第9話 春の温度と、夏の空

 例年より早く帰ってきた学園はちょうど、帰省シーズンで閑散としていた。

 芸術系の学科の生徒はそれぞれ用意された専用の建物か、寮にある練習用の部屋で技術の上達に勤しんでのだろう。時折、楽器やキャンバスを運ぶ生徒が美術室の窓から見えた。

 部活を楽しんでいる生徒は大会があるのか、忙しない足音が廊下から響いてくる。

「小夜もまだ帰省中にに決まっているわよね」

 誰もいない美術室で課題をしていると、急に扉が開いた。この時期に帰省から帰って来ていて、なおかつ美術室に来ると言えば一人しか思い浮かばなかった輝夜は確認もせずに話しかけた。

「マワリ、お母さんがお土産喜んでいて……え!?」

「そんなに驚く事でもないと思うけど」

 美術室に入ってきたのは小夜だった。いつも通り雪景色が似合う彼は彼女の向かいの席に座ると言葉を待っているのかずっと見るだけだった。

「まだ帰省してたんじゃあ……」

「八月入る前には帰ったよ。もう僕は出ているから長居するのも迷惑かけるから」

 それもそうね。今は小夜が特待生の権限を使って、保護施設に寄付をしてもらっているとはいえまだ財力が潤っているわけではないし。

 あの兄弟、元気にしていればいいのだけれど。

 いつかの梅雨の時期に嵐のようにやってきた兄弟を思い出した輝夜は胸の奥がツンと痛んだ。何故か、あの兄弟を思い出すたびに自分の無力さが悔しくなるのだ。

「それに、よくここにいるのがわかったわね」

「君のクラスの担任が、言っていたから。『美術室へ行くなら月見里さんにエアコン使うよう伝えてください』って」

 エアコンをつけていなかったことに気づき、慌ててスイッチを入れる輝夜。窓は開いているとは言え、夏の暑さにも気づかないほど心ここにあらずだったのだ。

 本当に言いたいことは違うもののどんどん口に出せなくなっていく。

 テレピンとリンシードオイルの混ざった匂いが夏の熱気と相まって一段と強く鼻をつく。

 壁に貼ってある石膏デッサンの描かれた紙が風に揺られ、めくれる音が響く。

 動物の像が妙な存在感を放つ。

 無言が続く中、先に口を開いたのは小夜だった。

「それで、出かけたいんじゃないの?」

「そうだけれど。え、それってデートて、言うものよね」

「一般的な意味で言うならそうだけれど」

 そうよね。交際中またはお互いが恋愛的な未来を期待して、約束して会うことだって調べたら出てくるし。今、私たちは交際しているからそれは、つまり、デート、であって。

 これが、デートの予定を立てているという状況で。

 だから、えっと……。

「そもそも、デートってなにをするの……?」

 思考がオーバーヒートしているせいか小学生でも分かるようなことを長い沈黙の後、言い始めた輝夜にさすがの小夜も返答に困っていた。

 その様子に一気に恥ずかしくなり、急いで弁解した。

「違うの! 意味は分かっているし、本とか人の話で聞いたことあるわ! でも全く想像できなくて! 自分がデートしている姿とか、何を話すとか、そういうの全部!」

「僕は君に周りと同じ恋愛をしたいとも、して欲しいとも思ってないよ。それにお互い、わからなくて当然だから。行くところも君の好きなところでいいよ」

 前世で恋愛は悩んできた彼らしい固定観念に捉われない考えを聞いたおかげでやっと輝夜も落ち着きを取り戻した。

 方や多くの人に好意を寄せられたものの誰も選ばず月に帰った前世の持ち主、方や多くの人に好意を寄せたものの多くの失恋を経験した持ち主だ。お互い、恋愛初心者と言ってもいい。

 青い目と合う。人魚姫で描かれた深い海のような色に行きたいところが決まった。

「じゃあ、海の見えるところに行ってみたいわ!」


 次の日。学園近くのバス停で待ち合わせした二人は、一番近いバスに乗り、終点までバスで揺られることになった。バスの中は人が少なく、学園の生徒もいないことに輝夜は安堵した。

