第九章 ⑥

 桜が固い蕾の殻から、淡い花びらを覗かせ始めた頃。


 桐秋は血を吐くことがありながらも、なんとか小康状態しょうこうじょうたいを保っていた。


 出会った時と比べると、肌はますます透けるように白くなり、桐秋を現実に表すいっさいの線が細くなった。


 着物の合わせから除く鎖骨さこつも肉がそぎ落とされ、骨そのものが浮き出ているように見える。


 それらの症状は桐秋の秀麗な顔に、この世のものでないような、より壮絶な美しさを付随させる。


 そんな状態にあってなお、二人は依然いぜんとして薄紙一枚の距離が開いていた。


 開いているのは、体でなく心の距離。それでも千鶴は桐秋に寄り添い続ける。


 *


 無情にも時は過ぎ、桜はいよいよ開花の猶予を知らせ始める。


 その日、千鶴は母屋から桐秋宛の荷物を預かった。


 千鶴の手にも収まる小さな箱。


 こういう荷物があることは初めてなので、千鶴はなんだろうと思いながら桐秋の元まで持っていく。


 桐秋は布団から起き上がり、障子を開けて、庭の桜の木を眺めていた。


 千鶴は桐秋に声を掛ける。


「桐秋様、荷物を預かりました」


「そうか」


 千鶴の言葉に桐秋は短く答える。


 桐秋はこの箱の中身を知っているようだった。


 桐秋は千鶴の方に居直り、目を合わせる。


 あの夜逸らされてからいままで、合わされなかった目がそこで、ピタリと重なった。


「今から君の一生を縛り付けることを言うが、いいだろうか」


 そう言って千鶴の目を見つめるまなこは、何かを諦めている顔ではない。

 

 これからの、未来のことを告げるまなざし。いつにもまして生気を感じさせる瞳だ。


「良ければ、その小箱を開けてほしい」


 桐秋からの言葉に、千鶴はなんの躊躇いもなく小箱を開けた。


 どんな未来になろうと桐秋のためであれば、千鶴にはすべてを捧げる覚悟がある。


 開かれた小箱の中心に収まっていたのは金の指輪。


 桜がかたどられた彫金ちょうきんの真ん中に、春の優しい光を閉じ込めた石が載った精緻な指輪だ。


「これは私が、君に、愛をちかう証の指輪だ。


 もし、私が君を愛することで子どもができ、お金に困ったらこれを売って、私たちの愛の証である子どもを立派に育ててほしい」


 その言葉を聞き、千鶴は、桐秋が自身の想いを受け入れてくれたのだと気づく。


 手放しで喜んでいいものではない、未来はあるが、そこに・・はいない。


 それでも、想いだけは未来に残る。


 永遠に縛られるのだ。


 凍っていた千鶴の心がゆっくりと解けていく。



「私は桜のような君が、何にも代えがたく、あいくるおしい」



 千鶴は桐秋から告げられる愛に、胸が詰まるほどの苦しさと愛おしさを抱く。


 瞳からは想いのつゆがこぼれ落ちる。


 桐秋は遅くなって済まないと、千鶴の美しい雫を優しく拭った。


 千鶴はとめどなくあふれる想いをどうしてよいか分からず、心のおもむくままに、桐秋に抱き着く。


 そうすることでしか、次から次へと心の内から湧き出すこの感情を、桐秋に伝えることができなかった。


 人を愛すということは、こんなにも人の心を、惑わせ、疲弊ひへいさせ、満たすのだ。


 桐秋もそんな千鶴を、その細くぬくい身体を、心ごと抱きしめる。


 たましいだけは、想いだけは、強く、強く、離れぬようにと。



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