クジラの森

飯田ちゃん

第1話

田んぼの中心にぽつんと繁った鎮守の森。それを横目に、あぜ道を自転車こいで進む。

照りつける太陽に、汗の粒が顎の先からぽとりぽとりと零れ落ちている。暴力的な暑さだ。

水筒に入っていたスポーツドリンクも、学校が終わる頃にはすでに空になっていたもので、とにかく喉が渇いた。

家に帰ったら真っ先に冷蔵庫の麦茶をガブ飲みしてシャワーを浴びよう。そうしよう。

だけど自転車はまだ、中学校と家までの中間距離までしか来ていない。先は長いのだ。


これだから田舎は嫌になる。

これが都会であったなら、電車だバスだと冷房の効いた車内で移動できるっていうのに。

残念ながら僕の住む町に電車は通っていない。バスはあるにはあるが、数時間に一本というありがちな田舎シフトだ。時刻表を何度見た所で町内にひとつしかない中学の始業時間には余裕で間に合わない。本当に町なのか? 村だと名乗ったほうがまだしっくり来そうだ。どの家も老人ばかりの限界集落だ。

心の中で愚痴りながら、今日も僕は片道10キロメートルのペダルを回している。



チリンチリン。


自転車のベルが聴こえた。僕のではない。

足を止めて音が鳴った方を見れば、農機具小屋の日陰に女の人がいた。

近所の幼馴染みのミサさんだ。

去年まではなんとなしに一緒に登校していたものだが、彼女が高校に上がってからは時間が合わず、これまたなんとなしに各自登校に変わっていった。

そういえば高校の制服を着たミサさんを初めて見たのだが、中々に似合っている。



「あれ、どうしたの? 自転車でも壊れたの」


「そうそう、ちょっとパンクしちゃってね。ここで休んでたところ」


「ツイてないね」


「隣町の高校に行ってるから、バチが当たったのかも」


「なにそれ、この町に高校なんてないんだから仕方ないでしょ」


「そうなんだよねー」


「じゃっ」


「ちょっと待ってよ! 困った女の子見捨てて帰るつもり!?」


暑すぎて人と話すのも億劫だったので、長引きそうな会話を強引に打ち切ったのに、引き止められてしまった。


「いや、だって暑いし、僕なんてとっとと帰りたくて仕方ないんだよ。そりゃあ自転車がパンクして大変なのは分かるけど、だからって二人乗りでミサさんを送る体力なんてもう残ってないのだし、修理だって出来ないよ。