 自分のようないい意味でも悪い意味でも目立つ生徒が、今世は目立つのを避けている生徒と付き合っているなんぞ知られてしまえばあっという間に注目の的となってしまうからだ。輝夜としても、誰にも邪魔されず自分たちのペースで関係を進めていきたいと思っている。そして、何より小夜の夢を邪魔したくないのが本音だ。

 私のせいで目立ってしまったら、きっと三年生の編入にだって影響してしまうもの。小夜には音楽科の生徒とも仲良く授業を受けて欲しいから。

 窓から見える景色は次々と変わっていく。行先は郊外なのもあり、のどかな雰囲気だ。そのノスタルジックな景色は多くの人が見つめてしまうだろう。けれど、輝夜は昔のことを思い出して怖くなった。

 あの時の輝夜はたった一人で味方のいないこの土地で自分の身を守っていた。息を潜んでも、どんなに服を変えても、人を惹きつけてしまう力は抑えることが出来ない。ましてや、強くなっているのだ。

 どこに向かうかもわからないバスに乗ってひたすら縮こまっていたかつての自分のように、俯いてしまった。手が震えない様に抑えるのに必死だった。

 俯いた先に映った自分の服がワンピースだと分かった時。自分の前世や、容姿、特異性、全てが自分を呑み込み溺れていくように息苦しくなっていく。

 やっぱり、私は女の子になれない。女の子になったらいけないのよ。だって、私はかぐや姫で、正体は人間じゃなくて。その力で、みんなを魅了して狂わせてしまうから。今世で人間に生まれたとしても、その力は変わらなかった。

 私は、やっぱり竹の中にいなければならない存在だったのよ。ずっと、ずっと竹の中で女の子のままい続けたい。

 誰も、私の女の子の部分を見て欲しくないの。見られたら最後、奪われてしまうのだから。

 その時、手の温度がほんの少しだけ高くなった気がした。恐る恐る、手を見ると小夜の手が重なっていた。

 もしかして、私のこと心配してくれて……?

 彼はただ景色を見ているだけだった。けれど、ちゃんとその手に意味があることはわかっていた。

 このまま握っていいのか迷い、指を動かしてはやめてを繰り返したものの心を決めてそっと指を絡めて手を握った。

「ごめん。このまま握らせて」

 不安と緊張から声と手が震える。返ってきたのは声ではなく、握り返した手だった。

 不思議と恐怖は消えさっていく。そして代わりに満たされていく安心感に母親の言っていたことを思い出した。

 守ってくれる人が、いる……。こうして隣に。

 バスの中の冷房は冷たいはずなのにどんどん体温は上がっていき、涼しく感じてしまう。心臓が出てしまいそうというのはこういうことなのかと痛感する。

 早く着いてもらわないと心臓が持たない! でも、離すのも寂しいって今から思ってしまうものなのね。

 バスは早くも、遅くもなく予定通りの時間に着いてしまった。

 名残惜しい気持ちを押さえながら手を離すと、運転手に運賃を支払いに向かう。

 運転手にお礼を言い、バスの外を出ると目の前には青く、煌めく海が広がっていた。

「この町の海ってこんなに綺麗だったのね」

「そうだね」

 続けてバスを降りた小夜の方を向くと、その青い目が海に染まったかのように美しかった。その様子に、輝夜はずっと思っていたことを呟いてしまった。

「ヤグルマギクさながら青く。それは、あなたの瞳の色だとずっと思っているの」

 途端、急に足を動かしたくなり、返事も聞かずに海岸側の道路へと向かった。

 道路に沿って歩く二人。お互い、隣を歩いているものの手が触れ合うかどうかの距離だ。

 ゆっくりとトラックとすれ違ったり、猫がたむろったり、海では景色を楽しんでいる者もいる。けれど、二人を通る風は二人だけのもので、また時間も二人だけに流れていた。

「そういえば、みんな今頃どうしてるんでしょうね。マワリは画塾に通っているの知っている?」

「ちょうど帰省中に連絡来たよ。体験の予定だったけど、参加するって張り切っていた」

「そうなのよね。最初は張り切っていたけれど、今はちょっと元気ないのよ。心配だわ」

 七月はいつも楽しそうに画塾の話をしていたが、一週目過ぎた辺りから急に連絡も減ったマワリ。いつもは毎日やり取りをしていたのもあり、気掛かりではあった。もしかすると、肖像画を描くよう強制されていないかと。

