――――翌日、桐秋の隣の冷めたしとねにあったのは、愛を交わした女ではなく、愛の証の桜が本物の桜と並ぶように通された桜の折り枝と、それに結びつけられた一言だけのふみ



『貴方の人生が、さいわいなものでありますように』



この日以降、桐秋が千鶴と会うことは二度となかった。

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