居たってすることない」


だからミサさんには強く生きて欲しい。


言い捨てて自転車を発進させようとしたが、彼女に荷台をガッシリ掴まれて阻止された。


しまったぞ。完全に捕まったぞ。


「アンタは本当素っ気ない! 昔っからそうだよね! 絶対にモテないでしょ!?」


「知らないの? 今はクールな男がモテる時代だよ」


「思春期にクールぶってた期間が長ければ長いほど、大人になってから後悔するってなんかの本で書いてた! いいから観念なさい!」


「嫌だ帰るぅぅー!! 帰って麦茶飲むのぉぉぉー!!!!」


「ああーっもう! お茶ならミサお姉ちゃんの水筒にまだあるから、一杯付き合いなさい!」


「それならば」





「アンタねぇ……」


自分の水筒コップに彼女のお茶を注いでグイっと飲み干す。ああ生き返った。「やっぱり持つべきものは近所のお姉ちゃんだ」なんて、率直な感想を述べたら呆れられた。


「クールが売りな男は何処にいったのかしらね」


「どう振る舞った所で、クソ暑いのは変わらないし、お茶は美味い。どれもう一杯下さいな」


「物で釣られる男ってサイテー」


笑いながらミサさんはお茶を注いでくれた。







農機具小屋の柱に背を預け、蝉のやかましさをBGMにお茶を飲む。影に居るだけで暑さが大分違う。流石に涼しいとまでは言えないが、時折吹く風は心地よかった。


目線の先にあった鎮守の森を、ぼけーっと眺めていると、そういえばあそこに入った事は無いなと思った。


「ミサさんさ。あそこの鎮守の森に入ったことある?」


「あるよー。子供の頃に一回だけど、禁足地に入るんじゃない! って、後で大人の人達にすっごい怒られた。

あの鳥居の奥にちっちゃい祠があったっけ。大したもんじゃ無かったけど、それでも神秘的っぽい雰囲気は割とあったね」


彼女は自身用のお茶を注ぎながら「なんなら今から行ってみる?」とイタズラっぽく笑う。

確かに入ってはいけない場所に行くのは興味はある。それに、あの木々の中ならきっと大層涼しかろう。

だが、いかんせんこの暑さだ。きっと鎮守の森に行くだけで、また汗だくになるのは目に見えている。

すでに僕の体は農機具小屋の日陰から一歩たりとも出る気がおきなくなっていたから、遠慮しとくと言ったら、ミサさんは残念そうだった。



「あの鎮守の森ね。鯨ノ神社って名前なんだって」


「くじらの神社? クジラって、あのクジラ?」


僕が知らなかったのが余程嬉しかったらしい。彼女はニヤニヤと「へー、地元民なのに知らないんだー」などと一通り小馬鹿にしてきた後に説明してくれた。


「そう、あのクジラ。海で泳いでるでっかいクジラ。ねえ、ファフロツキーズ現象って知ってる? 空からカエルとか魚が降ってくるやつ。

ある日、降ってきたらしいんだよね。クジラが」


「まさか」


「なにぶん民話の昔話だから、本当かどうかは眉唾。

それで当時はこの辺り一面が生い茂った森だったらしくてね。その森からドスンとすごい音がしたってもんで、分け入って調べてみたら、一頭の大きなクジラの死骸があったってわけ。

大きすぎて持ち運び出来ないし、放置しておくかってなって、それでも物好きがちょくちょく様子を見に来てたりしたの。

そしたら日が経つにつれて異臭が凄いのなんので、結局数年間は誰も近づかなくなっちゃった」


確かにクジラ一頭が森の中で腐っていってるのだ。腐敗臭も相当なものだったろう。

疫病の危険だってありそうだし、好奇心云々より自衛のために立ち寄らなかったのが正解かも知れない。

それにしてもクジラか。まさか日の丸弁当の梅干しのように、田んぼの中心にちょこんと居座る鎮守の森に、そんな伝承があったとは驚きだ。


「それで、そのクジラは結局どうなったの?」


「まあこっからが話の肝でファンタジックなんだけど、数年後にどうしたものかと見に行った所、クジラの肉は腐って分解されたか獣に食われたかで、すっかり無くなってた。

問題は残った骨のほうで、なんと骨にはびっしりと花が咲き乱れてたの。

この花が奇妙なことに、葉も茎もなく、骨から直接咲いてるんで、おおこれは珍しい。きっと神様的なアレだなって事で祠を建てたんだって」


「それは面白いね。葉も茎も無いってことは、根は骨の中にびっしりだったんだろうなぁ。一体どんな花だったんだろう」


「さてね。百日紅か百合か彼岸花か、伝承によって違いがあるっぽいし、案外色んな花が咲いてたかも知れないわね。それか全く違う新種の花か。

その花は骨が朽ちるその時まで、ずっと咲き続けていたらしいわ」


「って事は、もう無いんだな」


「そりゃあ今でも咲いてたら町おこしにでも使ってたんでしょうけどね」


ふぅっ、とミサさんはお茶を一口飲んで呟いた。


「きっと、鯨骨生物群集なのよ」


「げいこ……えっ何?」


「鯨骨生物群集(げいこつせいぶつぐんしゅう)。死んだクジラが海底に沈むと、そこではクジラの死骸を栄養にして、局地的で限定的な独自の生態系が生まれるの。

死骸が骨まで無くなれば生態系は終わってしまう。

中には生物群集を渡り歩いて繁殖してる種もあるんじゃないかって話だけど、私としてはクジラと一緒に生態系も閉じて消えちゃうほうがロマンがあって好きかな」


ミサさんはたまに難しいことを言う。

地上でも海底と同じように独自の生態系とやらが発達して、変な花が咲いてしまったのだろうか?


