第3話 呪いの家の異様 現実的現場検証
その目覚めは最悪だった。
ふらつくように頭が重く、
遠くからその家を見るだけだろ?
そう自分を言い含めた。
「藤友君、大丈夫かい? ひどい顔色だ」
「ああ、いえ、大丈夫です」
出会い頭、寮長が心配そうに俺の顔を覗き込む。俺は大学の学生寮で暮らしている。とても腹に何かをいれる心持ちにはなれなかったが、飯を食わないと体がもたない。何事も体が資本だ。
だからいつもより少しだけ控えめに朝食をトレイに受け取り、淹れた茶に映る自分の目元に深い隈が刻まれていることに溜息をついた。
電車が北辻駅に到着すれば、とうとう頭痛まで始まった。近づく前からこれほど酷い予兆があるのは初めてだ。
家の中に入れば死ぬ。
そんな薄ら寒い予感すらする。
バックレようか真面目に考えた。けれどもその家がヤバければヤバいほど今のうちに、つまり話が通じる昼の公理さんに付き合った方がマシだろう。見上げると春の空は俺の気分とは不似合いに晴れ上がっている。
撤退可能性は重要だ。
酔っ払った夜の公理智樹に抵抗できたことがない。
昼の公理さんなら、常識的な判断をするだろう。まだ、ましだ。
北辻駅の改札を出て左右を見回したが、案の定公理さんはいなかった。どうせ酔い潰れて起きられないのだ。二度目の溜息。
LIMEを飛ばし、待つ間にスマホで検索する。その間にもじわじわと、鳥肌は全身に増大していく。
本当にヤバイなこの家。
検索の結果、認識を改めた。築15年のはずなのに、ざっと調べただけで20人を超えて死んでいる。
正直なところ、この北辻駅に着くまで呪いの家なんて本気では信じていなかった。呪いの家なんて不確かなものが、人の死という即物的な効果を生むとは思えなかった。第一、本当に呪われているなら、本当に人が死ぬ家なら、既に壊されているだろう。
俺の予兆が強固な分、その危険はより具体的な危険に紐づいていると思っていた。例えば家が老朽化し、倒壊して怪我をする可能性。ヤバい奴が住んでいて襲われる可能性。そういったもっと物理的な危険だ。
けれどもこの検索結果が示すものは、それら物理と同等以上の何かがこの家にある。それこそが、呪い。
それから三十分後、改札口に現れた公理さんは二日酔いで青い顔をしていた。
北辻駅はターミナル駅である辻切センター駅の北隣の駅だ。辻切センターから北側に向けて緩やかに続く飲食店街とベッドタウンとしての住宅街が混在した地域だ。北辻駅前の飲食店街にはまだ人通りは少ないけれど、すでにランチタイムの営業は始まっている。公理さんはその匂いに口元を塞ぎ、軽くえずいている。
「調子悪いならまた今度にしないか?」
「大丈夫、ちょっとこっちも急いでるから。本当はもっと早く来たかったんだけどさ。仕事が忙しくて伸びてて」
足早に飲食店街を抜けて住宅街に足を踏み入れて15分も過ぎれば、坂道が現れた。そこを少し登っていけば、
なんだこれ、なんだこの地獄の窯みたいな場所は。おかしいだろ。
坂の上から瘴気とも呼べるような黒い闇が滔々と零れ落ちてくる。穢れ、汚染、そういったイメージのヒンヤリとした何かが坂の上からざらざらと流れ出て、足首に一瞬絡んでさらに下に滑り降りていく。
隣を伺えば、公理さんもぽかりと口を開いていた。
それに加えて坂の上からはずっと叫び声が聞こえている。耳を塞いでも聞こえるその非物理な叫びは俺の鼓膜を揺らす。
誰か助けて!
柚ちゃんを助けて!
誰でもいいから!
