秘密は内緒のまま

リエ馨

読み切り

 空気が少し冷たくなってきたからといって、気分まで落ち込むわけではないと思う。


 森の国の王子とその教育係の護衛をするようになって半年、インティスは椅子の上で片膝を抱えながら小さく溜息をついた。

 視線の先には、テーブル越しに部屋の主。

 彼が分厚い本をめくる乾いた音だけが、静かな部屋に規則的に響く。


「……やっぱり、呪いについてはどこにも書かれていないか」


 フェレナードは溜息混じりに本をばたんと閉じると、テーブルの端に乱暴に置いた。

 時刻は夜。インティスは目を細めた。


 十歳になる森の国の王子は、あと二年で王家の呪いに晒される。

 その前に何かできればと思い、とある貴族の家に手がかりがあるかもしれないというところまで掴んだ。

 以来、ずっと彼に付き合ってその貴族の家を訪ねている。今日もそうだった。

 その家に頼みごとがあるのだが、何度行っても取り合ってもらえないので、相手が根を上げるまで毎日門に立ち続けるという作戦だった。


「……少し寝たら」


 インティスはそれだけ言った。

 連日朝から晩まで人の家の前に立ちっぱなしで、自分はそうでもないが、普段座ったままで調べ物をしている彼は疲れているはずだ。


「君は?」

「俺はここにいる」


 フェレナードの問いに、インティスは短く答える。

 王子は自室にいて、フェレナードの魔法の師であるカーリアンの魔法壁で守られているので絶対に安全だ。王子はどこにも行けなくて不服そうだったが、フェレナードが毎日貴族の家へ向かうので、両方を守る方法はそれしかなかった。

 彼らを護衛するといっても、インティスは独学で多少剣を扱えるだけで、ヒトを護るための心得は近衛師団長のダグラスに教わってばかりだ。

 こういう時、護衛される側は寝かせても、する側は絶対に寝るなと教えられていた。


「……そう」


 フェレナードはそう言うと、立ち上がってベッドに腰掛けた。そこまではインティスも覚えていた。



    ◇



 かたんという物音でインティスは我に返った。

 フェレナードがベッドに行ったことで安心してしまい、眠ってしまったようだ。ダグラスが見ていたら間違いなく怒鳴られる。

 ベッドの上に彼の姿はなく、部屋着を羽織ってテーブルの燭台を手にしたところだった。


「……どこに行くの」


 インティスが声をかけると、扉へ向かったフェレナードは振り向かずに答えた。


「ちょっと外の空気を吸ってくる」


 そして返事を待たずに、彼は出て行ってしまった。

 ダグラスからは、護衛の対象を一人にするなとは言われているが、行き先は予想がつく。

 時計を見て、夜が明ける少し前に迎えに行くことにした。



    ◇



 燭台の小さな炎が照らす扉を、フェレナードはノックもせずにゆっくりと開けた。

 無言で部屋に入ると、すぐに気付かれた。


「……お前、取り込み中じゃないのかよ」


 部屋の主であるダグラスが眉を顰める。書類をまとめる手は止めなかった。


「取り込み中だけど……ちょっと詰まってて」

「あー……」


 彼が貴族の家に通っているのは、ダグラスも状況を共有されているから知っている。


「先方にだって事情があるんだろうし、焦っても仕方ないだろ」

「……それはわかってる」

「カーリアンにも相談してんだろ」

「……そうじゃなくて」


 フェレナードは燭台を入り口近くの小さなテーブルに置き、火を消した。

 そのまま黙って歩いて来るので、ダグラスは嫌な予感がした。

 予感は当たり、フェレナードは座るダグラスの後ろから、彼の書類を持つ手を止めさせた。もう片方の腕は首に回ってくる。


「……お前、そうやって先週も来たろ。大丈夫なのか」

「大丈夫……気分転換したいだけ」

「あのなあ……」


 本来そういうのも全部、護衛に頼むもんだろ、と言い掛けてダグラスはやめた。そもそもその護衛がこいつより子供だったのを思い出す。到底こういうことを知っていそうにない。


「……それで、今日はどうしてほしい」

「少しくらい酷くしてもいい……。今日は疲れた……」

「痕は?」

「首は困る」

「……はいはい、こっち来な」


 諦めたように書類の束を机に置き、溜息混じりにダグラスが立ち上がると、部屋の奥の寝室の扉を開けた。


「そんなに時間はかけねえぞ」

「……わかった」


 同時にベッドに上がり、フェレナードがダグラスを迎えた。それに目を細め、ダグラスは彼の着衣に手をかけようとしたが、側にあるテーブルの引き出しから大きめの瓶を取り出した。


