第一章 ①

 乙女は鏡台の前に座り、くせのある黒く長い髪をツバキ油が塗られた木櫛きぐしで丁寧にすく。

 

 一通り、髪に櫛をいれると、乙女は毛髪を左右、後部の三か所に分ける。


手慣れた様子で左右の髪を三つ編みに結うと、カチューシャのようになるよう頭頂部で交差させ、頭にくるりと巻付まきつける。


残った後ろ髪も、大きな三つ編みを作り、そっと背に垂らす。


 明治めいじが終わって十年。

 

 明治期に推奨すいしょうされた西洋風の簡単なまとめ髪である束髪そくはつは、手軽さや普及本の甲斐もあり、今や日常の髪形として多くの女性に取り入れられている。


 鏡に向き合う乙女もその一人だ。


 乙女の髪は毛量が多く、綺麗きれいにまとめるのは毎朝一苦労である。


 それでも短く切らないのは、この髪を褒めてくれた人がいるから。 

   

 最後に殺菌消毒した布の手袋と、着物の上に白衣を身に着け、看護婦かんごふ西野にしの千鶴ちづるの身支度は終わる。


 鏡台を見つめ、髪や服装に乱れがないことを確認する。


 朝の静謐せいひつな空気の中、髪をまとめ、白衣を着るとしゃんとした気持ちになる。


 千鶴にとっての一日の始まりだ。


 身支度を済ませ、自室から診療所に向かう外廊下に出れば、春をにおわせる庭の瑞々しい朝の風景が目に入る。


 数日前まで緑一色だった固いつぼみたちは、柔らかなふくらみをたたえ、自分たちの持つ一番鮮やかな色を覗かせつつある。


 もう少しで存分にその美しさを堪能たんのうできるようになるだろう。


 春は目を喜ばせる花が多い。

 

 雪柳ゆきやなぎのあふれ、こぼれんばかりの揺れる白。

 

 すみれの可憐な紫。


 水仙すいせんの黄の顔料がんりょうを少しだけ水に垂らしたような淡黄色たんこうしょくに、

 

 菜の花のまぶしく鮮烈せんれつな明るい黄色。


 さらに、色とりどりの花たちがほころぶ季節は、この国随一の美しさを持つ木も、その所以ゆえんたる麗しい淡紅たんこうの花を咲かせる時期である。


 地面に艶やかに咲き誇る花たちを、誰より高い場所から見下ろす高貴な花。


 その明媚めいびな情景を思い浮かべると、千鶴はますます春が待ち遠しくなる。


 春待つ想いに心を寄せ、一層やる気がでた千鶴は足取り軽く、診療所の方へ歩みを進めた。  

 西野にしの診療所しんりょうじょの仕事は朝の清掃から始まる。


「病院はいつでも清潔に保たれていなければならない」


 医師である千鶴の父がいつも口を酸っぱくして言っている言葉だ。

 

 特に町の診療所は地域の住民にとって最初に駆け込む病院であり、患者はどんな病を抱えているかわからない。

 

 したがって患者の病を悪化させる原因を作ってはいけないし、他の患者にもうつしてはならない。


 事前に防ぐため、気をつけておくことは、病院を常に清潔に保っておくこと。


 千鶴もそれを心に留め、重箱の隅を楊枝ようじでほじくるように、毎朝、隅の隅まで掃除している。


 千鶴は最後に靴箱の棚を拭き上げると、竹箒たけぼうきを持ち玄関先に出る。 

 

 そうして掃き終える頃になると、いつも最初に来る近所の山高帽やまたかぼうを被った老紳士を笑顔で迎えるのだ。

 診療所での千鶴の仕事は多岐にわたる。

 

 医師である父の補佐から、経理、はたまたご近所の献立相談まで。


 文明開化ぶんめいかいかより半世紀。


 多種多様な西洋の波が生活に浸透しつつある時代。


 束髪もその一つであるが、食文化にも影響は及んでいる。


 西洋料理が出先で食べられようになり、西洋野菜の栽培も行われるようになった現在。


 西洋の食を身近に感じられるようになってきたが、それを日常生活に取り入れるとなると悩む人も多い。


 そこで千鶴は、看護婦養成所かんごふようせいじょで受けた西洋料理や栄養配分についての授業を生かし、西洋野菜やこれまで飲食の行われてこなかった栄養価の高い牛乳を使った献立を積極的に考案している。

 

 料理はできるだけ手軽に作れるものをと意識しているため、近所の奥様方にも好評だ。


 まだまだ看護婦としては新米の千鶴だが、少しずつ己になせることを考え、実践している。献立づくりもその一つだ。


 朝の忙しい時間を過ぎると、父は往診に出向き、千鶴は待合室に場所を移す。


 父は診療所に来る人を誰でも拒まない。そのせいで、待合室は老人の寄合所となっているが、父はそれも治療の一環だと言う。


 診療所に来て、誰かと話すことは物忘れの防止になるし、安否確認にもなる。


 千鶴もその父の考えに賛同しているし、千鶴自身、お年寄りと話すことは好きだ。


 長く人生を歩んでいる人と話していると、若い千鶴は教わることが多い。

 

 人生の先輩達は、昔ながらの薬草の使い方や、漬物の塩加減のコツなど、生きていく上で役に立つ、古くも新しい知識を毎度千鶴に優しく教えてくれる。


 父と二人暮らしの千鶴にとって、自身を孫のように扱ってくれる老人たちのまなざしは温かく、その柔らかなぬくみをありがたく感じながら、千鶴は今日も年長者の長い話に耳を傾けるのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る