第一章 ②


 この日も何事もなく診察が終わり、診療所を閉めようと千鶴は表の掃き掃除をしていた。


 すると目の前に、この辺りではあまり見かけない自動車が止まる。


 診療所の周辺は下町の庶民が集まる地域で、自動車を持っている者自体少ない。


 急患の患者であれば、少し離れた大きな病院に行くだろう。


 不思議に思いながら、千鶴が車を見つめていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきて、後部座席のドアを開けた。


 出てきたのは、体格のしっかりとした壮年の男性。


 見上げるような背丈に、仕立てのよいスーツをまとい、口ひげをたくわえた顔はいかめしい。


 男性の威圧感に、千鶴はこころともなく箒(ほうき)の柄を握る手に力を込める。


 それでも勇気を出して、男性に声をかけようとした。


 が、男性は千鶴が声を出す前に、千鶴の目線に合わせていきなり腰を折る。


 眼前に険しい顔が来て動けなくなった千鶴に、男性は厳しい顔から一転、くしゃくしゃなしわができるほどの笑みを浮かべる。


 予想外の笑顔を向けられた千鶴は、あっけにとられ、先ほどとはまた別の意味で動きを止める。


 そんな千鶴の様子を察してか、男性は


「すまない。自動車で来てしまい、少し驚かせてしまったかな」


 と少し的はずれではあるが、低く優しい声をかけてくれる。


 その声に千鶴は、はっとし、いえと言葉を返す。


 男性はそれにほっとしたような顔になると、


西野にしの先生はいらっしゃるかな」


 と千鶴に尋ねた。


 西野先生とは千鶴の父のことだ。


「父はおりますが・・・。失礼ですが、父とはどういったご関係でございましょうか」


 千鶴が恐る恐る尋ねると、


「これは名乗らずに失礼。私は、南山みなみやまという者だ。帝国大学ていこくだいがくで医学の教鞭きょうべんをとっている。


 西野先生は昔、大学で私の助手をしてくれていたんだ。


 その関わりで少し頼みたいことがあり、急で申し訳ないが尋ねさせてもらった」


 南山は穏やかな表情のまま、丁寧に説明してくれる。


 千鶴はそれに納得すると、


「そうだったのですね。大変失礼いたしました。父は奥におりますので、ご案内いたします」


 そう言って南山を家の中に迎え入れた。

 千鶴は応接間に南山を通すと、診察室にいた父に声をかける。


「お父さん。南山様という方がいらっしゃいました」


 診察具の消毒をしていた千鶴の父は、娘が告げた言葉に動きを止める。


「南山・・・」


 そして確認するように千鶴が告げた名前を繰り返すと、持っていたハサミを机に置き、しばしうつむいた。


 唇を少し内側に巻き込むような表情で考え込む父を千鶴はいぶかしみ、再び声をかける。


「お父さん、どうされました」


 その声にはっとした様子で父は、


「なんでもないよ。久しぶりにお会いするから、少し懐かしい気持ちになってね。


応接間にいらっしゃるのだね。すぐに行くよ。


千鶴、すまないがお茶を頼めるかな」


 そう早口で言うと、急ぎ足で部屋を出た。

 千鶴は台所に入ると、ねずみいらずの上の扉を開け、近所の骨董こっとう好きの老人から貰ったティーカップを二客にきゃく、奥から引き出す。


 そして、そのさらに奥から、こちらもいただきものの舶来品はくらいひんの紅茶缶を取り出した。


 竹の茶匙ちゃさじでカップ分の茶葉を急須きゅうすに入れ、熱いお湯を注ぐと同時に、用意していた砂時計を逆さまにする。


 砂が落ちきるのを見計らい、お湯で温めておいたティーカップに紅茶を注ぐ。


 いただきもののよい茶葉だけあり、注いだそばから、かぐわしい匂いが部屋いっぱいに拡がる。


 どこか果実のような爽やかさも混じる甘い香り。


 千鶴は紅茶のティーカップを中心に、小壺に入れた砂糖と醤油さしに入れた牛乳を盆に置くと、用意したそれを持ち、応接間へと向かった。

 扉を三回指で叩き、入室の許可を得て、洋室の応接間に入る。


 父と南山は向かい合って座っていた。