「でもやっぱり伝承で作り話だって気がするよ僕は」


「確かめる術はもう無いからね。どう思うかは自由。ねえ、アンタは高校を出たらどうするつもりなの?」


「いきなり話変わったね。高校卒業したらなんて、まだ入学もしてないってのに。

そうだな、大学か就職か考えもしてないけど、この町からは出てみたい」


「そっか。私は家の農業を継ぐからずっと居る。クジラの骨に咲く花みたいに、いつか町がなくなるその時まで。

だからまあ、アンタが町出ても暇ならちょくちょくお姉ちゃんに会いに戻ってきなさいよね」


「だからまだ先の話だってのに、どうなるかは分かんないって」


「女のお願いを即答でオーケーできない男はモテないよ」


「まじか」


「せめて盆と正月は絶対に帰ってくること」


「はい」


「お土産は食べ物系だと嬉しい」


「はいはい」


「いい男がいたら紹介すること」


「はいはいはい」


「よろしい!」



プップーと、ここで車のクラクション。

田んぼの細いあぜ道を、車幅ギリギリだというに難なく向かってくる車。あれはミサさん家の軽トラだ。


「ああ、どうやら僕は、迎えが来るまでの時間潰しに付き合わされていたんだな」


「あれ、今頃気付いた? 知らずに話し相手になってくれるんだもの。やっぱりアンタはいい男だね」


「はいはい」


彼女の自転車を荷台に上げるのを手伝っていたら、運転席の親父さんに「坊主も送ってってやっから自転車乗せて荷台に乗りな」と言ってくれた。

道路交通法が頭を過ぎったが、聞くのも野暮だ。それに、この暑さの中自転車をこがなくて済むのは僥倖だろう。


こんな所が田舎の素晴らしきかな。




軽トラは走る。

鯨ノ神社がどんどん遠ざかる。

荷台から顔を出せば、汗ばんだ制服に風が当たって冷たいくらい。


あれだけお茶を御馳走になったというのに、家に帰るとやっぱり僕は麦茶をがぶ飲みしてシャワーを浴びてご飯を食べて宿題を適当に終わらして眠りについた。







鬱蒼とした木々を縫うように、大きな大きなクジラが悠然と森を泳いでいる。

「あまり見てはいけないよ」

十年前に亡くなった祖母が、まだ幼い僕の手を繋いで言った。

「いいかい。鯨の神さまの、あの祠まで立ち入ってしまったら、一生この土地に縛られてしまうんだ」

「へんなのー」

「私のおばあちゃん位までは、まだ骨の欠片が残ってたんだろうねえ。誰も集落から出なかったって話だよ。でも、いざ神さまの骨が消えてしまうと、みんな外に出たがって、どんどん寂れてしまったのさ」

クジラが鳴いた。よく見たらクジラの身体は肉じゃなくて、骨にびっしりと咲いた花で埋め尽くされていた。

「全く、見るなと言ってるのにこの子ときたら」








どうやらおかしな夢を見たようで、いつもより少し早く目が覚めた。

このまま登校の準備をして家を出れば、ミサさんと会えるかも知れない。


昨日の話題が頭に浮かぶ。町から出るとか出ないとか。でもそれは先の話だし、とりあえずはまた去年みたいに、朝は自転車で彼女と話しながら登校してみるのも悪くないと思った。





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クジラの森 飯田ちゃん @yuyuyun_yu

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