第六章 ②

 休憩が終わり、桐秋は研究を再開させるため、本に挟んだ栞のページを開く。


 庭の季節の花が咲くたび、千鶴が渡してくれる押し花の栞だ。


 栞の花は厚紙あつがみ薄和紙うすわしの間にみ取られる前の色、形をありありと残して美しく収められており、桐秋が出来を褒めると、千鶴は祖父に作り方を習ったのだと教えてくれた。


 栞は桐秋の部屋のあらゆる本に挟まっており、それだけの時を千鶴と過ごしてきたという証でもある。


 桐秋はその事実を幸せに思いながらも、千鶴の気配がある物にれるたび、考えてしまうのは千鶴のこと、その想い人のこと。


 ――私には心に想う方がいます。


 千鶴の言葉が桐秋の胸にぽつんと落ちて、心の湖面に波紋はもんを起こす。


 千鶴の想い人とはいったい誰なのだろう。


 言葉の雰囲気からは長いこと想っているようにも感じ取れた。


 桐秋は千鶴が今まで生きてきた日々のことを思う。


 栞が随分ずいぶんと増えてきたことを見て、桐秋は千鶴と過ごした期間が勝手に長いような気がしていた。


 けれど、言葉にしてみればたった半年。


 二十年近く生きてきたという彼女のことを知ろうとしても、てんで足りない月日だ。


 それでなくとも千鶴は、桐秋のことは聞きたがるが、自身のことは話したがらない。


 千鶴は小鳥のようによくしゃべる。


 だがそれは、桐秋の体調のことを尋ねたり、上手く漬物が漬けられたのだとかいう日常のなんてことのない会話。


 自分自身の「私」のことになると、ゆっくりと、自然に、確実に、話を逸らす。


 それがこの半年、千鶴と過ごす中で桐秋が気づいたこと。


 千鶴の好きなものさえ、明確に本人の口から聞いたのは着物についてだけかも知れない。


 それさえまだ親しくなり始めて日が浅く、珍しく桐秋から問われたこともあり、教えてくれたように思う。


 年や家族についても、南山から来春成人であり、医者の父親がいると聞いたくらいで、本人からは聞いていない。


 栞の作り方を祖父に習ったのだという、桐秋からすればなんてことのないように感じる話さえ、千鶴はほんの少し、考えるような間を置いてぽつりと言葉をこぼした。


 千鶴が桐秋のことをよく理解してくれていても、桐秋は千鶴のことをまるで分かっていない。


 桐秋はそのことを理不尽に感じてしまうが、患者と看護婦の関係ならば仕方のないこと。


 ――そう思おうとした。


 だがしかし、誰の目にも明らかな清廉せいれんな関係性を考えの落としどころにするたびに、桐秋の心はすさまじい感情の反発を起こす。


 ――千鶴は何が好きで、どんな人生を歩んできたのか知りたい。


 何気なく聞きだそうともするが、千鶴はその気配を感じとると、さっと薄いまくを貼る。


 桐秋を強く拒絶きょぜつする強固きょうこなものではなく、傷つけずに優しく跳ね返すやわらかいゴムのようなもの。


 でもそれは固い壁よりもずっと壊しがたいのだ。


 ――何か事情があるのか、親しくなれたと思っていたのは自分だけなのか。


 人のことを自ら知ろうとすることが、こうも難しいことかと桐秋はこのよわいにして初めて知る。


 ただでさえ桐秋自身口下手である。


 これまであまり人と多く喋ることの必要性を感じず、話すことの技能を磨いてこなかった。


 そもそも、そうするほどに他人に興味を持てなかった。


 ところが今は、その人生の有り様をくつがえすほどに千鶴に感心を寄せている。


 こうして思い悩み、昔交わした大切な約束に支障を与えてしまうほどだ。


 一方で、知ってどうするのかという気持ちもある。


 この先長い千鶴の人生に関わることのできない桐秋が、千鶴のことを知りたいというのは、千鶴を想うが故の桐秋の勝手な欲。


 一時の感情で、自分のことを話すことをとしない千鶴を困らせることにならないか。


 相反する想いを心の中でしきりにせめぎ合わせながら、桐秋が栞を見つめていると、部屋の外から声が掛かる。


「桐秋様。入ってもよろしいでしょうか」


 桐秋が千鶴の入室を求める声に答えると、千鶴は湯飲みを乗せた盆を持って部屋に入ってくる。


「先ほどアイスクリームを召し上がっていらしたので、熱いお茶でもと思いお持ちしたのですが。いかがですか」


 千鶴の心遣いに桐秋は頷く。


 千鶴は机に湯飲みを置こうとして、桐秋の手元にある栞に気づき、顔をふわっと明るくする。


「栞、使っていただいているのですね。


 その花はコスモスという花です。種をいただいたので春にいてみたのですが、とても可愛らしい花が咲きました。


 まるで秋に咲く桜の花のようではありませんか」


 嬉しそうに告げる千鶴の言葉に、桐秋は秋に咲く桜か、言い得てみょうだなと思う。


 確かに花弁かべんの形といい、色合いといい、似ているかもしれない。


 そういえば、千鶴は出会った時も桜の話をしていたなと思いだす。


 これくらいなら知ることが許されるだろうかと桐秋は千鶴に尋ねる。


「君は、桜が好きか」


 千鶴は、桐秋からの唐突な質問に驚いたのか、きょとんと目を見開く。


 そして桐秋の手元にある花に視線を落とし、優しいまなざしを向けながら


「はい、好きです」


 と明確に肯定した。


 静かで慈愛じあいに満ちた表情。


 桐秋はそんな千鶴の面持おももちにしばし見とれた。


 彼女と半年生活を共にしているが、こんな顔を見たのは初めてだ。


 彼女は常に明るい表情を見せていることが多い。


 が、ここまで何かを、心の底から愛おしそうに、しっとりと見つめているということはなかった。


 前に少し覗かせた素の表情に似ているだろうか。


 似ているというより、これがあの時見せた表情よりも、彼女のずっと奥にある本当の素の顔なのだと思う。



 そんな何かを愛でる千鶴の心ゆかしい姿に、桐秋の中のパンパンにはった薄い心の膜が、針で突いたように一瞬でプツンと弾け、中身がころんとまろびでる音がした。



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