 しかし絵を描く側ではないので立ち入っていいのかと躊躇ってしまい、ずっと話してくれるのを待っているのだ。

「瀬川先生に会った?」

 突然、小夜の口から出てきた名前に輝夜は驚いた。自分と瀬川の関わりは美術室以外そうないからだ。

「え!? 会ってないわよ。それに副業の方が忙しいって終業式の時に言っていたじゃない」

「今、東京の方で個展しているんだよ。栄子も参加しているから、てっきり行っていると思った」

「どうしてそこで、娘さんが?」

 瀬川の娘である栄子の名前にドギマギしながら聞く輝夜に、小夜は前から知っていたかのように答えた。

「輝夜、栄子のこと気にしていたから」

 体が硬くなるのを感じる。理由もない罪悪感が胸を支配していた。

「そんなに顔に出ていたの?」

「うん。嫉妬しているんだろうなって」

 嫉妬という言葉に飲み込んだ唾が重く感じる。自覚が無かったもののマワリから嬉しそうに聞いた時、確かに栄子に会いたくない自分がいたのだ。

「君は栄子になれないし、ならなくていい。それほど二人の仲は別格だし。それに君らしく仲良くしている方がマワリも喜ぶよ。マワリにとっても栄子とは別の意味で君は特別だと思うから」

 夏休みが開ければ栄子は来ると瀬川も言っていた。登校している日の放課後は美術室によくいることも知っている。

 気づいていないだけで夏休みが終わって欲しくない理由が小夜と一緒にいたい他にもあったのだ。

 なるようにしかならないわよね。それに、どんな人か私自身は会ったことがないから分からないもの。勝手に印象付けてはいけないわ。

 海の香りが鼻をくすぐる。自分に託してくれた一人の少女を思わせる海の香りが。

「詩海さん、元気にしているかしら。手術成功していたらいいけれど」

 同じ物語から生まれ、前世は人ならざる物だった彼女。最初は恋敵だと思っていたものの、本当は優しく、自分を生み出してくれた作者のために自分の身を削ってまで学園に来たことを知ってからずっともう一度、話がしたいと思っているのだ。今度はお互い同い年の女の子として。

「順調に回復しているみたいだよ」

「そうなのね! 良かったわ」

 顔を綻ばせた輝夜に小夜はどこか気まずそうに聞いた。

「連絡先、知っているの嫌じゃないの?」

 その様子に首を傾げた。全く嫉妬も、嫌な思いもしなかったのだ。それは信頼の裏返しでもあった。

「前の私だったら嫌だったと思うわ。でも、あなたのことも、詩海さんのことも、今はもっとどんな人かもっと知っているから。そりゃあ、少しは気になるけど」

「今のところ君のことばっかり聞かれているよ」

「そうなの!?」

 自分にそんなに興味があると思わなかった輝夜は驚き、声を上げた。頷かれても信じられないという様子に小夜は碧の言っていたことをあるがままに話した。

「『実はわたし極度の人見知りで、月見里さんと仲良くしたかったのに最後の日まで話せなかったんです。変な誤解も与えてしまったから余計。連絡先も聞きたかったんですけど結局、言えなくて。格好つけたままで恥ずかしいです!』って、先月言っていたよ」

 慈悲深い微笑みと、涼し気な雰囲気がどこかミステリアスな碧からは想像がつかない内面にただ驚くばかりだ。それに教室ではきちんと受け答えしていたので、人見知りには見えなかったのだ。

「意外ね。行動的な人だと思っていたわ」

「確かに行動的だけど、普段は大人しい性格だよ。連絡先を教えるって何度も言っているけど緊張するっていつも断られているから代わりに君について聞かれたことを答えている」

 人魚姫の性格が影響しているのであれば、姉たちに海の外の話をせがんだように輝夜の話も小夜にせがんでいるのだろう。押されている様子が若干疲れた顔で察してしまった。

 詩海さんが話したいって思ってくれているなら、私も話がしたいわ。仲良くなれるなら、仲良くなりたかったもの。

「じゃあ、私が交換したいって言っておいて!」

 最後に話した時の碧の表情を思い出す。朝日のように優しく、海のように綺麗な少女だったと。

 この世界のどこかにいるわたしの王子様と一緒に。

 そう、言っていた彼女の言葉を思い出す。前世は好きな人との恋が叶わなかった人魚姫。だからこそ、今世は好きな人と幸せになりたいのだ。輝夜もその気持ちは手に取るようにわかるからこそ、今でも彼女と話がしたいのだ。

