第17話 プロポーズ
白いケーキの箱、そのフタの裏側、天の部分のまん中辺り、たぶん赤のボールペンで書かれた小さな文字。
『最後に ひとつだけ 言葉を聞かせて』
これは何?義人は知っているの?典子は、明るい所へ持って行って、義人にそれを見せた。義人は小さく驚いた。
「ええ⁉こんなとこに字書いてあった?全然気づかなかった…………」
「なんか意味あるの?思いつくことない?」
「いや………何かな…………きっと、この前来た時書いたんだ。いじってたから」
義人に訊いてもだめだ。典子は、縁側のそばまで行き、箱を抱いて坐りこんだ。
吸い込まれるように、その字を見つめる。小さな赤い文字。
『最後に ひとつだけ 言葉を聞かせて』
軒のトタンを打つポタンポタンと言う雨だれの音が典子を包む。涙が落ちる音にも聞こえる。瞬間…………背中にゾワッと電気が走った。振り向いて叫ぶ。
「彼女、持ってきて欲しいって言ったんでしょ?この箱!」
「そう…………」
「じゃあ、持ってってあげなきゃ。返事書いて」
「返事を書くの?そこへ?」
「だって、箱を返してって言うんだから、そういうことでしょ?ここに書いて欲しいのよ」
義人も後ろから箱を覗き込む。小さな声で「最後…………って」とつぶやく。典子が振り向く。かなり顔が近いけど、そんなこと気にしない。真っ直ぐに義人を見る。
「最後にしちゃって、いいの?」
「………………」
「ほんとにいいの?彼女は、最後のチャンスをくれてるのよ」
「俺は…………」
義人はかがんでいた背を伸ばした。
「離れてみて、分かったんだけど…………やっぱ…………」
「どうなのよ…………」
「やっぱり、放したくない。あいつのこと…………」
「じゃあ、書きなさいよ。今すぐに、ここで」
「書くのか?…………なんて?」
「ばか!今言ったじゃないの!放したくないって、その通り書けばいいのよ」
「わ、わかったよ…………」
義人は、机の所へ戻って、ボールペンを持ってきた。「なんて書こう」
「もう!だから、『俺は、お前を放したくない』って書きなさい」
義人は書き始めたが、ボールペンがかすれて書けない。奥に戻り、別のペンを試し書きしている。「ダメだな…………書ける奴は、みんな会社に行ってる」
「何かないの?」「マジックしかない」「マジックでいいよ」
義人は、細めのマジックインキで書き始めた。
『オレは、本当は、お前を放したくない』なんだかぎこちない。字も泳いでる。
「彼女、名前は?」
「洋子」
「ヨウコさん?…………」
「あっ、そういえば、お前の先輩だぞ。西日本大学」
「えっ⁉まさか、京都文化研究会じゃないよね…」
「ああ、そういえば、そんなこと言ってた。でも、だいぶ上だよ。俺よりも、3つも年上なんだ」
「へえ……そうなんだ」
典子の部室の壁の落書き『洋子は怒んないよ。なぜだか知らないけど優しいんだ』まさか、あの洋子さんだろうか……………。
義人が一筆書いて終わってしまったので、典子は「ん?」と言って睨みつけた。
「もっと書きなさいよ」
「えっ?まだ書くの?だって『ひとこと』って…………」
「何言ってんの!まだ言いたいことあるでしょ!もっと書きなさいよ!」
「な、何を書くんだ?」
「『洋子愛してるよ』って書きな」
義人の手は一度止まったが、睨みつけてくる典子の圧に負けて、言われた通りに書いた。典子はそれを見ながら続ける。
「彼女に謝ることはないの?」
「そりゃ、あるけど…」義人は素直に書き始めた。
『俺は君に甘えてたのかもしれない。随分わがままを言ってしまった。ひどいことを言ってしまったこともある。本当にごめんなさい』
義人の字は自然に落ち着いてきた。それからは、プライベートなことを含め、義人の告白めいた言葉が綴られた。典子は、横目でそれを見ていたが、天板が書き尽くされ、右側面もマジックの字で埋まって、義人の手が止まったのを見て言った。
「ねえ…………もっと、一番大事なことが書いてない」
「何?」
「『僕は、洋子を守る』『洋子を一生守り続ける』」
「えっ……それって、プロポーズじゃないか」
「だめなの?」
「だめじゃないけど、今は…………」
「自信がないとでも言うの?沢田君、自信はね、自分が努力して作るものだよ」
義人は縁側に正座して、膝の上に箱を置いている。典子は、動かない義人の右手に手を伸ばした。マジックを持っているので、右手の薬指と小指だけだったけれど、それをぎゅっと握った。
「今、ここで、本当の気持ちを言って。あたしが聞いてあげる。保証人になってあげる。結婚したいんでしょう?どうなの…………」
義人は、上を向いて大きく息を吸った。その息をゆっくり出してから言った。
「分かった…………結婚する」
「大事にする?」
「大事にするよ」
義人は典子の方に向き直った。そして言った。
「えっ…………なんで、お前が泣いてんだ………」