空気が大きく膨れ上がり、裂けるように震え、ぶわんと破裂して音になって響く。それが繰り返されている。
「駄目だ、帰ろう」
「えと」
「無理だ、ここはまじでヤバい。死にそうだ」
「えっ……と? まだ見えてもないよ。そうだな、あと100メートルくらいはある」
「あっちの方向だよな」
地図アプリに目を向ける公理さんに、左に迂回する坂道とは反対方向の右手奥を指し示せば、公理さんの動揺はさらに増大した。
「……うん、そう、わかるもんなの? そんなヤバい? まじか」
「そんなヤバい。ここらに人が住んでるのが信じらんないくらい、ヤバい、まじで。空を見ろ」
公理さんは真っ青な顔を上げ、坂の上を眺めて目を細めた。
この坂道に沿って住宅街が並んでいる。その上空は青く澄んでひつじ雲がぷかぷか浮かんでいる。けれどもその家のあると思しき上空だけ、写真のフィルムが一部変色したかのように空が薄く紫色に染まっていた。
「なんか……妙だ、ね。わかった、ハルはここまででいいや。俺はもうちょっと行ってくる」
足を踏み出そうとする公理さんの腕を慌てて引き止める。
「無理だって。肝試しで死んだら元も子もないだろ」
「ん……」
公理さんは整った眉を僅かに下げて、困ったように微笑んだ。昼の公理さんと夜の公理智樹は同じ人物だ。人に強要しないだけで、昼の公理さんも一度決めたことは容易に変えたりはしない。
けれども、何故だ。公理さんはもともと、こういったオカルトじみた事は嫌いなはずだ。
「ハル、肝試しじゃないんだよ。その家に俺の友達が住んでるの」
「ハァ? 人が住めるわけない」
「見えないとさ。案外気にならないもんかもよ」
公理さんは淡く笑う。
「いや、あんたは見えるだろ」
だからヤバいのはわかるはずだ。だから公理さんの顔色は、すでに青から土気色に変化している。
「生きてるよ、俺の友達は。だって半年くらい前に引っ越して、今も働いてるもん」
「信じらんねえ。そいつ人間なのかよ?」
公理さんはゆるく首を振る。
「うん、人間。でもね、最近目に見えて変になってる気がしてさ、だから様子見ようと思って」
「……それなら職場で捕まえろ。ここは無理だ」
「でも」
「あんたが行って、万一死んだら俺の寝覚が悪いんだよ」
死という言葉は些かでも公理さんをひるませた。けれども力尽くでも連れ帰ろうと掴んだ腕を、公理さんは払って俺をじっと見つめた。
「じゃあさ、一目、見るだけ。ひょっとしたらヤバいのは隣の家かもしんないじゃん。そしたらまだ安心できるでしょ?」
……正直この瘴気で人が生きられるとはとても思えない。そうすると、確かに公理さんの友達とやらの家が隣近所ならば、まだ納得はできる、のだろうか。
どうするべきか。
ここは近寄るべきじゃない。そんなことは大前提だ。俺の予兆は全力で逃げろと告げている。けれども。行くと言った以上、公理さんは1人でも行くだろう。何かあれば寝覚めが悪い。
公理さんは中途半端に優しい。だから、こんな奴だが、恩もなくはない。困っていれば、助けてくれようとはする。俺も何度か助けられた。
その目はやはり、迷いがない。駄目だ、説得できない。
隣の家を見るくらいなら……なんとか。
「わかった。見える所まではついていく。但し呪いの家には近寄らない、絶対にだ。いいな」
「ありがと。恩に着るよ。なんていうか、本当は1人じゃすごく怖かった」
「正気とは思えない」
「ハルには何が見えてる?」
「ものすごい叫び声。それから空が紫に染まって、坂の奥から黒い瘴気がぼたぼたと流れ落ちてきてる」
「うぇ。じゃあ俺の見てるのとちょっと違うな。音は聞こえないけどこっから先、千切れた幽霊がそこら中に漂ってる」
千切れた幽霊?
それがどんなものかはわからないが、そっちのほうがヤバそうだ。幽霊が見えなくてよかった。
仕方がない、覚悟を決めよう。
「それで、その友達の家ってどうやって見分けるんだ?」
「一軒家で表札が出てるはず。久里手っていうんだ。珍しい名前だから多分間違えない」
「りょーかい」
諦めて重い足を少しずつ動かし、本日三度目のため息を付いて坂を見上げる。何かよくないものが積み重なっている。目線をあげるのすらも億劫だ。足を上げるたびに闇は濃くなり、胃をぎりぎりと締め上げる。汚泥やコールタールの中を歩くようにざりざりと一歩が重い。隣を見れば公理さんも頻繁に目の前を払う仕草をしている。ちぎれた幽霊を払っているのだろうか。
そして俺は『久里手』の表札を見つけた。
そしてその家はまさに、呪われた家だった。
そして俺は家と目があった。
そう感じた。そうとしか言いようがない。
坂道の角を曲がって、その家まではまだ30メートルはあったはずだ。
一瞬、家の大音響の叫び声が止まった。
唐突に、耳が痛く感じるほどの静けさが訪れた。
それからこれまでで一番大きい音が膨れ上がり、竜巻のように俺を飲み込み、俺は意識を失った。
それは確かに、こう叫んでいたと思う。
助けて!
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