第8話 最初の夜、始まりの日の夢 ある回顧
こんな夢を見た。
霞がかかった道無き道を、俺は歩いていた。とは言っても、目の前に道があるわけではない。真っ白な上も下も区別のなさそうな空間の中で、ただ歩を進めている。振り返れば俺がこれまで歩いてきた足跡だけが、地面の上にぽつりぽつりと茶色く残っている。だから俺は、道を歩いているんだと認識していた。
この世界には全く音がない。足音もしない。ただ、足取りは軽かった。自分の好きな方向に足を向けられるというのは、なんと心地いいことだろうと思えた。
少しの変化が訪れたのは、緩やかに勾配のついた坂を登り始めた時だ。その時初めて俺の足は重力というものに捕らわれた。俺はここを進まなければならないんだろうか。嫌じゃない。嫌じゃないが、少し自由が失われた気がして、少しだけ悲しくなった。
勾配の先で辿り着いたのは一軒の家だった。
その家の印象は、とても温かかった。この家は俺を待っていた、そんな気がした。門扉をくぐって敷地を覗き込めば、正面には温もりのある木の玄関ドア、左手の庭には1本の大きな桜の木が佇んでいる。
誰かが俺の袖を引く。
「こんにちは」
子どもの声だ。声のする方を眺めてみたが、不思議と姿は見えない。
「こんにちは」
「よかった。お兄さんとラインがつながった。また来てくれてありがとう」
そういえば、なんとなくここは来たことがあるような気がする。いつだっただろう? 記憶を遡っても判然としない。
「お兄さんはこの家、どんな風に見える?」
その少し緊張した声に、改めて見直す。
木造の二階建て。白い壁、温かみのあるドア、透き通った窓。屋根。
普通の家。普通の家族が暮らす家。そうだな、例えば仲の良い両親、庭で遊ぶ子供。犬小屋があって犬がいてもいいかもしれない。鳥を飼うのもよさそうだ。そんな温かな光景が思い浮かぶ。なんとなく庭を走る子供の足音が聞こえたような気がした。
「悪くないんじゃないかな」
「そっか、嬉しいな。ありがとう」
けれどもその嬉しそうな声は、すぐに悲しそうなものに変化した。
「……でもみんな最初はそんなふうに言ってくれるんだよね。お兄さんはここの家に住みたいと思う?」
家を再び眺める。
この真っ白な世界の中で色がついているのはこの家と俺の足跡だけだ。そう思って振り返ると、俺の足跡はくねくねと蛇行しながら随分と遠くまで続いていた。
あっちから、来たんだな。
その途端、ふうっと、来し方から呼ばれる感じがした。あっちで俺を待ってる人がいる。
「どうだろうな。俺にはもう家があるから、ここには住まないよ」
「そっか。それがいいかもね。お兄さんが最初に住んでくれたらよかったのかなって。ちょっとそう思ったんだ」
変なやつだな。それは悪手だ。
俺は呪いのせいでひたすらに運が悪い。下手に住んだら全焼してもおかしくない。
「僕にはどうしても助けたい人がいるんだ。それでお兄さんに手伝ってほしいの」
「助けたい人?」
「そう、僕の大切な人。柚ちゃんっていうの」
――柚。
その言葉を聞いた時、白い空気が大きく揺らいだ。空間全体が悲鳴をあげるように。狭い部屋の中で大きな音が反射すれば、こんな風にぐらぐらするのだろうか。足元がおぼつかず、目眩がする。なんだこれ。
しばらくたつとまた世界は静寂に包まれる。
「ごめん、音を塞いでるんだった。それであの人をこの家から出してほしいんだ」
「出してほしいって……呼べばいいじゃないか?」
「僕が話しかけても出てきてくれないんだ。聞こえないみたい」
「ふうん?」
声の手にひかれるまま敷地に足を踏み入れ、白い庭にまわる。やわらかな白いカーテンのすき間から覗き込んだリビングの内側で、白っぽいソファ越しに人の頭がゆれるのが見えた。奥にキッチン、右手に襖が見える。
何故だか、見覚えがある。そして無意識に体が震えた。何故だ?
「あの人?」
「そう。お兄さんならなんとかしてくれないかなと思って」
試しに窓をコンコンと叩くが、窓がわずかにゆれるだけで、部屋の中に動きはない。
「なんで出てこないんだ?」
「この家が好きなんだよ」
「それじゃ駄目なのか?」
「うん」
その声は、とても複雑な色をしていた。
本人が納得しているならどこにいたって構わないだろうと思う。頭の位置からは大人のように思えるし。
突然、そこで俺はこれが夢だと気が付いた。
その途端、急に、空気が重みを増した。
足は地面に縛り付けられ、足元から太い蔦でも巻きつくように重力が体にまとわりつき、全てが俺を捕らえていく。その途端、重く暗いたくさんのうめき声が響きわたり、コンクリートがひび割れるように足元から世界がバリバリと割れていく。慌てて眺めた俺の足も手のひらもバリバリとクラックが広がり、深く、細かく、細分化されていく。
崩壊する白い世界の中で、家だけが無傷で取り残されている。
ああ、そうか、これは。家の夢。
「お兄さんお願い、あの人を助けて」
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