4 月光の死闘

 月夜の下で永山は地平線を見つめていた。ダイビングスーツをすでに着ている。あとは運営側の準備を待つだけ。

 告げられたときには少し戸惑った。


「今回は夜の海だ」

「夜?」


 あらゆる事態を想定してシュミレートしたが、夜の海というのは頭に無かった。

 サメは夜目が利く。暗闇に乗じて獲物を襲うことも可能だ。


 それに対して渡されたのは懐中電灯1本。あまりのお粗末な手段に戦意を投げ出すしかなかった。


「やっぱり止めておけばよかったよ」


 残してきた家族を思う。なんとしても賞金を持ちかえらなければ未来はない。自分にも、家族にも。パートで働いているおっとりとした妻が取り立てに追われるなんて想像もしたくなかった。

 それに涼太。県体に出て去年もいい成績を残した。水泳はこの先も続けてもらいたいと思っている。


 スマートフォンは日本を出立するときに割ってきた。もう写真さえ見られない。頼りは頭に叩き込んだサメの習性だけだ。


「永山さん、出番だ」


 ふり返ると矢代が呼びにきていた。永山はなにもいわずに立ち上がった。



       ◇



 不気味な赤い月が笑っている。衆人環視の中、永山は海水に身を浸した。

 悲壮な覚悟で望んだものを嘲笑う異常者ども。怒りも恐れもなかった、集中し切っている。


 ゆっくりとゲートが開かれて、侵入する。ここから先は牢獄、逃げることはできない。施錠されて閉じこめられた。制限時間は10分間、5匹のサメから逃げおおせるだろうか。

 ゲートが閉まるとインカムから声がした。矢代だった。


<できるだけ潜水はしないでください>


「そんなルールはないな」


<下手に出てんだよ、態度に気をつけろ。ショーになんねえんだよ>


 面の皮などすぐ剥がれる。従うことは戸惑われたが、不満を抱かせるとサポートに響く可能性がある。覚悟を決めて宙空を泳ぐように水を掻いた。


 月明かりが後光ごとく注ぎこんでいる、ごく静かだ。波もそんなに立っていない。

 暗闇に照り返る幻想的な光景をひたすら警戒している。


 懐中電灯を照らすと暗闇に浮かび上がるように白い魚影が見えた。ホホジロサメだ。ふっくらと丸みを帯びた形の、目測で4メートルくらいあるだろうか。これで小さいと思えてしまうから奇妙な話だ。


 彼の敵はヒレをふるい死神のように忍び寄る。

 どうする上へ逃げるか、下へ逃げるか。心拍が大きくなる。


 あのB級映画が思考を過った。姿も見ずにタイミングよく避けるがそんな話は無しだ。フィンを大きく動かして右へ。サメはグライダーのように旋回する。檻が思った以上に広く、縦横無尽に動けている。


 一度かわしたサメは加速をつけてアタックする。感情の奔流が湧きおこった。

 身を留めて、向き合うと恐怖が膨れあがった。喉が絞られる。


「くっ」


 対峙しながら、身をかわす。こいつはそんなに鈍くない。

 水に逆らわずに身をひるがえす。


 なんとか逃走して、一つ目のバーに近づくとホホジロザメは諦めた。進行方向の右手を見るとすでにアオザメがいる。こいつは速い。サイズこそ3メートル程度だが、貪食だ。キレたようにこちらを警戒している。

 しばらく留まった、呼吸が整わない。


<永山さん>


 深く呼ばれてけしかけられているのだと気づいた。


「急くな、いくさ」


 心を決めるとアオザメのゾーンへ。

 怒涛の猛追が始まった。




 潜水はするなといわれたが、仕方が無かった。ショーにはなっている。攻撃が止まないうちはそうだろう。

 アオザメはある種獰猛で、小回りが利く分しつこい。流線型の体を加速させながら的に定めて揺らがず突きこんでくる。

 指先が触れた。そのまま弾き飛ばすように加速する。ダイビングスーツを鋭利な歯がかすめる。


 光では追い切れずにその後、消失した。


 海中は静かになった。吐いた気泡だけが静かに音を立てている。

 懐中電灯を四方へ照らしてみるが、姿は見つからない。


(どこへいった)