典子の両眼にはいっぱい涙がたまっていた。うつむいて、こくんと飲んだ瞬間に、涙が3つ、4つぱらぱら落ちてしまった。
「女はね……そういう言葉に弱いのよ………」
義人は、黙って手を動かした。『俺は、洋子を大事にする』『洋子を大切にする』『一生守り続ける』箱の左の側面が、そんな言葉で埋まっていった。それを見ながら典子が言う。
「ちゃんと、今まで、言葉にしてあげてた?言わなかったんでしょ……」
「ああ、どうかな…………確かに、あまり言わなかったかもしれない」
そうなんだ………男はいつも、言葉が足りない。言わなくても分かるだろ、みたいな、とんでもない勘違いをしている。女は、言葉で埋め尽くして欲しい。その言葉で守られたいのに。ふと気づいた。倉田君も、あまりしゃべらない人。美子も、言葉が欲しかったのかもしれない…………そう思ったら、典子は、美子を許してあげる気持ちになってきた。
左の側面が埋まり、下の側面に移ってきた。義人は調子に乗ってきて、黙々と書いている。『この箱みたいに、小さくても二人だけの世界を、大切に守りたい』
「あ、いいじゃん、それ………」「いいだろ?」
洋子さんが、箱に書いて欲しい気持ちも分かってきた。この箱は二人の世界。そこに約束の言葉が欲しかったんだ。その言葉に守られたかったんだ。
3つ年上のことも、気にしてたのかもしれない。洋子さんは、義人が押し切ってくれることだけを待っていたんだ。
からっぽのケーキの箱は、マジックで書いた義人の乱雑な字に埋め尽くされた。
義人は手に持ってそれを眺めている。まだ空いている部分がある。典子が覗き込む。
「ここ空いてる」
「何を書こう」
「愛してる」
箱は『愛してる』の文字で埋め尽くされ完成した。
「さあ!持って行こうよ。でも、こんな時間に会えるの?」
「彼女、三条大橋西詰の和菓子屋さんで売り子さんをしてる。ちょうど今、休憩時間になる頃だ。店の前まで行けば会えると思う」
「何か、紙袋にでも入れてあげないと、彼女困っちゃうよ」
「そうだな」
義人が出してきた紙袋に入れると、袋はケーキの箱で一杯に膨らむ。義人が言う。
「なんか、すごくいい物が入ってるみたいだな」
「一番いい物を入れたのよ。自信持ちなさいよ」
二人はバスで三条大橋まで行った。歩きながら打ち合わせをした。義人が彼女を誘い出し、鴨川の河川敷で箱を渡す。典子は三条大橋の上からそれを見る。いつも人がいる所だから目立たない。
典子が店から少し離れて待っていると、義人が彼女と出てきた。頭の被り物だけは取っているけど、白の上下の、売り子さんのスタイルのままだ。初めて見て驚いたこと。部室の落書きや、義人の話からふんわり想像していたイメージとは違う。ずっと華奢で、綺麗な人だ。大人びている。いい姉さん女房になりそう。義人にはもったいない気もする。プロポーズ頑張れ、義人。
義人と彼女は鴨川の河川敷に降りていった。ここら辺はアベックがいっぱい。ここでプロポーズしたって、誰も気にかけることはない。典子は、三条大橋の、木造りの古い欄干にもたれて、鴨川を眺める観光客を装っていた。
義人は、余分な話はせず、すぐにケーキの箱を出した。彼女の顔に戸惑いの色が見える。ただ約束通り箱を返されるだけだろうと思ってるんだ。彼女は義人の顔をチラと見て箱のフタを取った。フタを裏返し、その中を見て、彼女は固まってしまった。
口を開け、覗き込むようにして、そこにびっしりと書かれた文字を読んでいる。
『お前を放したくない』
『洋子を大事にする』
『洋子を大切にする』
『一生守り続ける』
『愛してる』
そんな言葉たちが、彼女の眼に飛び込んでくる。そういえば、『結婚しよう』はなかった。でも、それは義人が自分の口で言う言葉。彼女は時間をかけて、義人がくれた大切な言葉たちを読み終えた。
顔を上げた洋子さん。見つめ合い言葉を交わしている。離れているから、会話は聞こえない。でも、典子には聞こえていた。二人が交わす言葉。
洋子 「わたしでいいの?」
義人 「洋子でなきゃダメなんだ。洋子と一緒に歩いていきたい。結婚して下さい」
義人を見上げる彼女の目に涙がたまっている。それだけは勘弁して、洋子さん……わたしも、イっちゃうから…………。
洋子は小さくうなずいた……………………………終わった……………………………。
典子は欄干を離れた。もう自分の役目は終わったのだから。典子は涙を拭いて、
「洋子さんを大事にしなよ。義人」と風の中につぶやいて歩きだした。
三条大橋の東詰めには、賑やかな夕方の明かりが灯りはじめていた。この二日間で、一生分の失恋をしたような気がする。でも、わたしは負けない。まだ、これから!
典子! ………………………ファイト!
了
……………………………………………感謝………………………………………………
からっぽのケーキの箱 @aono-haiji
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