自分がロボットでないことを証明してください

四つ折ティッシュの角

第1話

 まずはじめに、この話は私がYouTubeを観ていた時にそういうサムネイルを発見し、そういえば昔似たようなことを考えたことがあったな、と懐かしさを覚え、執筆が上手くいっていないことに対する気晴らしも兼ねて書いたものだ。要は落書きである。


 本当にこういう問題があったのかは知らないし、答えも知らなければ興味もない。哲学なんてものは、その人がその人らしく生きるために活用する道具の一つであり、既にこの問題に付随する葛藤や苦しみを乗り越えた後の私には不要なものだからだ。


 これ以上読むのであれば、それらを踏まえてどうぞ。ちなみに後半は完全なる蛇足である。




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 この問題に答えるに際し、血が出るとか、呼吸がどうこうという答えは除外する。というのも、出題者がわざわざロボットを選んだ意図を汲んだ方がいいだろうと思うからだ。だから私はそのためにまず、一つの前提条件を定めるところから始めたいと思う。


 私は、何故この問題が人間とロボットを対比しているか、という点に着目する。


 おそらくは人間とロボットの間に共通項があると感じてのことだろう。そして私はその共通項を、人間とロボットの『行動原理』だと仮定したい。


 ロボットの行動原理は言わずもがな、組み込まれたプログラムである。そして人間の行動原理とは、脳に刻み込まれた本能である。


 人間が何かをしたいと思った時、その想いを深掘りしていくと必ず本能からくる欲求に帰結する。心当たりはないだろうか。


 ブランド品が欲しい。モテたい。


 金が欲しい。強くなりたい。


 美味しいものが食べたい。友達が欲しい。


 理由が何であれ、それらは全て、古の時代から表題を変えてきただけの生存本能に過ぎない。


 こんな話を読んでいる、百にも満たないであろう物好きであるところの皆々様方なら存じ上げている割合も多いことだろう。人間の脳は遥か昔からほとんど変わっていないという事実を。


 自分を飾りつけるのは、自分の価値を周囲に見せつけるためである。狩猟採集の時代、群れからはぐれることは死を意味した。


 異性を手を入れることは子孫繁栄のため。強さを求めるのは弱者に待つのが死だから。友が欲しいのも、生き残る確率を少しでも上げるためだ。


 ご飯とか金とかは、言う必要はないだろう。私が言いたいことはもう充分伝わっていると思う。故に省力する。


 ちなみに、私は違う、という意見もあるだろう。それに対しては、独自性を求めるのは立派な生存本能の一つだと述べておく。


 まあ要するに、人間も所詮は本能というプログラムによって行動しているだけの生き物だということだ。


 自分の意思で何かをしているように思っても、その自分は敷かれたレールの上の走り続けるただのマリオネットだと気付いた時の絶望を知っている者が何人いるだろうか。


 話が逸れてしまった。前書きが長くなってしまったが、私はこの『行動原理という共通項』を否定することで、この問題の答えとさせて頂く。


 とは言え、私の答えは非常にシンプルだ。ここまで書いておいてなんだが、答えだけ書いてはあまりに短くなってしまうので。


 ロボットはスペックの差はあれど、その性能は人間に比べ高性能だ。命じられたことを忠実に実行する。


 だから私は、ロボットでないことを証明しろという指令に対し、私の自由意志を以ってこの問題に答えないこととする。


 もっと簡潔に答えるなら、空欄で提出するとか、『嫌です』とでも書いておけばいいだろう。


 それでは、これにて私の証明を終了する。








 と、色々書いたみたが、この問題が本当に問いたかったのは人間の存在証明、レゾンデートルに関してだったのではないか思う。


 ただ、入試問題にするには不適切だったのだろう。そこまで定義を広めてしまうと、寄せられる様々なアプローチに対して何を基準にして採点するか不明瞭になってしまうからだ。