「それ……継ぎ足した?」

「足したよ、お前がしょっちゅう来るんでな」


 瓶の中身はこういう時に使用する潤滑剤だ。使う相手が相手だから、おかしな出所のものは使えない。

 おかげでそこそこ値が張るものを用意しなければならず、ダグラスがうんざりした様子でフェレナードを睨んだ。


「それは悪かった。……でも、元は取れてるだろ?」

「言ってろ」



    ◇



 感情を伴わない情事はしがらみがないから本当に楽だ。いちいち愛を囁く必要もない。これで彼自身の手枷や足枷の重みが少しでも軽くなるのならいいが、実際は恐らくそうではないだろう。これはただ彼が自身の気を逸らしたいだけなのだ。手枷足枷に繋がり、彼自身にのしかかる責任、思うように進まない様々な問題、それらを一瞬でも隅に追いやるための、一番手っ取り早い方法。


 どれだけ外で澄ました顔をしていても、結局一日の終わりにはこの快楽を求めてわざわざ部屋まで訪ねてくるあたり、まだ子供だ。あの赤い髪のガキと大して変わらない。


「おいおい……」


 それほど手加減なくやった覚えは全くないが、快楽が引き金となったのか、フェレナードは意識を失っていた。



    ◇



 時計の針が深夜をすっかり過ぎた頃、ダグラスの部屋の扉から控えめなノックの音が聞こえた。


「開いてるぜ」


 ダグラスが返事をすると、大きな扉がゆっくりと開いて、隙間から赤い髪が覗く。


「遅くにごめん。フェレは……いる?」


 護衛が迎えに来たようだ。


「いるよ。悪いな、そろそろそっちに送り届けようと思ってたんだ」

「え? あー……寝てる?」

「ああ、奥にいる」


 情事を終えてすぐ後始末をしておいて良かったとダグラスは密かに思った。服も元通りに整えてある。


「……わかった。連れて帰る」


 インティスはそう言うと、ようやく部屋に入ってきた。


「お前が? 大丈夫なのか?」

「大丈夫」


 奥の寝室に入り、ベッドで眠っているフェレナードにかけられている布団を捲ると、ベッドに片膝をつき、背中の上部と両膝の裏に腕を通し、軽々と持ち上げた。


「…………」


 ほんとにやりやがった、とダグラスは思いつつ、そういえば細くても力はあるとフェレナードから聞いていたのを思い出した。


「扉は開けられるのか」

「開けられる。大丈夫」

「そ、そうか……。気をつけて帰れよ」

「うん」


 部屋を出る時だけダグラスに扉を開けてもらい、自分よりも頭半分身長の高い男を抱えて、インティスは出て行った。



    ◇



 フェレナードの自室に戻り、改めてベッドに寝かせ直したが、彼は泥のように眠ったまま、目を覚まさなかった。

 また油断して逃げられないよう、近くに椅子を引いてきて適当に座る。背もたれに腕を乗せて頬杖をつくと、思わず小さな溜息が漏れた。


 この半年、色々なことがあった。元々住んでいた砂漠の村を離れ、この森の国で暮らすようになってから。

 その中で一番驚いたのは、護衛を務める前と今とで、フェレナードに対する印象が大分変わったことだ。

 彼は確かにインティスよりも歳が上で、自分はまだよく使い方のわからない精霊の力を操り、更に今は王家の呪いについても調査している。

 世界からは賢者と呼ばれていたインティスの育ての親が不在の時、フェレナードはいつも自分の話に耳を傾けてくれた。そうして、結果的に今の護衛という立場を与えてくれたのも彼だ。生きるための道標を示してくれたようなものだった。

 先を歩く彼を見ていて、大人ってこういうものなんだ、こうでなければならないんだ、と思っていたのに、護衛として彼の生活に一歩踏み込むようになると、そうは思えない部分も見えるようになってしまった。

 早く寝た方がいいと言っても聞かないし、食事を運んでも調べ物に夢中で食べないことが多い。その頑なさは時々自分よりも子供っぽいのではないかと思うくらいだ。


 それから、ダグラスとのこと。


 フェレナードは言わないが、ダグラスの部屋に行って何をしているかは、実は薄々感づいていた。前後で彼の持つ雰囲気が違うのでわかってしまう。

 一度だけ、護衛としてどうすればいいかわからなくて、ダグラスに好意を抱いているのかをフェレナードに聞いたことがある。

「フェレはダグラスが好きなの?」と、何にも配慮しない質問だったが、彼は苦笑いで「違うよ」とだけ言った。

 感情が目的ではないのなら、それは相手がダグラスである必要もないということだ。

 ただ、それも護衛の役割に入るのかは誰にも聞けておらず、誰からも聞かされていない。


「うーん……」


 故にダグラスに全て任せきりで申し訳ないと思う気持ちはあるが、自分が肩代わりできるかと聞かれれば、できないと答えてしまうだろう。とりあえず今のところは。


「……ごめん」


 色々なことに小さく謝って、後はただ部屋の主が起きるのを待つだけにした。

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