どれくらい経ったか。


 手が届く距離まで近寄ると、ようやくそいつ――秤部はかりべが私に気付いた。慌てた様子もなく気の抜けた表情で、ガラス玉みたいな目に私を捉えたまま何も言わない。


 よくある反応。どっちだ、とかそんな所だろう。いや、私のことすら知らないであろう秤部が、姉を知っているはずないか。


 そういえば、秤部とこうして視線が繋がるのは初めてだ。向けられる透き通った瞳から、得体の知れないという言葉が浮かぶ。そこから連想して、宇宙人というあだ名が脳裏をよぎった。たったそれだけで、秤部の視線がはるか遠く、大袈裟に表わすなら地球の外から向けられているように思えた。


あわいだ。針藤しんどうあわい


 え――。

 秤部が弾き出したそれに、心の底から驚かされた。

 なんで、私の名前。


「……意外。知ってたんだ。他人に興味ないと思ってた」

「知ってる。すごいなーって思ったから。双子って」


 そう言って秤部は柔らかく微笑む。


 へえ、秤部も笑うんだ。それに声、久しぶりに聞いた。意外が徒党を組んで押し寄せてくる。柔らかな笑みとか、優しい声とか、他人への関心とか。なによりさっきの嘘みたいな情景。


 驚きのあまり日頃休んでいる顔の筋肉が働いていると自分で分かった。


「あれ。知らなかった? 有名だよ、淡」


 それを秤部に言われるのは癪かもしれない。


「有名なのは姉の方。……でもよく分かったね。付き合い長い子でも間違えるのに」

「分かるよ。全然違うから」


 得意気な表情を惜しみなく披露する秤部。


 変なやつ。抱いてたイメージ通りの変なやつ。ちょっとだけ怖さもあるけれど……嫌じゃない。浮かれてるのかな、私は。


 じわりと滲んでくる衝動のまま「なにしてたの」と尋ねた。


「飛ばしてる。紙ヒコーキ」


 秤部はしゃがみ込むと、傍らのカバンからプリントを取り出して紙飛行機を折り始める。


「当たるとこだったよ。別に止めないけど。紙飛行機って、なんでまた」

「なんかさ、飛ぶらしいから」

「……そのプリント、課題のやつじゃない? 怒られるよ」

「知らん知らん」


 慣れない手つきから生み出された歪な紙の飛行機は、機体を飾る英文のおかげで様になって見えた。秤部はちょっとだけ声を弾ませる。


「どこまでいくかな」

「……すぐ落ちるよ。紙の飛行機じゃ、どこにも行けない」


 行きたい場所にも行けないまま、落ちていく。


 いくら形が立派だとしても、所詮は紙で出来た紛い物だ。まだ歪なだけマシかもしれない。本物になろうと見た目だけ整うほど、求めるものの遠さを思い知る。どれだけ努力しても中身まで同じになることは決して無い。


 だから――落ちる。結果なんて自分が一番分かっているくせに飛ぼうとして。最後には、身の程も知らずに飛ぼうとした、みじめなガラクタが残るだけだ。


「淡は乗ったことある? ヒコーキ」

「あるよ、何回か」

「そっか。行けるよ、いつか」


 何が言いたいの、という私の反応を制するように秤部は一歩前に出て、紙飛行機を宙へ放った。それは柵の上を通過すると緩やかな軌道で沈んでいく。


 見透かしたような秤部の物言いに少し腹が立った私は、つい意地悪を口にした。


「そんなだから宇宙人とか呼ばれるんだよ」

「……え。なんでわかったの」


 しかし反応は求めていたものと違って、秤部はぽかんとした表情を浮かべる。隠し事を言い当てられたような、そんな反応。


 まったく、思い通りにならないやつ。私は口元が綻ぶのを感じて、ぎゅっと引き締めた。


 普段となにが違うのか分からないけれど、今日の秤部はよく喋る。内容はともかく、案外お喋りなやつなのかもしれない。


「帰るかー」


 伸びをする秤部の間延びした声。当たり前だけど、帰る家があるらしい。


 ここで別れるものだと思っていたけれど、秤部は一緒に帰るつもりだったらしく、まるで仲良しみたいに並び歩いて学校を後にした。逃げるように、後にした。侵入者である秤部がなぜか屋上の鍵を持っていなかったからだ。追及してものらりくらりと躱され手応えがなく埒が明かないということで、バレる前にこの場を去ろうと決めたのだった。


