第2章 橋屋家撲殺事件
第7話 橋屋家の朝 事件前の証言
廊下に出れば、味噌汁の香りが漂っていた。階段を一階に降りれば、トントンと台所で包丁を叩く音がする。いつもと同じように、乾燥機から道着を回収してバッグに詰める。
「母さんおはよう」
「おはよう、
いつもとかわらない朝。でも1ヵ月ほど前とは少しだけ違う。
俺たちは1ヵ月前にこの家に引っ越してきた。庭付き一戸建というやつだ。庭にはすでに父さんのゴルフ練習用のネットが張られていて、庭の隅にある大きな桜の木の緑が、5月の爽やかな日差しをキラキラと反射している。
新しい部屋は前の部屋の1.5倍くらいの広さ。
すごくいい。前の家から運んだ荷物を詰め込んでもまだまだスペースは十分だ。フルリフォームっていってたかな。中古だけど、壁紙も全部ピカピカで新品とかわらない。学校は少しだけ遠くなった。けれども10分早く家を出る程度。
この家では母さんの次に起きるのが早いのが俺。空手部の朝練がある。玄関の郵便受けから新聞を回収する。父さんが毎朝読んでいる。今時ネットで十分だと思うんだけどな。
冷蔵庫から麦茶を出していると、パジャマの父さんが起きてきた。兄さんは多分昼まで寝坊だろう。大学生は朝がゆっくりでうらやましい。
「父さんおはよう、お茶飲む?」
「ありがとう、おはよう永広」
コップを追加で1つ出して麦茶を注ぐと、コポコポと涼しい音がする。春から夏に移り変わる季節が俺は好きだ。寝覚めもいい。そんな、なんということもないはずの朝。
けれども。朝食を食べてスポーツバッグを担いで家のドアノブを開けるとき、いつも通り少しだけ緊張する。
また、いるのかな。いるんだろうな、そんな予感がする。
恐る恐るドアを押し開ける。新品のドアは軋みもなくゆっくりと玄関に朝日を招き入れる。手のひらにぎゅうと汗がにじむ。
ああ、やっぱり、いる、な。
門扉の脇から細い影が伸びていた。門扉に隠れる程度の小さい影。朝の清々しい気分がじわりと翳っていく。
ここで立ち往生しても仕方がない。あきらめて扉を大きく開け、外へ足を踏み出す。東向きの玄関はいつも眩しい。眩しさで気づかないふりをして、なるべく足早に通り過ぎることができれば、と思ったけどやっぱりダメだった。
「あら永広君、おはよう」
「おはようございます、
挨拶だけで済まそうと強引に足を踏み出した。けれども背中に声がかかる。
「今日も部活?」
完無視するのは憚られる。貝田さんはうちの庭の先、南隣に住んでいる。ご近所さんだから。
「そうです、朝練で早く行かないといけなくって」
「そう、頑張ってね」
そして緊張しながらその前を通り過ぎようとした時。
「そういえば昨日、あなたのおうちに女の子いたでしょう?」
やはり、来た。
「……やだな貝田さん、うちは母以外は男ばっかりですってば」
「そう……? おかしいわねぇ?」
貝田さんは顎に手を置き首を傾げる。いつも同じ、毎日毎朝くり返される会話。この家に引っ越して来て唯一不満なもの。
「それじゃすみません。朝練遅刻しちゃうんでまた!」
踵を返し、走って坂を駆け下りる。ちょっと、という声が聞こえた気がしたが、無視だ無視。捕まったらいつまでも終わらない。
はぁ、朝から疲れるよな、本当に。薄っすらかいた汗を拭う。走り込みにはいいのかもしれないけど。
さて、気を取り直して今日も1日の始まりだ。
その永広の様子を、私は和室の窓から眺めていた。この和室からは門扉の陰で見えないけれど、ああ、またいるのね。そう思った。心臓がぎゅうと小さく押しつぶされる気分。
貝田さんの奥様にはいつも困っちゃうわ。
買い物に出ようとしたら、たいてい玄関先にいるんだもの。
「奥様一緒に行きましょう」
その言葉に、胃が痛くなる。そう言われると、断りづらいのよね。それに……やっぱりお隣さんだものね。でも一緒にお買い物にいくと、うちに女の子がいるようなお話をずっとされるの。