 そもそも、決まった答えなど存在しない哲学の問題をどう採点しているのだろう。素朴な疑問である。そして、採点者の方々はお疲れ様です。


 さて、レゾンデートルに言及したからには、それに関する考えも述べていきたいところだが、残念ながら私がそれにいくら意見したところで意味を持たない。


 何故かと言えば、私に価値が無いからだ。厳密に言えば、レゾンデートルに関する事柄に言及するには格が足りないということである。


 ロボットでないことを証明することと、人間の存在価値を述べることは、哲学的な深さに違いがあると思うのだ。だからこそロボットという制限をつけたのはないかと邪推するほどには。そこまでの大きな差が、この二つの間には存在する。


 大き過ぎる事柄に言及するには、それ相応の実績や肩書きがいる。どうしてか。説得力を持たせないといけないからだ。


 主義主張は、人の心に響いて初めて意味を成す。一例を挙げよう。


 あなたの前には近所に住む成金のおっちゃんがいる。そのおっちゃんは、あなたに対して有難いご高説を述べるのだ。


「商売で儲けるなんて簡単だ。これだと思った物をパクる。それだけだ!」と。


 これを聞いたあなたはどう思うだろうか。おそらく良い感情を抱かないと思う。


 しかし、商売における模倣の有効性は様々な偉人が証明して憚らないものだ。


 経営の神と呼ばれる松下幸之助氏も言っている。芸術家であるピカソすら言っている。それでもあなたは聞く必要がないものだと一蹴するだろうか。


 多かれ少なかれ、その言葉を口にする人物によって受ける印象は変化する。どうしてこのようなことが起きるのだろうか。


 言葉の重みだろうか。その言葉を言った人物の積み重ねてきた人生が、言葉に重みを持たせるのだろうか。


 そのような意見があったなら、すまないが私は笑ってしまう。あなたがその人の何を知っているのだと、笑ってしまうのだ。


 言葉に重みなんかあるわけじゃないか。それなのに重みを感じてしまうのは、聞く側が勝手に重さを付け足しているからだ。


 実績ある人とは何だろうか。それは、圧倒的大多数に支持された人のことだ。


 つまり、圧倒的大多数の『正しい』が凝縮した塊。それが世にいう成功者と呼ばれる方々だ。


 そんな人が言う言葉なら、肯定しないわけにはいかない。


 何故って、安全だからだ。間違った言葉を聞いていたら死んでしまうかもしれないからだ。


 未だ狩猟採集時代に取り残されている私たちの脳は、自分たちを安全に導いてくれるリーダーを好んでいる。だから知らず識らずのうちに補正をのせて、迎合するのだ。


 こういうサイトに作品を投稿している関係上、自分が正当な評価を得られないと嘆き苦しんでいる方を偶に見かけたりするが、それは仕方のないことだろう。ぽっと出の人物に命を預けようとは誰も思わない。それと同じである。


 勿論例外はある。しかし、例外と言われる意味を考え、縋らない方が有意義な時間を過ごせると私は思う。


 公平公正な判断、評価を読者に期待するのは酷な話だ。


 間違ったことを言えば周囲から邪険にされるかもしれない。群れから追放されて一人で生きていかなければならなくなるかもしれない。


 とても勇気が要ることなのだ。無理強いをするものではないだろう。


 さて、あまり関係ないことまでつらつらと述べてきたが、これで私が、私には価値が無いと言った理由は理解してもらえただろうか。


 言いたいことを散々言って、満足である。それでは私はこれにて失礼させてさせてもらおう。


 え、逃げるなと仰るか。こんな落書きに救いを求めないでほしい。私はそこまで正しくない。

 

 ただ、私は真面目に生きるあなたが嫌いではない。だから、生き抜いたという実績だけはある私から一つだけ言わせてもらうことがあるとすれば、それは、目の前で大口を開けている獅子に噛み殺されないように気を付けた方がいいだろう、ということだ。


 これは決して挑発の類ではない。あなたを心から心配して申し上げる、せめてもの忠告である。








 それはそうと、レゾンデートルってカッコよくないですか? 何回も使っちゃいましたよね(笑)

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