ゴーストハニー
洗う
ゴーストハニー
「気付いてなかったの?」
見下ろされた女の子は涙目で振り返った。
「いつから降ってた……?」
「俺が家出たときにはもう降ってた」
「え~」
ハンガーごと抱えて脱衣所に行き、一着ずつ外して、型番の古い洗濯機に突っ込んでいく。鞠も付いてきた。
「全く、少しは外を見ろ」
「朝のニュースで曇りマークだったから」
「天気予報は見るんじゃなくて聞くんだよ。表示されるマークは区切りごとの平均値に過ぎないんだ、細かく見れば場所によって天候が違う。気象予報士が『ところにより雨』と言っていれば、曇りのマークの地域で豪雨が降ることだってあり得る。実例もある」
「へえ」
「大事なことほど隠れているものだよ」
「
俺が手に取った黒い布を、よく見ないうちに鞠が奪った。彼女はそれを後ろに隠しながら赤面する。
「ご、ごめんね、うっかりしてて……」
二秒考えて、「ああ」と理解した。
「下着くらいで騒ぐなよ」
「くらい!?」
洗剤を適当に入れてスイッチを押した。リビングに戻る間にも、彼女が後ろから文句を飛ばしてくる。さっきまでしょげていたくせに、今は何故か怒っていた。
「もう! 私だって年頃なんだよ!」
「心配するな。君の下着に興味無い」
「晶くんの馬鹿あ! 無神経! コミュ障! 社会不適合!」
「大分言うな……ほら、これで機嫌直せ」
紙袋から小さなガラス瓶を取り出すと、今度はぱっと嬉しそうな顔をした。忙しいな。
「道草堂のプリンだ! ってことは」
「ああ。原稿終わった」
彼女の手にプリンを乗せる。伸びた前髪の隙間から覗く、墨色の瞳に向かって笑った。
「今回も頼むよ、アキラ先生?」
出版不況の現代日本に彗星の如く現れた、新進気鋭の若手作家・山田アキラ。その平凡と見せかけて中毒性のある文体と、ほぼ全てのジャンルを網羅する芸域、枠に捉われない展開から幅広い層の人気を博し、著作は発売前重版、メディアでも頻繁に取り上げられている。
小説家も顔を出す時代だ。インタビュー記事や講演会で確認できるその姿は、くせのある長い墨色の髪を素朴に下ろした伏し目がちの女性。気弱そうな容姿と作風とのギャップも話題を呼ぶ種である。
まあ、ギャップがあるのは当然だ。俺が書いているのだから。
「スポーツ選手とかタレントとか、著名人の名前で出版される本の多くが、本人ではなくゴーストライターによって書かれている、という話はあるが。一般人のゴーストをプロがやるのはまずないだろうね。知名度のあるほうに裏方をやらせるなんて、マーケティングとして矛盾している」
俺と並んでソファに腰掛けている一般人は、プリンを飲み込んでから「自分がやってるくせに」と言った。
俺、
俺と鞠は大学の同級生で、共通のゼミで出会った。家に引き籠もりろくに研究室に来なかった彼女に俺が話を持ちかけ、ハリボテ作家になってもらったのだ。
俺が書いたものを、鞠の顔と適当に付けたペンネームで発表している。顔が出る仕事は全て鞠、執筆やサイン色紙の作成など、裏でできることは全て俺。収入は折半。現在、お互いに他の本業はない。俺たちと一部の編集者しか知らないこの秘密は、三年ほど前から続いている。
こうして俺が彼女の家を訪ねて、リビングのソファに並んで座り、原稿の受け渡しやメディアに話す内容の擦り合わせをするのが恒例だ。毎回甘いものを買ってくることも定着している。原稿が上がった日は道草堂のプリン。彼女の一番のお気に入りらしい。
俺はプリンを食べながら、ソファ前のローテーブルに置いたノートパソコンを開く。出版社から鞠のほうに届くメールは、全て俺に自動転送される。
「来週の文芸誌のインタビュー、回答送っておいたから覚えてくれ。向こうとの打ち合わせには無かったけど、次の新刊の話は絶対聞かれるだろうから、前に送ったこっちの文章を繋ぎ合わせてそれっぽく答えろ。で、原稿はこれ」
「うん」
USBメモリを受け取った鞠は神妙に頷く。
「あそこの編集さん、いつもすごい元気なんだよ~。喋るの早いし、怖い……」
「君なら平気だよ。暗唱してさっさと終わらせて来い」
「うう……」
