違う世界線から来た僕の彼女が幸せになるまで。

白米よりご飯派。いや、やっぱり味噌汁派

プロローグ

第0話 「いつかの記憶」

 僕が沙雪さゆきと出会った日のことを詳細に思い出すことはもうできない。


 それは、そのことに関して僕は何とも思っていなかったからだろう。


 言い換えれば、僕は沙雪と出会ったことがその後、需要な意味を持つなど思ってもみなかったのだ。


 詳細に思い出すことはできないとは言え、沙雪との出会いは普通とは言い難いものであった。


 彼女と出会ったときの僕は、自暴自棄になっていて、周りの大半のことに関心を向けることができなくなっていた。


 だから、詳しく覚えていないのも無理はないと思った。


 当時の僕は毎日を放心状態で過ごしていたのだ。


 そうでなかったとしても、大半の人は、誰かとの出会いというものを覚えていないのではないだろうか。


 小学生になってから初めて出会ったのは誰で、一体どんなことが印象に残っているか?


 そんなことを聞かれても答えられる人は、十パーセントもいないだろう。

 

 僕が彼女と出会った日のことで記憶しているのは、それは二〇〇五年のある夏の日だったということ。


 そして、場所は他に誰もいないどこかの部屋で、それは恐らく高校のどこかの教室だったと記憶している。


 空が茜色に染まっていたのが、やけに頭に残っていた。


 ということは、時間はクラスのみんなが帰宅した放課後なのだろう。


 その情報だけを頼りに、彼女との出会いを思い出してみることにする。


 何故、今になってそんなことをするのかは自分自身でもよく分からない。


 ただ、彼女――沙雪のことが懐かしく思ったからなのかもしれない。




 僕は教室の席に座り、プリントに何かを書き込んでいた。


 それは、何かの課題だったかもしれないし、何回も書かされていた反省文だったかもしれない。


 教室には僕しかいなかった。


 彼女が教室に入って来たのは、僕がプリントに何かを書き込み始めてから、十分くらいが経過したときだった。


 沙雪は教室に入って来るや否や、僕の隣に座った。


 そして、彼女の鋭いながらも柔らかな視線を僕に向け、


「ねえ、一緒に学校をやめない?」と言った。


 僕はそれを聞いてもそれほど困惑しなかった。


 沙雪と面向かうのは、これが初めてだった。


 彼女がそのことを言うのが、まるで当然のことのように僕は感じたのだ。


「君だけじゃなくて、僕も一緒にやめなければいけないの?」と僕は尋ねた。

「そう。私はあなたと一緒に学校をやめたいの。前からそう思っていたの」

「前から?」と僕は言った。


 沙雪は肯いた。


「何で君は学校をやめたいの?」と僕は尋ねた。

「それを話すと少し長くなるし、少し話が入り組んでいるの。別に話したくないと思っているわけじゃない。だけど、それは今ここで話すことはできない。その理由を言葉で言うのはとても難しいんだけど、強いて言うのなら、そのことを話すのにこの環境は向いていないの」


 僕は彼女の言っていることを理解できなかった。


 しかし、最初と変わらず困惑はしていなかった。


「ねえ、そんなことやめてさ、今から一緒にどこかに行きましょうよ」と沙雪は言った。


 彼女は僕の肩に手を置いた。


 沙雪の黒くて長い髪が、腕に当たってくすぐったかった。


「ねえ、いいでしょう?」と沙雪は僕を見下ろすように言った。

「……ああ、いいよ」と僕は言った。


 放課後に一人でいることが、バカらしくなったのだろう。


 僕は昔から一人でいることは好きだったが、何もそれは誰もいない放課後の教室である必要はないはずだ。


 放課後の教室に一人でいるほど悲しいものはない。


 僕はプリントに書き込みをすることより、彼女とどこかへ行くことにした。


 沙雪は僕を立たせ、手を引っ張り学校から連れ出した。


 僕の手を握る沙雪の手は、か弱そうな彼女の見た目に反してとても力強かった。


 そして、彼女の表情はとても幸せそうだった。


「一体どこに行くの?」と校門を抜けて少し歩いたところで僕は尋ねた。


 すると、沙雪は僕の手を離し、振り返って、


「私にも分からない!」と笑顔で言った。

「何だよそれ」と僕は言った。


 そのときの僕は、状況を把握することができていなかったが、彼女の人柄に一目ぼれしたのかもしれない。


 僕は彼女といることが楽しいと感じていた。


 沙雪と僕は、どこかへ行くでもなく学校の周辺を歩きまわった。


 歩いているとき、沙雪とは何も話さなかったと思う。


 気まずさは感じなかった。


 それは沙雪もそう思っていたと思う。


 途中のどこかで、彼女が僕の手を握ってきた。


 傍から見れば、恋人同士に見えたに違いない。


 何故、沙雪は僕の手を握ってきたのだろうか?


 彼女は一体、何を考えていたのだろうか?


 沙雪がそのとき、何を考えていたか分からないが、一つ言えることは、そのときの彼女の手はとても温かかった。


 それが、今思い出すことのできる沙雪との出会いの記憶だった。

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