 私は見つかったわよ。たった一人の誰か。

「そういえば、両親に話したの。付き合っていること」

  小夜が輝夜の顔を見る。どうだったとは聞かない。それが彼だからだ。緊張感が二人の間に生まれる中、輝夜は笑いかけた。

「二人とも応援してくれて、嬉しかった。お母さんなんて張り切っちゃって『服は? 化粧品も!』ってあれこれ連れ回すし、お父さんも『仲良くするんだぞ』って帰る前に言うのよ」

 学園に帰る日、母親は「デートの時は買った服、絶対着るのよ! 輝夜は何着ても可愛いから安心するのよ!」と鼓舞をし、父親は「変に我慢して仲がこじれるのが一番良くないからな。輝夜は我慢強いから、気を付けなさい」とアドバイスをしてくれた。娘の恋愛が上手くいって欲しいと願っている両親に輝夜はお礼を言い、家を出たのだ。

「早く帰ってきたのもそれが理由?」

「うん。お母さんが早く会いに行ってあげたらって。全然、連絡も取っていないって言ったらもうびっくりしていて」

 母親の様子を思い出してか笑う彼女に、小夜は少しだけ訝しげにすると尋ねた。

「いつでも連絡していいって言ったけど」

「へ?」

 全く覚えのない言葉に間抜けな声が出る。理解が追い付いていない彼女に小夜は説明した。

「僕、電話でそういったけど。君から電話が来た日に。輝夜も返事していたし」

 七月の記憶に確かに電話をした日があった。その時の自分の様子に申しわけなさと、気まずさが沸き起こったが、何より絶対変なことを言っていた自信が記憶になくてもあったことにまずそうな顔をした。

「ごめんなさい、眠くて適当に返事していたわ……」

「それなら別にいいけど」

 いつもより平坦な声の小夜が前へと一歩踏み出した時、輝夜は思わず手を掴んだ。別にどこかに行くわけでもない。ただ、前を歩いているだけだとしても、今は自分から離れて欲しくなかったのだ。自分の足は止まっていたことが、振り向いた彼との距離が一歩離れているので気づいた。

「ちょっと、拗ねているでしょ! 私も悪気はなかったのよ。それに今、知ったからこれからは連絡するわ」

 そして彼女もして欲しいことを思い切って言った。

「だから、あなたからも連絡して欲しい。長文でも、通話でも、たくさんでもいい。とにかく何でもいいから。だって、ずっと連絡来ないか期待してたんだから!」

 心臓が早鐘を打つ。面倒くさい女だとか、呆れられるんじゃないかと不安で手が汗で滲む。

 小夜は海の色をした目で輝夜を見据えると答えた。

「わかった」

 その表情を見た途端、顔が熱くなるのを感じた。

 冬が終わって春が来る時の柔らかい温度。親指姫が訪れた国はこんな温かさだったのだろうか。

 少しだけ柔らかくなった笑みはかつて、自分に向けて欲しかった「情」がそこにある。

 この時の彼はいつもの雪景色の中にいなかった。

 その姿を、自分しか見ていないことに嬉しく思ってしまった。

 そして、彼女も誰にも見せたことがない表情をまたしていたのだ。

 欠けることを知らない望月が少しだけ欠けたように人間らしく、そして大人の女性へと一度は成長してしまった姫が女の子の形をしていたのだ。

「絶対よ! 今度こそしっかり聞いたわよ!」

 そのまま手をつないで歩く二人。またいつものようになんでもない話をする時間が過ぎていく。

 空に向かって輝夜は一つの和歌を詠んだ。

「きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれを恋といふらむ」

 もちろん和歌とは無縁の文化を生きた小夜に返歌を求めるつもりはなかった。聞かなくとも彼女は彼の気持ちを信じているのだ。輝夜の方を見る小夜に、

「意味は内緒よ」

と、悪戯そうに笑う。この気持ちはあえて伝わない方ことに趣があるのだ。

 夏の道を歩く二人の上には、あの絵の鳥と同じ清々しいほどの青空が広がっていた。

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