鞠は気弱かつ人見知りかつ社交性に欠けているが、暗記能力が飛び抜けている。俺の小説の内容も講演会の台本も、一言一句完璧に覚えて舞台に立てるのだ。しかし覚えようとしないと覚えられないらしく、先週見たテレビの内容は忘れている。
「あと、曙新人文学賞取ったみたいだけど、辞退しよう。注目されすぎると危ないし、君も大量のフラッシュを浴びるのは流石に嫌だろ」
「でもあれってすごい賞なんでしょ? 選考が厳しくて、十年に一作しか受賞が出ないって」
「そうだけど、別にいい。賞のために書いているわけじゃないからね」
「ふうん」
答えながらスプーンでプリンをすくう。まだ底のカラメルに届かない一口は、舌の上で恭しく溶けていった。上品かつただ高級なだけではない、奥深い甘さだと思う。普段間食しない俺もこれは結構好きだ。他のプリンには無い唯一無二の味である。
きっと、企業秘密の隠し味が入っているに違いない。何なんだろう。
「で、昨日はどうだった?」
鞠は昨日、少し前に単行本を出した出版社の編集と二人で打ち合わせをしたはずだ。
「あ、あのね、またうちで新作を書いてほしいって言われて」
「うん」
「次は恋愛ものにしたいって」
「うん!? っうわ!!」
プリンを落としそうになった。
「だ、大丈夫?」
「ああ、うん……遂に来たか……」
「晶くん、ミステリーもコメディもホラーも書くけど、恋愛は書いたことないよね」
「いつか言われると思っていたよ。万葉集然り、古代から恋愛は日本文学の主要なテーマだからね」
「書けないの?」
「否! 俺に書けないものは無い!」
立ち上がって宣言したはいいが、純粋な目で見つめてくる鞠に少したじろぐ。
「……書けないものは無いが……書きにくいものはある」
「じゃあ断る?」
「書く!」
「意地っ張り」
彼女が小さく笑った。と思えば、すぐ不安げな顔をする。
「でも、その新刊を出すときに、一緒にサイン会もやりたいって言ってて……」
「へえ。いいんじゃないか」
「よくないよお! 読者さんと会うとか私には無理!」
「講演会やっただろ。俺の原稿丸暗記したやつ」
「一方的に喋るのと直接向き合うのは全然違う!」
「まあそうか……でも読者にとっての山田アキラは君だからね」
「うう……」
鞠は俺に対しては遠慮なく好き放題喋るが、代わりに俺以外の人間との対話機会が少なすぎる。確かに数秒ずつとはいえ、不特定多数とコミュニケーションを取れる人ではないだろう。
しかし俺が出ていくわけにもいかない。あの出版社は無駄に古いから作家の要望に柔軟な対応は見せてくれないだろうし。ていうか俺の恋愛偏差値もどうにかしないとそもそも執筆ができない。
スプーンを宙に留めたまま、斜め上を見て思案する。鞠はカチャカチャと鳴らしながら最後の一口をかき集めていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「デートするか」
「え!?!?!?!?」
隣からかなり大きな声が飛んできた。
「誰と誰が!?」
「俺と君が」
「どこに!?」
「水族館とか良いんじゃないか。夏だし」
「なんで!?」
「俺は新作の取材になる。君は人混みの練習になる。丁度良いと思うけど」
「え、え、なっ、本気い!?」
彼女は顔を真っ赤にして動揺していた。そこまで人混みが怖いのか。
「無理強いはしないよ。やめておく?」
しかし、何故か即答された。
「行く!」
屋外で鞠を見るのは久しぶりだった。
紺の布地に小さな花柄を散らしたワンピースと、七月下旬に不釣り合いの白い肌。髪は下ろしたままだが、いつもより真っ直ぐだし艶もある。
「晶くん、あの子綺麗!」
俺の隣に張り付く彼女が水槽を指さした。
「デバスズメダイか。あれは飼育しやすいよ」
「そうなの? うちでも飼える?」
「飼えるけど、鞠、洗濯も出来ないのに魚の世話できるの?」
「掘り返さないでよ! あ、あっちも見たい!」
「はいはい」
彼女はすれ違う人にいちいちびくつきながら、スローペースで水槽を回っていく。俺の右隣にぴったりと張り付いて、シャツの袖を絶対に離さない。これ多分伸びるな。
いつも買い出しくらいしか外出しないから、この人混みはきついだろうに。
「ね、この子ずっとこっち見てるよ! こんにちは」
「思ったより楽しそうだね」
