第17話 弓と竪琴
「そう、じゃあ、ハルくんもお兄ちゃんの部屋でいいのね?」
「はい、お構いなく」
「トーマ、布団は3m以上離して置きなさい……何かあったら大きな声で誰かを呼ぶんだぞ、パパならすぐにスコップ持って駆けつけるから……」
「パパ、うるさい」
「トーマの日本での暮らしはどう?ちゃんとご飯食べてる?」
「ええ、僕が甘やかされてしまうくらいにはしっかりなさってます」
「こんなにしっかりしてるハルくんにそう言ってもらえるなら安心ね!」
ハルはあっという間に僕の家族(父を除く)に馴染んでいた。
僕はというと、なんだか拍子抜けだった。
ハルに気持ちを伝えてしまったら、なにかが変わってしまうだろう、と思っていたから。どうなんだろう、僕の両親もそうだった?世間のみんなもそうなのだろうか?
考えても答えは出ず、いつの間にか部屋には僕とハルだけが取り残されていた。
僕は荷解きをするハルの邪魔をするように、背中合わせにもたれかかった。
ハルのあたたかさは気持ちよくて、つい眠ってしまいそうになる。
「どうしたの、トーマさん」
「……安心というか、拍子抜けというか……僕が恐れたように世界が急に変わることはなかったなって思って……きらきらとか、そんな風には」
「うん」
「それって、僕がずっと前からハルを好きだったってことかなぁ……」
ハルはぴたりと動きを止めた。あれ、疑問に思っちゃったかな。
僕自身もいつからなのかわからないのは、おかしいだろうか。
8歳のハルのことは忘れていたんだし、その時じゃないはずだ。
再会した時には心底気味悪いと思っちゃってたし……。
「……どしたの、ハル?」
「いえ……ここに来て良かったな、と思いまして」
「おおげさな……」
そっか。好きな人の育った場所って、来られたら嬉しいんだ。
あぁ、なんだ。僕の世界も、確かに変わっているじゃないか。
どこもかしこも幸せで満ちて、愛情が心の一番上に来ている。
こうして触れているだけで心の奥底から安心して、でも、どきどきして。
「……僕はすぐに、好きって言っちゃうのに」
「俺としては、もっと言ってくれてもいいんだけど」
「……ハルは、どうやって言うの我慢してたの?」
ずりずりと落ちて、ハル用の布団の上に寝転ぶ。
天井からは小さい頃に作ったステンドグラスのランプが、相も変わらずつり下がっている。場所は変わらない。僕たちが変わっていくだけ。
「俺はすぐに口が出るからなぁ」
「えー、言ってなかったよ」
「そっちの口じゃなくて」
軽く触れて、すぐに離れていく。
ランプの灯りを遮ったハルの顔も赤くて、少しホッとした。
「……あれ?じゃあ、ハルは8歳の時から僕のこと好きだったの?」
「藪蛇っ……いや、まあ……そう、思い返せば一目惚れかも」
「あんなにちいさかったハルがね~……」
「あのさ、トーマさんから見て、その頃の俺ってどんなだった?」
「どんなって……」
ひどく、つまらなそうな目で世界を見る子だなって思った。
色彩に富み、光に富み、こんなにきれいなもので構成された偶然の世界を。
まるで図形と幾何学模様だけで構成された必然の世界を見るように。
そしてすぐに、それが寂しさに由来するものだと気付いた。
雨に濡れて寒そうだったから、というのもある。
だから声をかけずにはいられなかったんだと思う。
ハルが振り返った瞬間。
なんて言ったらいいのかな、ラジオの周波数が合ったみたいな感覚に陥って。
本屋の店内に招き入れて、少しでも雨宿りができればいいと思った。
そうだ、人魚が寂しそう、そう言ったのはハルだった。
さっきまであんなに色のない目をしていたのに、急にきらきらと星を映したような目に変わっていて。僕はしばし、見惚れたんだと思う。
僕が失いかけていた純粋な希望や、何かが溢れて見えたから。
今までの人生で出会った他人はほとんど、胸の内に汚い下心を抱えていたから。
だから、その純粋な目を、もう少しだけ見ていたくて。
雨、止まないね。
雨、止まなきゃいいのにね。
思い出話をしたり、いちいち本の内容を説明したりで引き留めて。
雨、止んじゃったね。
でも、その子を世界に押し出すことを祝福するように、虹が綺麗で。
世界の何もかもが、ハルを歓迎するように輝いていて。
また来てくれるって。
ませたこどもの、去り際のちいさな口づけ。
それが、希望の御裾分けに感じた。
だから、耐えられたんだと思う。
それまでの不幸に、これからの絶望に。
きみのちいさな恋の芽が、僕の中で大きな愛情に育った。
「……ずっと支えてくれてて、ありがとう」
「俺はなにも……」
「ねえ、あと2年待ったら何があるの?」
「……あるモノを作ってるんですよ」
てっきり大人の仲間入りだと思っていたので、驚いた。
作ってる?何だろう、話の流れ的に……指輪とか?
いや、そんなの都合の良すぎる推測だ。
「……実は俺の家がここいらにもひとつ土地を持っててですね」
「えっ、すご」
「俺の好きなように使っていいって言うんで、家を……」
「家を!?……え、それと僕となんの関係が?」
「…………言っても、嫌わないでくれます?」
珍しく涙目だ。
一体何を隠しているんだ。
「あのぉ……まあ、その話が出たのがまあ、9とか10歳の頃で、ですね」
「うん」
「あの、俺、言ったじゃないですか、一目惚れだって」
「う、うん」
緊張のあまりか何なのか、敬語に戻ってしまった。冷や汗らしきものまでかいている……これひょっとして開けちゃいけない箱だった……?
「あの、当時の俺は自分でも思うほど単純なアホでして……家を建てたらトーマさんが一緒に住んでくれるだろうと……その、思っていたようでありまして……」
「え、嬉しい」
「え、うそ」
「ほんと……そんなに好きでいてくれたなんて……悪いことしたな……」
ハルは見てるこっちが可哀想になるくらい小さくなって焦っていた。
何が出るかと思ったら、微笑ましい話じゃないか。スケールはでかいけど。
恐れたぶん、ものすごく照れくさくなってきた。
「あの、僕……あの頃、自分のことで手一杯で申し訳なくて……」
「いや、事情はかいつまんで聞いてるので責める気は……それに、勝手に住むところを決めるなんて申し訳ないですし、その、もうほとんど趣味みたいなものなんでふつうに、断ってくれても……」
「まさか!……ねえ、それってここからでも行ける?」
ハルは来る時に使った地図を取り出し、電車の時間など、いくつか確認していた。
あぁ、なんて真剣な表情なんだろう。そこまで考えてくれてたのか。
僕ひとりのぜんぶくらいあげなくちゃ、割に合わないだろうに。
「行けますね、日帰りでもギリ」
「じゃあ行きたい!」
「明日、行きます?」
「行く!すっごい楽しみ!」
ハルは、安堵したように笑った。
僕はそれがとても愛おしくて、ぐりぐりと頭を撫でたのだった。
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