 心臓が突きあげるように高鳴っている。いない、どこにもいない。

 背後でがしゃんという金属音が聞こえた。

 反射的にふり向くと隣の通路のサメがパイプにかみついていた。


(違うか)


 前方をふり向くと大口が裂けていた。



 

 急に迫った危機にボンベの息を吐き切った。無数の泡につつまれて視界が明晰でない。

 動揺して逃れるようにバーを探す。進み過ぎていた。前方後方どちらも遠い。

 泳ぎ方を忘れたように水を掻く。溺れたように進まない。


 動揺の隙に懐中電灯が手から離れた。


「しまっ…………」


 光は無作為に回転しながらゆっくりゆっくりと海に落ちていく。


(止まれ、止まってくれ!)


 懐中電灯は檻にかろうじて引っかかった。

 即座に拾いにいく。だが、焦って抜けない。


「くそっ」


 金属音が激しく鳴る。冷や汗が止まらない。

 本体を縦にするとようやく抜けた。反動で体が浮く。


 奔流を感じて、視線を上げると横向きでえぐるように歯牙が迫っていた。




「はあ、はあ、はあ…………」

 永山はなんとか次のバーへとたどり着き、一命を取り留めたが手元に懐中電灯はない。

 アオザメの大口をかわすために口の中へストッパーとして突っこんでしまった。


 頼りは月の光だけ。死海で打ち寄せる波に揺られている。

 檻の外で小さな魚に反射した光がキラキラと美しかった。その微かな光もさあっと遠くへ流れてゆく。


<永山さん、よかったじゃないか>


 バーをにぎる手に力がこもった。


「よかっただと、ふざけるな!」


<まあ、落ち着け>


 悔しさに歯を擦り合わせた。この焦燥も演出のうちなのだろう。


「これで喜ぶ人間がいるのか」


 話すのさえ苦しい音で心臓が轟いていた。


<ああ、そうだ。引き続き上手くやってくれ>


(上手く。死ねということか、生き残れということか)


「どっちでもいい」


 永山は身を任せるように次のゾーンへ漕ぎだした。




 告知であったメガロドンは一向に姿を現さない。だが、そろそろくる。予感していた。肌が粟立って仕方ないのだ。

 前方の暗い海で月光がなにかに反射している。


 魚影だ。小ぶりだ、おそらく4メートル級。メガロドンじゃない。


 潜水してかわそうとした時、呪いのような恐怖が下から突き上げた。


「がっ」


 暴発したように波が弾む。

 永山の上半身が水上へ高く突きでたと思ったら一気に沈んだ。


 そのまま下半身を引きこまれる。メガロドンだ。黒い背が闇にまぎれて認知できなかった。メガロドンは永山を咥えたまま加速していく。

 体をひねり、切り裂くように大きく身悶えすると血が噴射した。


「あががっがああ」


 何とか滑りだそうとするが右足が抜けない。痛みで手に力が入らない。

 大きくのたうったあと、永山は海へ放たれた。

 神経が切れたのか、足の感触はない。


 確認すると右足は喰われていた。


 傷んだ魚のように安全バーへたどり着くと嗚咽した。

 魂の底から無理だと、叫んでいる。


「何分残っていますか」


<あと3分ある>


 出血多量で死ぬ。

 永山は泣きながらダイビングスーツを脱ぐとそれで右足を縛った。先へは進めない。泳ぐのはもう無理だ。

 留まっていると血のにおいでサメが集まってきた。


 でも、もうメガロドンはこない。確信があった。

 サメは一度かじって脂のノリを確かめる習性がある。人間を二度はかまない。好む獲物ではないからだ。


 本当にそうかい?


「ああ、そうだ。たしかにそうだった」


 頭のなかの誰かと会話する。遠くに魚影が去っていった。これで悪魔はいなくなった。

 安堵のなかに意識が朦朧としている。揺蕩いながら何とか自我を繋ぎとめていたが。しばらくして冷静になり、消えたのは檻の外に群れていたサメの姿だということに気付いた。


 神経が逆立った。


 メガロドンはどこへいった。どこへ。

 足元から迫る巨大な気配があった。電車で聞いた若い言葉が耳の最奥を打つ。



――飢えているのさ。



 裂けるほどに目を見開いた。開き切った大口が景色を飲みこむ。すべての希望が消失した。

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