「え? 楽しいよ」
魚から目を離して、彼女が笑った。足元よりも明るい水槽が、その頬を青く照らす。
「…………なんか可愛いな」
「うん、可愛いよね!」
「ん? ああ」
「あ、お手洗い行ってきていい?このあと座るから」
「一人で行ける?」
「馬鹿にしてるよね!?」
鞠が文句を言いながら化粧室に入っていった。俺は程良い距離の壁沿いに立って、人並みの隙間から水槽をぼんやりと眺める。
気付くと、すぐ近くに知らない女性が二人いた。同い年くらいだろうか。
「お兄さん一人?」
「やば、めっちゃイケメンなんだけど!」
「よく言われる」
「「ウケる~!」」
二人は揃って笑う。
「ね、一人ならうちらと回ろーよ」
髪の短いほうに言われて、ナンパされているのだと気付いた。人生八回目である。
一人ではないし、初対面の相手と有意義な時間を過ごす自信も無いので断れば良いのだが、これはチャンスだと思った。交友関係の形成に積極的らしき若い女性二人。恋愛小説を書くためのヒントが得られるかもしれない。少し話を聞いてみるか。
「君たちは時間の無駄遣いが好きなのかい?」
「え?」
「日本は一夫一妻制を採用しているにも関わらず、一人の男に対して女二人で声を掛けているところから、俺と人生を共にする展望と覚悟は無いようだけれど」
「ん?」
「つまりこの行動は娯楽の一環なんだろう。何に快楽を感じるかは実に多様であるが故に、残念ながら俺はナンパというものの魅力を理解できていないんだ」
「は?」
「聞かせてくれないか、君たちの価値観を。この生産性の無い行為は、君たちにとって如何に有意義なのかを!」
二人は仲良く表情と台詞を揃えた。
「「きっも!」」
そして怒りながら人混みに消えていった。俺は首を傾げて、その背中を見送ってから身体の向きを戻す。
目の前に鞠の呆れ顔があった。
「晶くんって、堂々としてるタイプのコミュ障だよね」
一部始終を見ていたらしい。
「俺は推敲無しじゃ言語を操れないんだよ」
「私のこと言えないじゃん。まあいいや、早く行こ。始まっちゃう」
鞠は何故か先程よりも強く袖を引いた。
「じゃあ、次はみんなでいってみようか! プール中央にご注目~!」
飼育員の合図で、三匹のイルカが同時に飛んだ。年齢幅の広い歓声が沸く。
昼食と重なる時間帯にも関わらず、イルカショーの会場は満席だった。後方には立ち見の客も見える。
隣に座る鞠は目を輝かせ、前のめりでイルカに拍手を送った。それから俺に耳打ちする。
「本物初めて見た! あんなにつるつるで可愛いんだね」
「俺も実物は初めてだな。前に参考として調べたことはあるが」
「知識はあったってこと? 例えば?」
「あれはバンドウイルカだろ。バンドウイルカのオスのアレは普段は腹部に収納されていて、交尾のときだけ露出させてメスの」
「他の無いの!?」
鞠は俺の雑学をせき止めると、「もー」と言いながら正面を向いた。
「そんなんじゃ恋愛小説なんか書けないよ。晶くん経験無いでしょ」
「無い経験を書くのが作家だ。そういう君だって無いだろ」
「…………あるよ」
「え?」
騒がしい声と水の音。屋根が太陽を遮って薄暗い客席。蒸し暑い空気の中を風がゆるく駆けていく。
墨色の瞳が俺を見る。
「好きな人くらいいるよ」
そのとき、一際大きい水飛沫と歓声が弾けた。
「わ! 今何してたのかな、見逃しちゃった」
彼女がぱっとプールに向き直り、会話が終了した。俺だけが視線をずらせずに、楽しそうな横顔をぽかんと見ている。随分間抜けな様だろう。
すぐに収まったが、一瞬だけ、でも確かに、心臓が縮まった。
……なんだこれ。
背の低い棚にずらりと並ぶ商品を、鞠は律儀に端からじっくりと吟味する。外出をしないのだから、土産物を買う機会も無いのだろう。展示と同じように目を輝かせる様子は子供みたいだと思う。
「わ! 可愛い~! これ買う!」
彼女の声が一層弾む。両手で持ち上げたのは、五キロの米袋ほどの大きさの、イルカのぬいぐるみだった。ショーのバンドウイルカは灰色だったが、これは明るいピンクで、よくあるデフォルメである。俺は彼女が抱える個体のタグを裏返した。三千五百円か。
「買ってあげようか」
「え、悪いよ、っていうか、あのね」