 学校が見えなくなるまで離れて、ようやく私は歩調を緩める。


「言っとくけど、もしバレたら秤部がやったって言うから」

「大丈夫。得意だから」

「なにがよ」

「じぇーむずぼんど。だっけ」


 意味が分からないなりに邪推すると常習犯ってことかな。余罪が出ないことを祈ろう。もしもの際は本気で秤部を売るつもりだ。


 沈黙が落ちる。ただでさえ話題を振ったり話を回したりするのは得意じゃないのに、相手はよりにもよって宇宙人。


 色々と考えを巡らせながら、私なりに無難な選択を場に出した。


「秤部はなんで普段黙ってるの」

「え。んー……得意じゃないから。人多いとこ」

「そうなんだ。なんか普通だね」

「そう? ごめん」


 私は自分の対人スキルが実用レベルに達していないのだとひしひし感じた。震えるくらいド下手くそだ。普通に話したつもりが相手の謝罪を引き出す挙句になるなんて。


 どうしよう。ここから巻き返す方法なんて果たして存在するのだろうか。


「なんで秤部が謝るの。今のは私が悪いから。えっと……ごめん」

「謝らないでよ。嬉しかったから」


 秤部はふわりとした声音で言った。嬉しそうに、言った。


 それを受けて疑問符が飛び跳ねる。なに、どういうこと?


 私が会話下手なのは改善点として間違いない、が、秤部も大概だ。責任は折半にしておこう。

 しばらく無言のままでいると、隣の宇宙人が思いついたように口を開いた。


「増えるんだね。双子ってさ」


 ピンと伸びた指先は、私の左手、シンプルな意匠の腕時計に向かっている。三年と少し前、小学生の終わり頃に姉が両親を言いくるめて、お揃いで買ってもらった代物だ。


 秤部の言い回しにいちいち取り合わないと決め、会話を繋ぐ。


「姉が好きでさ。お揃いとか、そういうの」


 服や小物もほとんど姉とお揃いを使っている。ただでさえ同じ顔をしているのだから、身に着ける物くらい差をつけた方が不便を減らせるだろうけれど、私からそれをする勇気はない。


 秤部は顎に指を添えて考え込むような顔をする。


「便利かな、あった方が。時間とか分かるし」

「スマホで事足りるよ」

「持ってないんだ。その、すまほってやつ」


 なんとまあ、それはまた。清々しい浮世離れを見せつけられた。呆れたものの、同時に納得できてしまうのが秤部の不思議なところだ。最新モデルを持っている姿の方が、確かに想像は難しいかも。


「気にはなってる」

「いろいろ便利だよ、動画見たり」

「ないとさ、言わなそうだよね。もしもしって」

「……道端で寝てる人とかいたら使いなよ」


 噛み合わない会話。ほんとなんなのこいつ。私はこっそり責任の比重を秤部多めに振り直した。


「そうだ。淡、手つなぐ?」

「なんでそうなったの。繋ぐわけないでしょ」

「重そうだったから」


 暴力的な行間の持ち主が、しかし私の問いにはっきりと、言い切ってみせた。

 その眼にはなにが見えているのか。


「……うん。重い」


 つい本音が零れてしまった。秤部があんまり無邪気に笑うから。

 私に向かって、笑うから。

 そうだよ、私にとってこの時計は枷のようなものなんだ。

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