第6話 存在の耐えられない重さ
あの日からハルの家に行ってない。
連絡先も知らないし気まずくて行けてない。
このまま忘れてくれたら一番いいんだけど。
仕事がひと段落着いたことで、またしばらく暇な期間ができてしまった。
そうなると段々気になってきてしかたがなくなる。
これで怨まれたりするんじゃないか。ハルまで僕を殺しに来るんじゃないか。
でも、仕事はできてるんだから、僕はまだ大丈夫なはずだ。
大丈夫じゃないと、これが僕だなんて、おかしいだろう?
じゃあ、まだ僕だってやれるんじゃないか?
そう思ってペンを握ると、またいつもの発作が起きる。
おかしな震えを纏う利き手を反対の手で抑え込み、治まるのを待つ。
どうしてこんなことで血さえ通わなくなるのだろう。
絵を描こうとさえしなければ、僕はまわりの人と変わらずに見えるのに。
仕事があるだけ、家族が存命なだけ、生きているだけで恵まれてるって。
持っているものじゃなくて、ほしいものをひとつも持ってないだけで。
「寒さを乗り越えたことで、軽減するかと思ったのに」
寒さのせいにできるうちになんとか誤魔化したかったのに。
冬は終わり、本格的に春が来た。
次の仕事が入ってくるまでなにもしなくていいし、なにもしたくない。
なにかが視界に入るのが怖くて、なにかが聞こえるのが怖くて、僕はただ布団に包まって時間が過ぎるのを祈りながら明日が来ないことを願っていた。
誰だってそう思っているだろう、僕だってふつうだろう?と自分に言い聞かせて。
「………………?」
何かが聞こえた気がする。
怖い。何も頼んでないし、回覧板は置いておくよう頼んである。
確認のためにでも最低一日一回は外に出るように、と自分ではめた枷だ。
何かの工事か?いや、緊急事態ということもあり得る。
「…………」
誰かが絶えずインターホンを鳴らしている。
絶対、常識の通じる相手じゃない。
もし。
もし、だ。
悪意を持って僕の家を特定した”誰か”だとしたら。
ドア一枚隔てただけじゃ、なんの守りにもならない。
ベランダから逃げようにも、4階という微妙な高さだ。
降りて逃げられないし、飛び降りてもよっぽど打ち所が悪くなければ死ねない。
喉から変な音が鳴る。引き攣ったような醜い悲鳴が出る。
でも、僕はまだ大丈夫なんだ。そうだろう?
「とりあえず、カメラだけ……」
冷や汗をパジャマで拭い、インターホンのカメラをオンにする。
「トーマさん!花見行こー!!」
「………………はぁ~……」
正直、泣くほどホッとしてしまったことは事実だ。
自分がいつの間にか、そしてどれだけハルを信頼していたのか理解する。
「…………」
「……トーマさん?」
「…………」
思わず嗚咽が漏れる。
自分が情けなかった。
たかがインターホンで勝手に最悪の妄想を膨らまして、恐怖して。
「……っ、ごめん、すぐ開ける」
「なんかあったの?トーマさん大丈夫?」
「……上がって待ってて」
「いいの!?」
「……閉められたいのか?」
「お邪魔しまーす!」
ずび、と鼻を鳴らし、外出の支度をする。
といっても、今日は既に起きてたし、着替えくらいか。
とりあえず、ハルに飲み物でも出そう。
「コーヒーでいいよ!」
「こどもはジュースでも飲んでろ」
カフェインなんて胃に悪い、というとハルはニッ、と満面の笑みを浮かべた。
まったく、未だに素性の知れないこどもだ。
僕が寝室でのろのろ(たぶん、心の底では行きたくないから)着替えていると、ハルが声を上げた。
「絵本の中みたいっすね」
「なにが……ジュースが?カップが?」
「部屋全体が」
「…………」
自宅の中をきょろりと見回すが、自分ではわからない。
いくらか物も捨てたし、我ながら寂しい部屋だと思う。
いまハルが使ってるカップは、星の王子さまのカップだからまあ、絵本っぽく見えなくもなくもない気はしなくもなくもなくもないが。
「やさしいものでいっぱいでさ」
「…………わかんないな、僕には」
やさしさって、なんだよ。
僕は知らないぞ、そんなもん。
「……というか、なぜ家がわかった?」
「え?最初に会った日自分で言ってたじゃないすか」
「最初に……?」
よくよく思い返せば……確かに……家はどこかと聞かれて何か口走ったような気もする……でも、そんな間あったっけ、と思わなくもない……。
けど、不思議と悪い感じはしない。
あれだけ他人が家に来ることを恐れておきながら、それがハルだというだけで随分現金な人間だ。
「じゃあなんでハルの家にいたんだよ、僕は」
「ん?あぁ、頼み込むつもりだったし」
「はぁ……」
「できました?支度」
「あ、あぁ……まぁ」
正直気が乗らないが、この流れでは行くしかないだろう。
◆
「よかった、まだ人が少ないみたいですね」
「……あ、うん」
自分の心が、ぐしゃぐしゃになってしまったような気がする。
心の中で思うことすべてに矛盾を内包していて、気分次第で出てくる答えが変わってしまう。
僕はいま、とてつもなく死にたいと思いながら、どうしても生きたいと思った。
世界にはこんなにきれいなものがいくつだって無数にあるのに、そのどれもがひとつたりとも僕のためには存在していない。
それでもそんなきれいなものが存在する世界には生きていたくて。
でも、僕のものにならないのなら最初から何もいらない。
最初っから、何も持ってないのと同じだ。うまれたままと同じなんだ。
だから、わけもなく悲しくなってくるんだろう。
「トーマさん、俺、描きたいものあるよ」
「…………え?なに」
「でも、内緒」
「はぁ?」
「俺の納得がいくように描けたら見せたげます」
あぁ、自分でも暗い目をしているのがわかる。
それなのに、自分の意思で変わらない。動かない。
自分の体じゃないみたいに、意識の外側で、勝手に動いている。
「誰も、自分の納得するものなんて描けやしない……仮に描けたとしても、誰かの踏み台やフリーの”流行”素材として消費されていくだけ」
”これから”の未来に歓迎された人間に言っていいことじゃないのに。
胸の内に入り込まれるほど、与えたくない、醜い言葉ばかり投げつけてしまう。
「俺は潰れない……潰されない」
「……そんな保証、どこにもないだろ」
「そんで、トーマさんを守ってあげますよ」
ざらざら、春風が申し訳程度の花弁をさらっていく。
「………………はい?」
「俺が守ってあげます、トーマさんが他の何にも惑わされることがないように」
花美堂ハルは、異常だ。
「………………じゃあ、お前は……ハルは、僕を裏切らないよな?」
「もちろん」
けれど、僕だって最早異常だった。
ここには正常な人間がおらず、正しい判断ができなかった。
ただ、明日には覚める幻想のような誓いを、ふたりだけで交わしたのだ。
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