「ん?」
まだ買っていない商品に口元を埋(うず)めないほうがいいんじゃないか。
「その……晶くんにも買ってほしい」
「二体欲しいの?」
「お揃いで買いたいの! 晶くんはこっち!」
鞠がピンクの隣に並ぶ水色のイルカを指さした。
「俺?」
素直に驚く返事にたじろいだようだが、彼女は俺を真っ直ぐに見たまま、上目遣いで小さく言った。
「だめ……?」
すぐに声が出てこなかった。
「……いいよ」
「ほんと!?」
イルカから離れた顔がほんのり赤く染まる。俺の家にぬいぐるみを置いて何が楽しいんだ。まあいいけど。うち本しか無いし。
「じゃあ両方買ってあげるよ」
「でも、チケット代も晶くんが出してくれたのに」
「俺の稼ぎ知ってるだろ。いいから選んで」
「う……そう? じゃあこの子」
彼女は申し訳なさそうに、先頭に並べられた水色のイルカを手に取った。抱えていたピンクと合わせて両腕に収める。
厳選する様子が全く無い。
「え、それでいいの?」
「何が?」
「後ろからもっと綺麗なやつとか、探したほうが良いんじゃないか。糸がほつれてたりするだろ」
もし選ぶのが俺であれば、おそらく三分は悩むと思う。
この人はいつもそうだ。どうしてそんなに簡単に選ぶのだろうか。
大事なことほど隠れているはずなのに。
そう言おうとしたら遮られた。
「こういうのは、一番前の子が一番可愛いの。だって、私はその子を見て、欲しいと思ったんだもん」
「はあ」
「目の前にあるものを選べばいいんだよ」
鞠は嬉しそうにぬいぐるみを抱きしめた。
彼女の家が近付いてくると、往来が少ないこともあるのか、余裕が出てきたらしい鞠が俺より少し先を歩く。ちなみに、最初に俺はタクシーで行こうと提案したが、何故か彼女は電車を使いたがった。案の定、他の乗客が乗り込んでくる度に汗を垂らしていたのに、どうして人の多い、時間のかかるほうを選んだのだろう。
「道草堂のお店も初めて見た! お菓子全部美味しそうだったね」
俺の右手にはぬいぐるみの入ったポリ袋、左手にはプリンの入った紙袋がある。ちょうど帰り道にいつもの店があるから、ついでに寄ってきたのだ。
「じゃあ他のにすれば良いのに」
「これが一番食べたいの! 買ってくれてありがと」
イルカと一緒に振り返った笑顔に、夕陽の逆光が淡く落ちる。彼女はぬいぐるみを袋に入れずに、抱いたまま帰ってきた。本当に子供みたいだな。
「今日どうだった? 恋愛もの書けそう?」
「どうだろう。カップルの観察はできたけど、心理や情景をどこまで想像できるか……」
「晶くんが新しいジャンル開拓したら、ファンの人喜ぶだろうね」
「そうかな。下手に迷走する作家は信用を失いそうだけど」
「大丈夫だよ、私が嬉しいもん」
「は?」
「あれ」
鞠がもう一度振り返る。素直に揺れる墨色の髪に夕焼けが透けた。
「言ってなかったっけ? 私、晶くんの小説好きだよ」
二つ気付いた。俺は案外、簡単に恋愛小説を書けるんじゃないかと思った。
もう一つは気付かないふりをした。
「創立五百周年記念パーティーか。そういえばあったな、そんなの」
「無理!! 絶対無理い!!」
九月下旬、いつものリビングで、鞠は顔を覆って叫んでいた。
「でも断れないだろ。無駄に古い出版社だからこういうの強制参加なんだよ」
「もう晶くんここで書くのやめない!?」
「来週末だから今からやめてもなあ」
「ドレスコードあるパーティーでお偉いさんと歓談するの!? 私が!? できるわけないでしょお!!」
「うーん、助けてあげたいけど難しいな……」
水族館は楽しんでいた鞠だが、まだまだ他人に慣れてはいない。一人でパーティーに乗り込むのは確かに酷だろう。
例の恋愛小説が上がったので道草堂のプリンを持ってきたのに、隣に座る彼女はまだ手を付けずいる。両手の隙間から涙目をこちらに向けた。
「……じゃあ晶くんついてきてよ」
「え? それは」
「担当編集ってことにすれば入れるでしょ」
「無理があるだろ!」
「私にハリボテやらせてる時点で相当無理あるよ!!」
「今そこまで掘り下げるか!?」
「お願い、晶くん……」
鞠は上目遣いのまま、小さい声で頼んできた。心拍数の規則が揺れるのが分かる。