 千鶴は上座に座る南山の方から紅茶をそっとテーブルに置く。


 南山はそれににこりと微笑みながら礼を言う。


 父の方にも紅茶を置くが、こちらは表情も顔色もあまりよくない。


 それに千鶴は違和感を覚え、声をかけようとするが、南山から先に尋ねられた。


「君は、西野先生のお嬢さんでよかったかな」


「はい。千鶴と申します」


 千鶴が頭を下げると、南山はそうか、と頷きながら、


「利発そうなお嬢さんでうらやましいな。私には息子しかいないから」


 とまたしても千鶴に向かってにこやかに笑った。


 どこか人を安心させるような笑み。外見は怖いが、内面はとても穏和な人であるようだ。


 そんな少し失礼なことを考えながら、千鶴も笑顔を返していると、父がさえぎるように告げた。


「千鶴。お茶をありがとう。少し下がっていてくれるかい」


 いつもの穏やかな声音とは違う、硬質な有無を言わせない声に、千鶴が父の方を見ると、父は両手を膝の上で組み、考え込むような苦しい顔をしていた。


「はい」


 千鶴は父の様子が気になりながらも、その声に反論できず、言われるままに部屋を出た。

 千鶴は自室に戻らず、診察室で父が行っていた診察具の消毒の続きを行う。


 急ぎの仕事ではないが、今は何か手を動かしておきたかった。


 作業に没頭しながらも頭をよぎるのは、先ほど父が見せた顔。


 いつも優しく、笑顔を絶やさない父のつらそうな表情。


 その顔の意味を考えながら、千鶴が作業を続けていると、玄関先で音がした。


 土を強く踏みしめたような音。


 窓から玄関の方を見ると、南山の車が表につけられたところだった。


 今しがたの音は車の停止音だろう。


――そういえば・・・


 父の様子があからさまに変わったのは、南山の名前を聞いてから。


 千鶴は診察室を飛び出し、玄関へと向かった。

 運転手が開けたドアから、今にも車に乗り込もうとする南山を、千鶴は遠くから声を張り上げ、呼び止める。


「南山様」


 南山はその声に振り返る。


 千鶴の姿を見とがめると、車に乗り込むのをやめ、駆けてくる千鶴を待っていてくれた。


 千鶴が南山の元につくと、南山は千鶴の息が整うのを待って、どうしたのか、と尋ねる。


「お忙しいところをお止めして申し訳ございません。


いきなりで大変恐れ入りますが、父と何の話をなさったのでしょうか」

 

 予想だにしなかった千鶴の言葉に、南山は驚いた表情を浮かべる。


 それにもかまわず、千鶴は矢継ぎ早に告げる。


「失礼を承知で申し上げます。


いつも柔和にゅうわな表情を浮かべております父が、南山様がこちらにいらしたときから、とても苦しそうな顔をしております。


一体、南山様はどういったご用件で、本日こちらをお尋ねになられたのでしょうか」


 南山は千鶴の言葉に少し眉間にしわを寄せながら、難しい顔をする。


 怒っているのではない、何かを考えているような表情だ。


 そのまま下を向き、黙る南山に千鶴はなおも続ける。


「父と南山様の個人的な事情で、娘の私には関係のない話かもしれません。


それでも私は、父があのような表情を浮かべていることが心配なのです」


 父を想う娘のまっすぐな言葉。


 南山も思わず声を漏らす。


「いや、君に関係ないことではないが」


「では、なおのこと教えていただけませんか」


 迫る千鶴に、南山が顔を上げると、千鶴の真剣なまなざしと交わる。


 一切濁にごりのない透明なひとみは、口をつぐむことを許さないとばかりに訴えかけていた。


 大の大人である南山もたじろぎそうなほど強い目だ。


 それに元来の目的で言えば、南山は千鶴に関わる話で西野にお願いに来た。


 本人に話さない理由はない。


 ただ、父親である西野に断られたので、持ち帰ろうと思っていたところだった。


 南山は西野に対する後ろめたい気持ちを抱えながらも、千鶴のちょくと己を見つめるまなこには逆らえず、ここを訪れた用向きを語り始めた。

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