第一章 ②
この日も何事もなく診察が終わり、診療所を閉めようと千鶴は表の掃き掃除をしていた。
すると目の前に、この辺りではあまり見かけない自動車が止まる。
診療所の周辺は下町の庶民が集まる地域で、自動車を持っている者自体少ない。
急患の患者であれば、少し離れた大きな病院に行くだろう。
不思議に思いながら、千鶴が車を見つめていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
出てきたのは、体格のしっかりとした壮年の男性。
見上げるような背丈に、仕立てのよいスーツをまとい、口ひげを
男性の威圧感に、千鶴はこころともなく箒(ほうき)の柄を握る手に力を込める。
それでも勇気を出して、男性に声をかけようとした。
が、男性は千鶴が声を出す前に、千鶴の目線に合わせていきなり腰を折る。
眼前に険しい顔が来て動けなくなった千鶴に、男性は厳しい顔から一転、くしゃくしゃなしわができるほどの笑みを浮かべる。
予想外の笑顔を向けられた千鶴は、あっけにとられ、先ほどとはまた別の意味で動きを止める。
そんな千鶴の様子を察してか、男性は
「すまない。自動車で来てしまい、少し驚かせてしまったかな」
と少し的はずれではあるが、低く優しい声をかけてくれる。
その声に千鶴は、はっとし、いえと言葉を返す。
男性はそれにほっとしたような顔になると、
「
と千鶴に尋ねた。
西野先生とは千鶴の父のことだ。
「父はおりますが・・・。失礼ですが、父とはどういったご関係でございましょうか」
千鶴が恐る恐る尋ねると、
「これは名乗らずに失礼。私は、
西野先生は昔、大学で私の助手をしてくれていたんだ。
その関わりで少し頼みたいことがあり、急で申し訳ないが尋ねさせてもらった」
南山は穏やかな表情のまま、丁寧に説明してくれる。
千鶴はそれに納得すると、
「そうだったのですね。大変失礼いたしました。父は奥におりますので、ご案内いたします」
そう言って南山を家の中に迎え入れた。
*
千鶴は応接間に南山を通すと、診察室にいた父に声をかける。
「お父さん。南山様という方がいらっしゃいました」
診察具の消毒をしていた千鶴の父は、娘が告げた言葉に動きを止める。
「南山・・・」
そして確認するように千鶴が告げた名前を繰り返すと、持っていたハサミを机に置き、しばし
唇を少し内側に巻き込むような表情で考え込む父を千鶴は
「お父さん、どうされました」
その声にはっとした様子で父は、
「なんでもないよ。久しぶりにお会いするから、少し懐かしい気持ちになってね。
応接間にいらっしゃるのだね。すぐに行くよ。
千鶴、すまないがお茶を頼めるかな」
そう早口で言うと、急ぎ足で部屋を出た。
*
千鶴は台所に入ると、ねずみいらずの上の扉を開け、近所の
そして、そのさらに奥から、こちらもいただきものの
竹の
砂が落ちきるのを見計らい、お湯で温めておいたティーカップに紅茶を注ぐ。
いただきもののよい茶葉だけあり、注いだそばから、
どこか果実のような爽やかさも混じる甘い香り。
千鶴は紅茶のティーカップを中心に、小壺に入れた砂糖と醤油さしに入れた牛乳を盆に置くと、用意したそれを持ち、応接間へと向かった。
*
扉を三回指で叩き、入室の許可を得て、洋室の応接間に入る。
父と南山は向かい合って座っていた。
千鶴は上座に座る南山の方から紅茶をそっとテーブルに置く。
南山はそれににこりと微笑みながら礼を言う。
父の方にも紅茶を置くが、こちらは表情も顔色もあまりよくない。
それに千鶴は違和感を覚え、声をかけようとするが、南山から先に尋ねられた。
「君は、西野先生のお嬢さんでよかったかな」
「はい。千鶴と申します」
千鶴が頭を下げると、南山はそうか、と頷きながら、
「利発そうなお嬢さんでうらやましいな。私には息子しかいないから」
とまたしても千鶴に向かってにこやかに笑った。
どこか人を安心させるような笑み。外見は怖いが、内面はとても穏和な人であるようだ。
そんな少し失礼なことを考えながら、千鶴も笑顔を返していると、父が
「千鶴。お茶をありがとう。少し下がっていてくれるかい」
いつもの穏やかな声音とは違う、硬質な有無を言わせない声に、千鶴が父の方を見ると、父は両手を膝の上で組み、考え込むような苦しい顔をしていた。
「はい」
千鶴は父の様子が気になりながらも、その声に反論できず、言われるままに部屋を出た。
*
千鶴は自室に戻らず、診察室で父が行っていた診察具の消毒の続きを行う。
急ぎの仕事ではないが、今は何か手を動かしておきたかった。
作業に没頭しながらも頭をよぎるのは、先ほど父が見せた顔。
いつも優しく、笑顔を絶やさない父のつらそうな表情。
その顔の意味を考えながら、千鶴が作業を続けていると、玄関先で音がした。
土を強く踏みしめたような音。
窓から玄関の方を見ると、南山の車が表につけられたところだった。
今しがたの音は車の停止音だろう。
――そういえば・・・
父の様子があからさまに変わったのは、南山の名前を聞いてから。
千鶴は診察室を飛び出し、玄関へと向かった。
*
運転手が開けたドアから、今にも車に乗り込もうとする南山を、千鶴は遠くから声を張り上げ、呼び止める。
「南山様」
南山はその声に振り返る。
千鶴の姿を見とがめると、車に乗り込むのをやめ、駆けてくる千鶴を待っていてくれた。
千鶴が南山の元につくと、南山は千鶴の息が整うのを待って、どうしたのか、と尋ねる。
「お忙しいところをお止めして申し訳ございません。
いきなりで大変恐れ入りますが、父と何の話をなさったのでしょうか」
予想だにしなかった千鶴の言葉に、南山は驚いた表情を浮かべる。
それにもかまわず、千鶴は矢継ぎ早に告げる。
「失礼を承知で申し上げます。
いつも
一体、南山様はどういったご用件で、本日こちらをお尋ねになられたのでしょうか」
南山は千鶴の言葉に少し眉間にしわを寄せながら、難しい顔をする。
怒っているのではない、何かを考えているような表情だ。
そのまま下を向き、黙る南山に千鶴はなおも続ける。
「父と南山様の個人的な事情で、娘の私には関係のない話かもしれません。
それでも私は、父があのような表情を浮かべていることが心配なのです」
父を想う娘のまっすぐな言葉。
南山も思わず声を漏らす。
「いや、君に関係ないことではないが」
「では、なおのこと教えていただけませんか」
迫る千鶴に、南山が顔を上げると、千鶴の真剣なまなざしと交わる。
大の大人である南山もたじろぎそうなほど強い目だ。
それに元来の目的で言えば、南山は千鶴に関わる話で西野にお願いに来た。
本人に話さない理由はない。
ただ、父親である西野に断られたので、持ち帰ろうと思っていたところだった。
南山は西野に対する後ろめたい気持ちを抱えながらも、千鶴の
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