水族館に行った日から、なんだか俺はこの人に弱くなった。というか、本当は最初から弱かった気がする。
目を閉じて考える。
パーティーにあの人が来る可能性は、ある。
しかし確実ではない。この出版社で書いた冊数は多くはないはずだ。加えてあれから随分時間が経ったし、髪も染めたしコンタクトにしたし、向こうは忘れているかもしれない。
「……」
「……」
「……隅で立ってるだけなら」
「ほんと!? ありがとう!」
彼女は心底嬉しそうに笑った。安心した様子でプリンの蓋を開ける。
視線を落とすと、右手に持ったスプーンに自分の顔が映っている。
ひどくぼやけて、歪んでいた。
会場は想像よりも一回り小さかった。しかし五百年という最早馬鹿げた長さの歴史を持つ老舗出版社のパーティーだけあって、内装から立食のビュッフェまで、しっかりと品が良い。
俺が隅のテーブルでワイングラスを持って立っていると、長い髪をまとめて、控え目なラベンダーのドレスを着た鞠が近付いてきた。
「晶く~ん! もう帰りたいよ~」
「あまりこっちに来るな、俺が目立つだろ。自覚無さそうだけど、君、相当な売れっ子だからね」
「そんなこと言われても」
「ほら、あれ編集長でしょ。頑張ってきて」
「うう~……」
鞠はしぶしぶテーブルを離れ、少し離れた場所に立っている小太りの男性に向かっていく。明るいその編集長となんとか会話を始めた。
俺は鞠を半分見ながら、半分で会場全体を見る。参加者は二百人ほどだろうか。顔が見える範囲にいるのはざっと三十人。そのうち男が約六割。右端から一人ずつ確認していく。
いない。俺はようやくワインを飲んだ。
「どーもどーも、山田先生」
一瞬、身体が動かなくなった。
どうにか顔を声のほうに向ける。
一人の男が他の参加者を搔き分けて、既に編集長と別れていた鞠の前に立つ。
彼女はその顔を見て「あ」と言った。
「海堂先生?」
「ああ、知ってます? 光栄だなあ」
軋んだ金髪を固めた男は、仕立ての良いスーツを着ている。歳は確か、三十代後半。口角を不自然に上げて、細い目で鞠を見下ろす。
「この度は曙文学賞、おめでとうございますう。読みましたよ、あれ。相変わらず奇抜な展開がお好きなようで」
奇抜の「き」が気味悪く強調されていた。
「……ありがとうございます」
「これで益々引っ張りだこかと思ったんですがねえ。辞退するってどういうことです?」
鞠も何かを察しているだろうが、なぜかこちらを見ずに俯いていた。圧のかかった問いにたどたどしく答える。
「私、授賞式とか、あんまり得意じゃないし」
「慣れればいいでしょうそんなの」
「それに……」
「それに?」
「賞のために書いてるわけじゃないので」
いつの間にか、三十人分の視線が、超大型新人作家と中堅作家の対立に注がれている。
海堂は歯が見えるくらいに口を開けた。
「はあ?」
鞠の身体が跳ねる。
「あの賞がどんなものか分かってます? 芥川の次と言っても過言じゃない。毎年ぽんぽん大賞出すような娯楽コンテストとは違うんだ。受賞を夢に見るまま消えていく作家がどれだけいるか」
海堂の声が少しずつ大きくなる。他の参加者はひそひそと話し始めた。
何、どうしたの? 山田アキラでしょ、あれ。曙蹴ったらしいよ。まじで。度胸あるね。表に出たらまずいんじゃないの。なんで。作家も簡単に燃えるからさ、近頃は。
人間が詰め込まれた四角い部屋に、彼女はひとりぼっちで俯いている。助けなければと思う。でも無理だと思う。俺だけは無理だ。
「辞退だと? 馬鹿にしてんのか。凡人がどんなに足掻いても手に入らないものを、踏み躙っていいと思ってんのか? これだから嫌なんだよ、ぽっと出の天才サマはよお!」
男が怒鳴ると、周囲が静まり返った。鞠は動かない。顔が青い。
「賞のためじゃないんだっけ? そんな偉そうに言うならさあ」
海堂が彼女の顔を覗き込んだ。
「あんた、何のために書いてんの?」
三秒後、俺は二人の間に立っていた。
「は!? お前」
俺は海堂の声を遮って叫んでいた。
「猿が喋るな!」
男の顔が演技のようにひきつった。
彼女の手を引いて会場を出た。
大通りから外れた道に人影は無かった。街灯が照らす地面の上を、冷たい風が通り過ぎていく。