私たちは1ヵ月前にこの家を購入して、引っ越してきた。幸せなマイホームだって主人と吟味に吟味を重ねていたけど、この家は一目惚れだった。高台の上で日当たりがとてもいい。南向きの庭も気持ちのいい広さがあって、暇なときは椅子を出してぼんやり本を読むのは最高だろうなと思った。私の夢通り。
主人もゴルフの練習ができると喜んでいて、二人の息子も広くなった部屋に満足していた。そして何故か相場より、ずいぶん安かった。
だからこの家で即決したのに。
最初はぽかぽかとした日差しの中で、庭に洗濯物を干すのはとても気持ちがよかった。でも最近は落ち着かなくて、なかなか外に干せない。
貝田さんの家は南隣。間に1メートルちょっとの高さの塀があって、塀の向こうは貝田さんのお宅の駐車場スペースだった。だから塀越しに車に乗り込む貝田さんとよく目があった。
たまたまならいいのよ。でも、最近はいつもなの。
いつも気がつくと、塀越しに貝田さんがこちらを見ているの。うちの庭は貝田さんの家の方向を向いているから、貝田さんから見えないところで干すこともできない。庭に出ていると話しかけられてしまう。
本当に……憂鬱だわ。お腹がしくしく痛む。
どうしてこんなことになったのかしら。こちらが見えないように塀を高くしてはだめかしら。でもそうすると、あからさまよね。困ったわ。
ご近所の奥様方とお話ししたけれど、貝田さんは昔からここに住んでいらして、とても穏やかな優しい方だと伺った。あまりことを荒立てたくないわ。引っ越してすぐの私が意見を言うのもおかしいわよね。
最初にお菓子を持って引っ越しのご挨拶に伺った時の貝田さんは普通だった気がするわ。でも私たちがこの家に住み始めて一週間くらい過ぎた頃かしら。
「失礼かもしれないけど、お嬢さんが夜中に歌ってらっしゃるでしょう? できれば十時を過ぎたら遠慮していただけないかしら」
本当に何のことかわからなかった。
女の子? うちには男の子が二人いるだけ。賑やかな家族だとは思うけれど、少なくとも女の子はいない。
「あの、うちには女の子はおりませんの。男の子が二人おりますが、夜はなるべく静かにさせますね。ご迷惑をおかけしてましたら、申し訳ありません」
「そう? 女の子の声と思ったのだけど。勘違いだったみたい。変なことを言ってごめんなさいね」
その日は和やかに別れたはず。
けれども翌日、同じことを尋ねられた。私はまた、女の子がいないことを説明した。
そしてその毎日は現在でも続いている。本当に毎日。うんざりする。何なのだろう。
最近の貝田さんはどことなく目が座っているように思えて怖い。
どうしたらいいのかしら。
そういった相談を、この家に引っ越してきて一ヵ月ほど経ったときに妻から受けた。最初は何を言っているのかわらなかった。隣の主婦が怖いという。
主婦?
一度見かけたことがある。小柄な女性だ。確か貝田さんだったかな? どんな方だっただろう、それほど印象がない。
「貝田さんがじっと見ているの」
そんな妻の訴えに、私は気のせいではないかと思った。しかしそれが勘違いと分かったのは間も無くのことだ。
朝、出勤時に玄関を開けると門扉の影に貝田さんがいた。おはようございます、と挨拶をすると、奇妙なことを聞かれた。
お宅のお嬢さんが夜中に歌うのをやめさせてほしい。そんな内容だ。そういえば妻もそんなことを言っていた。
「うちは男所帯で女の子はおりません。女は妻くらいで。妻も夜中に歌うことはありませんし、何かの勘違いではないでしょうか」
「奥様じゃないのよ。もっとずっと若い声だったもの。毎日聞こえるのよ、おかしいわ」
「……申し訳ないのですが、仕事がありますので失礼させて戴きます」
あ、ちょっと、という声を無視して会社に向かう。これが二週間前から続いているということか。
妻は人付き合いがあまり得意ではない。これは参るだろう。どうしたらよいだろう。せっかくの新居なのに困ったな。続くようであれば一度お宅に伺ってお話を聞くしかないかもしれない。いざとなればお隣のご主人にもお話しするしかないかな。
俺はその時、あまり深くは考えていなかった。
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