晶くん、と呼ぶ声に気付いてようやく手を離す。俺のペースに合わせて歩いてきた鞠は少し息が切れていた。
「あ、ありがと。でも出てきちゃって良かったの?」
「俺が浴びるはずの言葉が」
「え?」
「君に降ってくる」
「晶くん」
彼女の瞳は戸惑いながらも、いつもと変わらずに澄んでいた。どこかからクラクションが聞こえる。なんて狭い星だろうと思う。
「俺がしているのはそういうことだ。目の当たりにして急に怖くなったよ」
「……」
「ごめん」
俯いたまま人と話すことが、いつ以来か分からなかった。
目が覚めると十一時だった。
乱れた蒲団の中からデジタルの置時計を見て、今日か、と呟いた。
分厚いカーテンの隙間から、綺麗な色の日差しが漏れている。音は無い。まだ蒲団に残る熱が心地良い。
布の間に戻って深く息をする。
正式に発表される前に辞退したから、世間に情報は出ていないはずだ。この前のあれは一部の作家や関係者に知られていた結果であって、大衆から非難を受けるようなことにはならないだろう。
俺たちが変わらなければ、この先も何も変わらない。まだ壊れていない。
でも、これ以上、彼女に身代わりをやらせて良いのだろうか。
愚かしい。これまで平気で押し付けていたくせに、急に善人ぶって罪悪感持って、合わせる顔が無いとか、ただ狡いだけの理由で二か月も引き籠もっている。
きゅう、と身体に不快感が滲む。腹が減った。起き上がってぼんやりと壁を見る。
そんなに後悔するなら、今すぐにでも辞めさせれば良いと分かっている。
でも、ごめん。まだ答えられる気がしない。というか。
「何を選べば良いのか分からないんだ……」
目を閉じて俯く。
そのとき、イルカのぬいぐるみと嬉しそうな顔を思い出した。
「………………」
二分葛藤してからベッドを抜けて、パソコンの前に座る。
検索エンジンを立ち上げて、アカウントを使わずに、ゲストモードで文字を打ち込む。
大量のワードミュートから解放された検索結果の波から、上位に表示された個人ブログを開いた。
【ゆきむらのぽくぽく読書日記】
はい、こんにちは。最近急に暑くなってきましたね。ゆきむらは先日遂に、冷やし中華始めました、なんてね。
いつも僕が読んだ本の感想を主に発信している当ブログですが、今回はちょっと路線を変えて、少しニッチな、幻の作家のご紹介をしてみようかと思います。二年前に読書家の間で話題になって、というかちょっとだけ燃えたんですよ。通ならもう誰のことか分かったかな。
彼の名は樋山晶太郎。当時なんと十七歳の超早熟です。
彼はぱっと出て燃えてぱっと消えた、現在は活動していない作家です。なんか花火みたいですね。いや、読書ブログですから『火花』かな?(笑)
騒動を詳しく書こうと思ったんですが、ウィキに全部書いてあるんですよね(笑)!ということでここではもっと嚙み砕いて、分かりやすく概要をお伝えしようと思います。樋山晶太郎なんて知らないよ! って人も安心してくださいね。
樋山晶太郎の唯一の作品は『灘』。これまたシンプルな、純文学あるあるなタイトルのサスペンスです。もう絶版してます。樋山は『灘』で、二〇一四年のマルカワ新人文学賞大賞を受賞してデビューしました。これ、結構すごい賞なんですね。
で、授賞式は準大賞を取った海堂慎二と一緒に行われました。海堂は今も執筆してますね。メディアとかもたくさん来てるなかで、樋山と海堂が会話する場面がありまして、そこで事件は起きました。(この先の会話は僕の記憶で書いてるんで、ちょっと違ってたらすみません。)
海堂が「いやあ、勿論準大賞も光栄ですが、まだ学生の樋山さんを目の前にすると、やっぱり悔しさはありますね。若いっていいなあ」と言ったんです。海堂の作品って、色々な賞のノミネートまではいくんですけど、あんまり大賞とか、要するにてっぺんにはいけないんですよね。本人もそれを気にしていたようです。で、これに対する樋山の返しがこちら。
「貴方にも学生時代があったはずだ。なぜ俺にしかないものみたいに言うんです?」
これをカメラの前で言うんですよ? これまた放胆な…(笑)。
海堂は長く活動していて固定ファンが多いので、樋山はネットでまあまあ叩かれていましたよ。でもコアな純文学読者しか知らないような賞で、芥川とかほど話題にはなっていませんし、それ以来樋山が文学界から消えてしまったので、この一件を知る人は少ないでしょう。『灘』、超面白いんですけどねー。いつかまた書いてくれないかな。まあ復活したら、この騒動掘り出されてまた燃えそうなんで、難しいかな。
ブログを閉じて、無駄に高い天井を見る。
もう、誰の感想も聞きたくないと思っていた。
なのに、彼女に俺の話を好きだと言われたとき、困るくらいに嬉しかったんだ。
矛盾している。俺の感情はこんなものばかりだ。何を聞かれても、簡単に答えなんか見つからない。
画面に向き直り、もう一度検索結果をスクロールしてみる。
ニュースサイトの見出しが目に飛び込んできた。更新日時は三時間前。
【山田アキラのゴーストは樋山晶太郎? 大人気新人作家の闇】
立ち上がった弾みで椅子が倒れた。
それ以上身体が動かない。どうにか視線だけを左右にずらす。
テレビの横に置かれた水色のイルカと目が合った。
目の前の女の子が俺を睨んでいる。
「改めて、君が棚田鞠さんだね」
「なんなんですか……急に人の家に押し掛けてきて」
俺は今、彼女の部屋にいる。ペットボトルやカップ麺のごみが卓袱台を埋め付くし、床には皺だらけの衣類。隅を見れば埃も目立つ。典型的な引き籠もりの汚い部屋だ。
服と本をどかして作ったスペースにあぐらをかいた俺は、卓袱台越しに正座する彼女の目を見た。
「俺は樋山晶太郎。君と同じゼミの同級生だ。君に話がある」
彼女のことは予め教師や生徒に聞いてきた。
棚田鞠、日本文学科在籍の二十一歳女、部活動、サークル無所属。大学入学と共に上京してきた一人暮らし。生来かつ極度の引っ込み思案により、二年の秋まではなんとか登校したが、それ以降は自宅に閉じ籠もるようになった。暗記科目の成績のみが異様に優れている。
「君、もう四年の五月だというのに、ほとんどゼミに出ていないだろう。このままだと卒業できないよ」
「……分かってますよ」
「でもうちの教授はあまり出席を重視しない。かなりの結果主義だから、まともな卒論さえ書ければ単位を貰えると思う」
彼女がきょとんと首を傾げる。
「いや、ゼミに出ないと卒論は書けないんじゃ」
「俺が書いてやる」
「え?」
「俺が君のゴーストになるよ。独学でやったとか適当に言って、君の名前で提出しろ。その代わり、卒業できたら、俺の頼みを聞いてほしい」
「なっ、何言ってるんですかあ!? 意味分かんないし、そもそも貴方同じゼミなんでしょ、文体とか、なんかそういうのでばれるんじゃないの!?」
「大丈夫だよ。絶対」
「なんで!」
長い前髪から覗く瞳は、髪と同じ墨色で、初めて見るのに心地良い。
利用できるなら誰でも良かった。自分が最低でも構わなかった。でも本当は、あの瞳を見たときから、この人の隣で歩いてみたかったんじゃないのか。
何も気付いていない俺は、偉そうに笑いながらこう言ったんだ。
「演技するのは得意なんだ。紙の上でならね」
人混みを掻き分けると、白い会議机の前に座っているのを見付けた。
「えっ、晶くん?」
鞠が素頓狂な声を出す。隣に立つ担当編集は彼女よりも驚いている。俺は普段編集部にも顔を出さないから、尚更意外だったのだろう。
会議机に両手を突いて彼女に顔を寄せた。
「……なんでいるの」
「え」
「なんで逃げないの。知らない訳無いだろ。何言われるか分からないよ」
「……だって、当日にいきなり中止できないし、それに」
二ヶ月ぶりに見る瞳は、戸惑いながらも変わらずに澄んでいる。
「好きな作家さんの新刊の発売日だから」
話題の新人作家の、奇しくもゴースト疑惑が出た当日に行われるサイン会。大型書店に設けられたイベントスペースの中央で話す俺たちに視線を浴びせるのは、報道関係者は勿論、小学生から老人まで幅広く、ざっと七、八十人はいると思う。通りがかりの野次馬もどんどん増えていく。やけに白い蛍光灯がわざとらしい。
警備員の制服を着た男が今更駆けてきて、慌てた顔で「誰だ君は!」と叫ぶ。
「ゴーストだよ」
「えっ?」
「樋山晶太郎! 俺が山田アキラのゴーストだ!」
一斉にざわついたギャラリーに構わず続ける。
「いるんだろう、海堂!」
しばらくして、人混みから軋んだ金髪の男が出てきた。その顔はひきつっている。
「……まさか、こんな豪快に開き直るとは思わなかったよ」
「君が流したんだろう」
「何のことだか。俺はただサイン会に来ただけですよ」
「あの件は悪かった」
「はっ?」
海堂の間抜けな声が響いた。周りの人間は全員、黙って男同士の一騎討ちを見守っている。報道のカメラだけではなく、こちらに向けられたスマートフォンもいくつかある。もう隠れられないな。そのつもりで来たけど。
「俺はさ、口下手なんだ。昔から」
「何だよ急に」
「無駄に考えることが多いんだ。発言しようとすると、言葉の選択肢とか、言い回しとか、どこまで本音を言うかとか、急に頭が埋め尽くされて混乱する。適当に選んだら間違える気がする。でも黙りこくるわけにもいかないから、結果的に中途半端な推敲になってしまうんだ。悪気は無いんだよ? 信じてもらえないけど」
「え、じゃあ、猿が喋るなとか、学生時代はあったとか、あれ全部」
「悪気は無い」
「お前人間向いてねーーーよ!!!!!」
君はツッコミに向いていると思う。
「でも、文章なら得意なんだ。自分のペースでいくらでも推敲できる。ずっと紙の上が居場所だった」
居場所だから、そこにいた。でもそれだけじゃなかったようだ。
「君は先日、何のために書いているのかと聞いたね」
授賞式では横にいて、パーティーでは鞠を挟んでいた。初めて海堂に正面から向き合って言う。
「俺は寂しいから書いているんだ。言葉にできない分、少しでも自分が投げたものを受け取ってほしい。勿論君にもだ」
彼が目を見開く。
「勿論会話も上手くなるように努力するが……すぐには無理だろうからね。丁度良いことに、君も物書きじゃないか。今後のご意見は紙の上で頼むよ、海堂先生?」
俺が話し終えると、場が静まり返る。居心地悪そうに棒立ちする海堂は、しばらく唇と眉をこねたあと、糸が切れたように「今度は俺も燃えるなあ」と肩を落とした。
「なにお前。急に素直になったじゃん」
彼も自分も、どこか清々しく見える。花のにおいが吹き上がってくるような気がして笑った。
「目の前にあるものを選んだだけだよ」
「蜂蜜だよ」
「えっ?」
鞠は当然のように言った。
「道草堂のプリンは、砂糖の代わりに蜂蜜を使ってるの。ここに書いてあるよ、普通に」
結局開催されたサイン会の二週間後。いつものリビングでいつものプリンを食べながら、鞠はプリンに毎回付いてくる商品紹介の小さなパンフレットを指す。手に取って読んでみると、製法が書かれた欄に、蜂蜜の表記がある。普通に。
「……気付いてなかった」
「隠し味だと思ってたの?」
「うん」
「隠れてなんかないよ、最初から」
鞠はそう言って可愛く笑った。
「……君は」
「うん?」
「好きな人がいると言っていたね」
「えっ、う、うん」
「誰?」
「へっ!? っうわ!!」
彼女がプリンを落としそうになった。
「大丈夫?」
「きゅ、急になんで聞くのお!?」
「君の恋愛を小説にしたとき、相手が俺じゃないのは気に食わない」
「はああ~~~!?!?」
プリンと一緒にソファから落ちた鞠は、墨色の髪の隙間から真っ赤な顔を覗かせる。
「そもそも君に俺以外との交友関係があるなんて聞いてない。名前は言えないにしてもどんな奴なんだ」
「え、……晶くん、もしかして」
「何」
鞠は頬を染めたまま、呆れたように息を吐いた。そして食べかけのプリンを見つめながら、小さな声で話し始める。
「……かっこよくて、仕事ができて、いつも私を見ててくれる人」
「そんな都合の良い男はいないんじゃないか?」
「黙ってて! もー、ほんとに……デリカシー無いし、すごく不器用だし、でも本当は優しくて、口下手なのに、いつもちゃんと、目を見て話してくれるの」
「はあ」
「あと、プリン買って来てくれる」
「へえ、そうか…………………………え?」
鞠は拗ねたように言った。
「気付いてなかったの?」
ゴーストハニー 洗う @koredakarajinnseiha
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